アカトキ / 第16話

拾陸話目:キンモクセイ

渡会…視点主。 薬売り…おきぐすりを売る薬売り。とても大きい。 ジロー…忠犬。 だんなさん…お隣のだんなさん。大工。 江ノ本…亡友。 キンモクセイ(金木犀)…モクセイ科モクセイ属の常緑小高木で、ギンモクセイの変種。秋に橙黄色の花を咲かせて甘い香りを放ち、ジンチョウゲ、クチナシと合わせて、日本の三大芳香木の一つに数えられています。中国では茶や菓子として食す文化があります。尚、日本に在るキンモクセイの個体は全て雄株です。キンモクセイの花言葉は、「初恋」「陶酔」「謙遜」「真実」。
 神無月《かんなづき》の初週。  薬売りが”《《おきぐすり》》“の補充に来た。丁度原稿料も入ったので、私としても良い時機《じき》ではある。 「やや、如何《どう》も如何も。お久し振りでさァ」 「久しいな、薬売り。少し減ったから、補充して呉れ」 「はいよ、毎度!」  大きな体を縮こまらせて入って来た彼に、折角なので加密列《かみつれ》の茶を振舞ってみた。此間《こないだ》の、ジョンから貰った土産である。物珍しいのか、感嘆の声を梟《ふくろう》の如くほぉほぉ上げつつ茶を啜っていた。商売に取り入れられないか、ともぶつぶつ呟いている。抜け目の無い男である。  其の際に最近あった奇妙な話を聞かせると、彼は相対的に小さく見える湯呑を摘まみながら、目を丸くしていた。 「ほォ~。…ホテイアオイの、暇乞《いとまご》い、ですか?」 「何だ、よくある話じゃないのか」 「あッたら凄ェですよ、渡会《わたらい》の旦那。いやはや特異な御仁だなァ」  先日の、早朝の事だ。見知らぬ子供の声に起こされて渋々目を開けると、枕元に青紫《せいし》の紬《つむぎ》を来た男児がぴしりと正座していたのだ。 「…渡会様、渡会様。起きて下さいませ、朝早く申し訳有りませぬ」  甲高い、幼子特有の舌っ足らずな声音だった。  寝惚け眼の私は何が何だか判らず、ええあぁはいとか生返事をしていた記憶が有る。  半身を起こしても全く覚醒出来ない儘《まま》だったが、男児は気にすること無く其の場で深々とお辞儀をして見せた。 「わたくし、貴方様に御世話をして頂いた者で御座います。本日は、春までの暇乞いに来た次第です」 「はぁ、いとまごい…」  話が半分ぐらい耳から流れていたが、何とはなしに仕事を辞めるつもりであるのは理解出来る。しかしながら、誰ぞに仕事を任せた記憶が無い。人を雇える程、懐が温くなった時分も無い。 「冬はまっこと立ちいかぬ季節故、御許し願いたく。少々早くはありますが、見送って下さいませ」 「わ、分かりま、し…た?」  此処でようやっと頭が目覚めて来たが、男児は既に半身を透き通らせ始めていた。人ならざる相手である事に気付いたものの、既に遅く。 「此のホテイアオイ、初めて御家を賜《たまわ》り幸甚《こうじん》の至りで御座いました。願わくば、次の年もあの場所を御貸し頂けたらと存じます。…其れでは、御免」  絶句する私を他所に、男児は消えて行って仕舞ったのである。 「――んで、睡蓮鉢《すいれんばち》を見たら、消えていたんで?」 「いや、消えてはいなかったのだが。何だか、昨日と比べると明らかに枯れ果てていてな…」  此の家のホテイアオイと言えば、掛け軸の物か、睡蓮鉢にちょこんと咲いていた物の何方かしか無い。 「私が世話をしていたのは、睡蓮鉢の方だからなぁ。其方だとは思うのだが」 「まァ、そうでしょうな。違いねェや」  其処まで聞いて、薬売りは苦笑いをした。 「しかし、何とも澄ました奴ですねェ。世話になったのは、ホテイアオイの方じゃないのかね」 「其れはそうなんだが。…まぁ、小さくとも生きている姿を見て、度々和んではいたよ。