逸漣 / 第5話

5. 最終話 ほんの少しだけ笑った

 美紗が学校に行っている間は、お母様が時々様子を見にくるのと、朝昼兼用のご飯を持ってくる時間以外は自由になった。  美樹の部屋には本が沢山あるが、十歳で亡くなったため、児童書ばかりであった。  しかし児童書もよく出来ていて、薬漬けの頭でも面白いと思えた。中でも、この「怪盗ルチアーノ」シリーズは大好きだ。  「怪盗ルチアーノ」シリーズには美麗な挿絵があり、彼がいつかわたしを攫ってくれるのではないか、という妄想に時々浸る。  小さくなった鉛筆を隠し持ち、歩きながら本を読む。  そして必要な文字を見つけると、サッと丸を打つ。  紙の上の小さな円は、消えていく『わたしの自我』が必死に残した傷跡だった。  一巻から十巻まであるこのシリーズの丸を順番に読むとこうなる。  わ、た、し、は、ち、あ、き、で、す、。、せ、ん、ぱ、い、の、た、ん、じょ、う、び、か、ら、か、ん、き、ん、さ、れ、て、い、る、。た、す、け、て、。  誰かが見つけてくれる日は来るのか。その時、わたしは生きているのか。  それはわからない。しかし、わたしは部屋を歩きまわることも、布団の中で足を少し浮かすこともやめない。  それだけが、わたしが「千秋」である証なのだから。  そして、夕方のお婆ちゃまのお話の時間。二重扉の鍵を握ったまま、お婆ちゃまは椅子に座り、今日も『美樹』の思い出を話してくれた。  お話が終わる頃、わたしはベッドから立ち上がり、お婆ちゃまの手を握った。 「わたし、お婆ちゃまが大好きよ……」  そう言って、お婆ちゃまの手から奪った鍵で扉を開ける。  一枚目の扉の向こうにある二枚目の扉を開けると、そこには美紗、お父様、お母様がいた。 「そろそろ、お婆ちゃまの時間に動き出す気がしていたの。ちゃんと待機していて良かったわ」  三人がかりで無理矢理、外されたはずの拘束具を取り付ける。 「やめて!痛い!痛いよ」  お母様は申し訳なさそうな顔をして、 「これは美樹のためなのよ。ごめんね、早く美樹に|な《・》|っ《・》|て《・》ね」  美紗は眉を引き攣らせて 「だから言ったじゃない。失望させないで」  と、小声で言った。 「……ごめんなさい。廊下に出て……トイレに行ってみたかったの」 「そうだな、トイレを先に部屋に作っておくべきだったな。美樹……すまん」  お父様が申し訳なさそうに言うと、お母様が 「二階をまた改築して、この部屋からトイレまでの廊下を区切ったらどうかしら?良かったわね、美樹。お父様にお礼を言いなさい」  皆の朗らかな笑い声が、この部屋に響く。  美紗も嬉しそうに微笑む。  お婆ちゃまも、一安心といった笑顔を見せた。  わたしも、少しだけ笑顔を作って見せた。  ──ほんの少しだけ。

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