駄賃《だちん》は充分《じゅうぶん》さ」  やれやれ、旦那は懐が広いと眼前の偉丈夫《いじょうぶ》はまた笑う。自慢では無いが懐はそこそこ広い、いや常に寒くはあるのだが。  帰りがてら、薬売りは嗚呼と思い出したかの様に振り返った。 「そうだそうだ。旦那、今夜は野分《のわき》が来るそうでして」 「野分かぁ。ちと困るな、瓦が飛ばねば良いのだがなぁ…」  野分が来るとなると、ありとあらゆる物が飛びかねない。ジローも玄関に避難させるべきだろう。 「旦那もひょろりと軽そうだし、うっかり夜に外出ちゃァいけませんよ。それじゃあ…ん、おや、此奴《こいつ》ァキンモクセイだ」 「あぁ、裏手に生えているんだ。…そうだ、野分が来るなら散ってしまうなぁ」  行李《こうり》を背負った薬売りの足下に、橙《だいだい》色の小さな花が無数に落ちていた。風に乗って流れて来た様だ。  実は、台所の裏手辺りにキンモクセイが生えている。最近満開になり、家の中にも馨《かぐわ》しい芳香を届けて呉れていたのだが…繊細な花故、恐らく野分で散って仕舞うだろう。残念である。 「良い匂いですねェ。そういやァ清《しん》の方じゃ、キンモクセイは砂糖菓子やら茶にしたりするそうですよ」 「ほお、何とも風流だな。香りを愛でる以外にも、遣れる事があるとは」 「散るのが惜しいなら、今の内に集めといても良いかもしれやせんね」  そいじゃあまた、と薬売りは今度こそ去って行く。多めに補充して払ったので、双方欲しい物が潤った。良い取引である。  座敷に戻り、縁側へ出る。少し風が強くなり始めており、庭の草木は此れから来る野分を憂う様に揺れていた。 「ジロー、居るかい」  忠犬の名を呼ぶと、彼はウワミズザクラの傍らからひょこりと顔を覗かせた。庭を散策していたのか。  何か有りましたかと縁側まで歩いて来た彼に、私は良いかねと指を立てた。 「今宵は野分が来るそうだ。なので、寝床は玄関におし。…そうだ、小屋も入れておくべきか?」  私の独り言にジローがわんと返す。同意なのかは判らないのだが、兎も角威勢は良い。  祝いの替わりに造った小屋なので、風でぴゅうと飛んでも困る。引き摺れば私でも運べるだろう。  一事が万事早い方が都合は良いので、小屋を仕舞う事にした。  玄関に回った私へ心配そうにジローが寄って来たものの、畜生の身では手伝い様が無い。危ないので庭に居なさいと言い聞かせ、小屋の下部を支えて持ち上げようとした。 「んっ…?!」  が、何かが引っ掛かかっているのか、がたりとしただけで動かない。  彼《あ》れや此れやと四苦八苦していたが、全く動かず途方に暮れる。  恐らく、設置した際に何処かがかっちりと嵌まってしまったのだろうが、素人目では原因を掴めなかった。  困った。其の儘にするしかないのか。うむむと玄関先で唸る。 「よぉ…渡会さん、如何したんだ?」  唸っていたら、珍しくお隣のだんなさんが顔を出した。矍鑠《かくしゃく》とした五十代程の、胡麻塩頭《ごましおあたま》の男性だ。常に顰《しか》めっ面なのだが、そこそこの付き合いを経て、唯《ただ》不器用なだけだと私は知っていた。ジローにも私にも、優しい御仁である。 「嗚呼、立花さん。いえ、野分が来ると聞きまして…」  仔細を話すと、彼は腰を叩きつつジローの小屋へと遣って来た。  しゃがんで暫く様子見をして、中腰の儘此方に向き直る。 「…此奴ぁ、あれだ。いっそ杭とかで、こう、固定しちまいな」 「な、成程…」  素人には及ばない発想であった。私の考えが浅いだけやも知れぬ。  更にちと待っとけと一旦隣へ戻っただんなさんは、杭と縄と槌を持ってきた。感心する私と、興味深く傍らで畏まるジローを他所に、あっという間に小屋を固定して見せる。鮮やかな手際だ。  流石の現役大工と言うべきか。本業の腕前は、矢張り別次元である。 「どれ、こんなもんかいの。…此れなら飛ばんさ」  だんなさんは、横で尾を振るジローの頭を満足そうに撫でている。 「おお…いやぁ、流石ですね。其の、態々宜しかったのですか?」 「何、うちの補修はもう終えとるでな。ついでさ、ついで…うん、他は良さそうだの」  顰めっ面を少しだけ和ませ、だんなさんは旧|江ノ本《えのもと》邸の庭を一望して去って行った。  せめて茶か食い物か、何某かの礼をしようと思っていたのだが、要らぬと言わんばかりに手を振られて仕舞う。ちょっと耳朶《じだ》が赤らんでいた。  職人気質の無口な御仁は、少々照れ屋でもあるのだ。褒められるとむず痒いらしい。 「有難う御座いました!」  しかし何もせぬのは据わりが悪いので、ウワミズザクラの酒を後日振舞う事にする。もうそろ飲み頃だろう。  扨《さて》、だんなさんのお陰で小屋の問題は消えた。後は雨戸を閉めるのと…。 「庭の様子も、見ておくかね」  曲がりなりにも家守《いえもり》なので、庭木の状態は知っておくべきだろう。幸い、今は手元に急ぎの仕事も無い。 「池は…嗚呼、濁っては来ているなあ。まぁ、増水で溢れはしない…のか?」  長梅雨の頃も溢れはしなかったので、しないと信じたい。  何故かジローも神妙に着いて来る。散歩の気分でも無いのだろう、庭の散策で気を紛らわせたいのだろうか。  秋の真っ只中である庭は、赤や橙に色付く葉が多い。目にも鮮やかで、歩く度に新たな発見がある。昨日は緑だった葉が、薄く黄色に変わっていたりするのだ。生命の移ろいを間近に感じて、趣深くなる。 「ウワミズザクラよ、お前は如何だ? うーん…」  ウワミズザクラも、此の地に根を下ろしてから、かなり時を経ている筈である。よくよく観察すると、洞《うろ》が空いていたり木肌が彼方此方《あちこち》剥けていたりと、歳月の証を感じる。  しかし、風に煽られて倒木する弱さがある様には見えない。偏《ひとえ》に、前任の家人である恩師が上手く世話をしていたが故か。 「洞は有るが、其れぐらいか…」  植物に話し掛けている姿なぞ誰かに見られたら、正気を疑われそうである。だが、此のウワミズザクラが、私に悪しからぬ感情を抱いている事を知っている。  何なら夏の頃に、漸く本人――いや、植物に人と付けるのは不適切だが――…と、喋った。  なので、意思疎通の為に話し掛けるのは、間違ってはいまい。 「お前さん、何処か弱っている箇所はあるか? …野分が来るそうでね、庭の草木が心配になったんだ」  洞が空いている辺りは、藁《わら》と紐で補強して遣るべきかと考えていたが。  そう尋ねてみると、私に近しい枝が微かに此方へと傾いだ。何か教えて呉れるのかと、私の顔も其方に近付く。  が、話し掛けられる事は無く。替わりに、其処にウワミズザクラの落ち着いた色合いには、不適な物が付いていた。 「此れは…キンモクセイの花か」  キンモクセイは庭の裏手にある。偶《たま》さか、此処まで飛んでくるとは。  雫を与うるが如く、私の掌に其れを落としたウワミズザクラは、満足した様に枝を戻す。  此れは。…詰まる所助けを求めているのは、己では無いと言う事なのか。 「ふぅむ…詰まり、あれかい。此奴を助けて遣れ、と?」  首を傾げると、ウワミズザクラがざわりと枝葉を揺らした。肯定の意と受け取る。  有難うと別れて、裏手へ回ってみた。 「嗚呼、もう既に香りがするなぁ」  近付くだけで、キンモクセイの強い芳香が漂って来る。台所に居てもふわりと香るので、外へ出ればより馨しさに溺れる様な錯覚に陥る。  まるで、キンモクセイの海に居る心地である。 「どれ――おやまぁ」  一昨日は何とも無かった筈なのだが――…今見に来たら、何とも可哀想な事になっていた。  ずんぐりむっくりとした青大将《あおだいしょう》が、どっしりと存在を主張していたのだ。伸ばしたら私の身長等、優に越しそうな大物である。下側はしっかりと幹に捕まって、上は落ち着ける場所で蜷局《とぐろ》を巻いていた。遣って来た私を見て、ちろりと舌を出す余裕まである。身の丈も肝も太い蛇である。  更には何処から飛んで来たのか、大きな木板が真っすぐ伸びた幹に寄り掛かっている。何時の間に。  此れは助けを求めるのも無理は無い。玄関やウワミズザクラに飛んできていた花は、助力を願うキンモクセイの悲鳴だったのだろうか。 「此れは、如何するか…」  しかし困った。  蛇は苦手では無いが、飛び掛かられたら敵わない。貧弱が服を着て歩いている自覚があるので、退かすために争ったら恐らく負ける。情けないが、確実に負ける。  木板は人力で何とかなるが、問題は青大将なのだ。  キンモクセイの為にも、せめて木板は退かして遣りたい。だが襲われたくはない。  話が通じるかは定かではないが、恐る恐ると話し掛けてみる。  此処に越してから奇怪な事に度々遇うので、私も段々慣れてきてはいた。人は順応するのだ。 「其の、あ、青大将、殿。…あ、貴方に危害は加えないので、其処の木板を退かしても、構わないかね?」  果たして通じたかは不明だが、青大将は瞬きをして、ちろちろと多めに舌をちらつかせただけだった。  蛇との意志疎通なぞ初体験故、返答の意図を測りかねる。ちろちろされても判らない。 「うーん…」  困って半端に手を翳《かざ》し牽制《けんせい》した儘|佇《たたず》んでいたが、救いの手が差し伸べられた。隣に居たジローである。  彼はずい、と前に出て鼻をぴぃぴぃと鳴らし始めた。青大将は、今度は其方へ視線を向ける。鎌首がゆっくりと上下して、ジローは何度か小さく鳴いた。  首肯する様な青大将の動きに、不思議な心地になる。まるで、会話をしている様ではないか。いや、実際しているのか?  犬と蛇で会話が成り立つかは不明だったが、青大将はゆっくりと蜷局を解いて、渋々とキンモクセイから滑るように下りていく。  そして私から離れた位置――…壁に立て掛けられた物干し竿の辺りで止まると、其処で再び蜷局を巻いて落ち着いて仕舞った。 「……お、おぉ?」  暫く呆然としていたが、ジローに優しく吠えられ我を取り戻す。  傍らの忠犬を見ると、首を傾げて此方を見詰めていた。  …此れは、ジローが青大将を説得して呉れたのか?  そうらしいのだが、此の有り様を見ていたのは私だけなので何とも言い難い。 「あ、有り難う。ジロー、青大将、殿…?」  しかし、偶然とするには余りにも二匹の所作が意図を含み過ぎていたので、取り敢えず何方にも礼を言った。  ジローは畏まって青大将はやれやれと目を瞑ったので、益々狐につままれた心地になる。なったが、気を取り直してすべき事を優先する。 「…ど、どれ。待たせたな、今退かして遣ろう」    木板の方はあっさりと退去願えた。  しかし壁に立て掛けたらまた問題が起きそうなので、台所の勝手口を開け、室内へと移動させた。野分の後で、何某かの修繕に使えなくもなかろう。  他に何かしらの問題が無いか観察してみたが、大丈夫そうではある。 「お前さんは…傷んだ箇所は無さそうだな」  木板の所為で枝は幾つか折れ葉も散っていたが、目立つ疵は無さそうだった。もしかしたら、青大将はキンモクセイにとって其れ程の脅威では無く、実際は木板のみが悩みだったのだろうか。双方に悪い事をした気がする。  物干しの辺りで未だに蜷局を巻く青大将に詫びを入れる為、ウワミズザクラの根元に埋めるつもりだった、昨日の残りである魚の頭と内臓を持って来た。 「済まん、詫びになる物が此れだけしか無いが…。非礼を入れさせておくれ」  飛び掛かられても困るので、少し離れた位置に其れを置く。青大将は、唯舌をちろちろと蠢《うごめ》かせるだけであった。畜生よりも更に感情が読めない。  よいしょと立ち上がると、俄かに強風が吹いた。袖も髪もはためかせられ、思わず目を瞑る。大分風が強い。  キンモクセイの花が大量に舞い、其の一粒が私の唇に貼り付く。反射的に舐め取って口に含んだが、甘くは無い。甘やかな芳香なのだが、存外に無味である。いや、花は蜜こそが甘さとなるので、当たり前では在るのだが。  しかし、濃密な香りを食むのは面白くはある。鼻腔と舌に残るキンモクセイの証は、確かに何らかの方法で口に含みたくなる上品さであった。  かつて、加密列を茶にする発想に至った古い英吉利《イギリス》の人々も、同じ心地だったのだろうか。香りを食べれたらどんなに良いかと、考えたりしたのだろうか。  呆然とそんな事を考えていたが、ジローに吠えられて我に返った。 「…おっと、済まん済まん」  呆けている場合では無い。  口に入れて仕舞ったキンモクセイの花は、吐き出したら其れは其れで失礼だろうと飲み込んだ。鼻腔の残り香は、あっという間に掻き消える。  腹一杯|食《は》んだら、もっとキンモクセイの香りに溺れる事も出来るのだろう。其れは余りにも無体が過ぎるので、きっと遣れても遣りはしないが。  漂う香りに尾を引かれつつ、野分前の作業に戻った。 「うん、こんな処か。後は、在るが儘に任せよう」  ウワミズザクラは不満そうだったが、藁と紐で洞を塞いでおいた。有り難《がた》迷惑だろうが、折れて其処から腐るよりは百倍ましである。  縁側に戻りふと己を確認すると、此処彼処にキンモクセイの花がくっ付いていた。足許のジローも橙に化粧されており、ぶるりと彼が身を震わすと、ぽろぽろと細雪《ささめゆき》の如く地に降り注ぐ。鮮やかな斑点が軒下に出来た。  何とはなしに勿体無くなり、地面の物を拾い上げたり、服に付いた其れを摘まんで掌に集めて遣る。  茶や菓子にするのは手間過ぎるが、唯散らせるのは何とも名残惜しい。 「はは、随分と粧《めか》されて仕舞ったなぁ。…嗚呼、折角だし飾っておくか?」  ふと思い立ち、家主の居なくなった睡蓮鉢にキンモクセイの花を浮かべる。  亡骸とも言い難い枯れたホテイアオイは、迷った末に庭へと埋めた。捨てるのは妙に良心が痛んだのでしていない。  暇乞いと言ってはいたが、今生の別れではあるまい。春にはまた、庭の池にでも顔を出して呉れると信じている。そうしたら、また睡蓮鉢を棲み処《か》にして遣ろうと思う。  冬の間は睡蓮鉢も暇になる。白鷺《しろさぎ》も退屈は厭だろうし、偶に庭の鮮やかな草木を拾って浮かべても良いやも知れぬ。  ぷかぷかと浮く橙は、急な思い付きにしては中々風流だった。悪くは無い。 「さぁ、そろそろ雨戸も閉めよう。ジロー、お前さんは玄関に寝泊まりさせるから、今の内に用でも足しておいで」  そう言い付けると、ジローは一声吠えて外へと駆けて行った。常々思うが、犬とは此処まで物分かりが良い生物だっただろうか。  …否、多分ジローが賢すぎるだけか。犬は飼い主に似る通説が有るが――…江ノ本と私と何方に似てるかと言えば、恐らく前者寄りである。  立て付けの悪い雨戸を全て閉める頃には、もう嵐の予兆が此方にも来ていた。小雨が降りだし、遠くで霹靂神《はたたがみ》が喚《わめ》いている。びょうびょうと鳴く風は、少しだけ不安を煽る。 「さ、お入り」  門扉を閉めようとした辺りで、戻って来たジローを玄関に入れた。三和土には上がらない辺り、矢張彼は賢い。手拭いで多少濡れた毛を拭いて遣る。  室内が一気に暗くなったので、洋燈《ランプ》を手元に置いた。アルコオルで簡単に明るくなるので、夜長を過ごすには重宝している物である。  しかし其れでも暗いので、夕飯はまだ明るい玄関でジローと分け合って食べた。冷めた煮物が献立だが、日を跨《また》いだ出汁の染みた根菜は、此れまた美味いのだ。おかみさんの差し入れには、常々助けられている。  皿の片付けをして、私室の座布団に胡座《あぐら》を掻いた。  扨、後は野分が過ぎ去る迄耐えるしかない。自然が洩《もた》らす災いは、人にとっては耐えうるしかない理である。誰の所為にも出来ないし、備えをしても覆《くつがえ》される時は無惨に覆される。  不安は有れど、如何とも出来ぬ。事が起きたら何とかする、ぐらいが精々だ。後は神頼みだろう。 「此の場合、霹靂神に無事を祈るべきか…?」  愚にも付かない事を思索する。もうさっさと寝るべきだろうが、風がごうごう唸るわ建物が不穏に軋むわで、恐らく真っ当には寝付けまい。喧しくて本を読む気にもなれない。取り敢えず寝巻きには着替えたが、布団には包まらず其の儘上に転がった。  ごろりと寝返りを打ち、座敷の掛け軸を見る。外の嵐とは裏腹に、本紙の中は静謐である。いや、絵なので当たり前なのだが。 「江ノ本、来ないな…」  先月は来なかった。多忙なのだろうか。死した身なのに齷齪《あくせく》働いているのは、在る意味彼らしくはある。  唯、何をしているかは訊ねた事が無い。湖の水底に居るとは言っていたので、其処の極楽で何らかの役割に奔走しているのか。 「余り、訊いていないなぁ…」  もっと、知りたくはある。江ノ本は、一番の旧友であるからして。何なら、私の親友とも言うべき相手は彼しか居ない。私の世界は、成人した今でも大して広くは無い。此処に越してから、多少広まりはしたが。  だが、静謐を好む彼に根掘り葉掘り訊いたら、煩わしいと来なくなりそうで。其れは其れで、厭なのだ。まだ居なくならないで欲しい。迷惑じゃないのなら。死んだ相手に、鞭打つ真似でないのなら。 「私は。酷い男、なのだろうか…」  己の所為で死んだかもしれない相手に、強要してはいないだろうか。知らぬ間に。散々っぱら鈍いとか朴念仁とか呼ばれているので、遣りかねない。人を傷付けて、最低の男になっていまいか。  外が荒れているからなのか、私の気分もみるみる沈む。天井を向いて、大きく溜め息を吐いた。  何だか無性に息苦しい。呼吸が出来ない訳では無いが、胸に大きな重りがのし掛かっている様だった。 「嗚呼駄目だ、寝よう寝よう」  寝れなさそうだが洋燈を消した。途端に、真っ暗闇に包まれる。雨戸も閉めているので光源が何処にも無い。  下に敷いていた布団を、頭から被る。そうすると、遠雷も風鳴りも少しだけ遠ざかった。何だか幼少の頃も、寝れない時に同じ事をしていた様な。つらつらと如何でも良い思考を垂れ流していたら、何時の間にか寝ていた。 ―ざあざあ、ばちばち、ごうごう  屋根瓦へ打ち付ける雨が、脳内に響いている。静かな雨音は読書の御供に丁度良いのだが、野分の雨は喧しすぎる。  夢現で、何だか溺れている心地になった。息苦しいからだろうか。  様々な音が反響しているのに、妙に心細い。 ―ざあざあ、ばちばち、ごうごう…おぉい…  誰かに呼ばれている気がする。此の家には私しか居ないのに。其れとも、外に誰かいるのか。…こんな、野分の夜に?  しかし何だか助けを求められている様で、起きねばならぬ心持ちになった。  ぼんやりと、自分が布団を除けて立ち上がったのを識る。現実感が無い儘、よたよたと歩き出した。 ―ざあざあ、ばちばち、ごうごう…おぉい、おぉい…うぅ、わん…  ジローらしき犬の吠え声がする。何だか怒っている様で、如何したのだろうと思う。  私の足は、廊下に差し掛かろうとしている。  相変わらず、何だか呼吸が――…。 「啓次《けいじ》」  袖を急に引かれ、其処で我に返った。大きく息を吸う。  江ノ本の声だった。実際に振り向いたら、彼が私の袖を掴んでいた。 ぼんやりと薄明るいのは、彼が洋燈に火を点けているからか。 「啓次」  もう一度名を呼ばれる。常通りの学生姿は、何だか焦った顔をしていた。  一度落ち着く為に唾を飲み、ようよう口を開いた。 「え、江ノ本…其の、私は…?」 「…ほら、忘れ物だ」  返事をした姿に安心したのか、彼は袖を離すと其方の手に一緒に持っていた物を、私の掌に落とす。蛟《みずち》の鱗入りの、守り袋である。  そう言えば、着替えの際に文机に一度置いて其の儘だった。渡された途端に、息苦しさが消える。溺れている心地だったが、実際雨に囲まれ溺れていたのか。 「す、済まん」  何だか申し訳無くなり謝ると、江ノ本は唯片眉を上げた。そして、未だ吠えているジローが居るであろう玄関に、視線を向ける。 「…何やら、善くない者が来ているようだな」 「何だと。ど、泥棒か?」  私の問い掛けに、旧友は苦笑を返した。 「泥棒が、こんな丑三つ時の、野分の真っ只中に来るものか。誰だって命は惜しかろうよ」  其れはそうだ。  だが家守の立場としても、曲者は確認せねばなるまい。後ろを音も無く着いてくる江ノ本を従え、玄関へ赴《おもむ》く。 ―さあさあ、おぉい、さあさあ、うぅ、わん…  野分けの丁度中心に入ったのか、風は鳴き止んでいた。穏やかに変わった雨音に混ざり、確かに誰かの呼び声と、ジローの吠える声。 「ジ、ジロー?」  玄関の中に、曲者は居なかった。  洋燈で仄かに照らされた忠犬は、此方へ振り向くと猛々しい唸り声とは打って変わって軽く挨拶を返す。恐らく、後ろに居る江ノ本への物だろう。  ぱたぱたと何度か尾を振りはしたが、彼はまた磨《す》り硝子《がらす》越しの暗闇へと怒りの声を上げ始めた。 ―さあさあ、おぉい、さあさあ、うぅ、わん、わん…  外から聞こえる音には、矢張り人らしき者の呼び掛けが混ざっている気がする。  声を掛けるべきか迷ったが、横に立った江ノ本が無言で頭を振った。 「止めておけ。玄関に居るあれは、人ではない」 「人ではないなら、化生《けしょう》の類いなのか」  江ノ本は足許に洋燈を置くと、壁に身体を預けて腕を組んだ。物憂げな表情が、仄暗く照らされている。 「…正確には、化生ですら無い成り損ないだ。人だった記憶に縋り付き、温もりを他者から奪おうとする何かだよ」 「詰まる所、招かれざる客なのか」  そうだ開けるなよ、と言う彼に黙って首肯する。幾らか心苦しくはあるが、私も命は惜しい。  吠え続けるのも疲れるだろうと、私は三和土《たたき》に座ってジローを足の間に挟んでやった。両手で撫で乍《なが》ら大丈夫だと言ってやると、彼は首を傾げて此方を見る。  多分、ジローは外の何かが居なくなる迄眠らないだろう。勇ましい忠犬に任せっきりにするのも申し訳無いので、付き合う事にする。 ―さあさあ、おぉい…  呼び声は小さくなったものの、未だ聴こえて来ている。  漸く尻を落ち着けたジローの温もりで暖を取りつつ、私は江ノ本を呼んだ。 「…なぁ、江ノ本。まだ居てくれるか」 「何だ。心細いか」  確かにそうなのだが。  江ノ本と、久し振りに長々と話したくなったのだ。昔はよく泊まり込みの際に、同じ事をしていたのをふと思い出したので。  懐かしい学生時代。はしゃぎ過ぎて寝れなくなって、江ノ本の部屋で並べた布団の上を共に寝転がり、夜更け迄話し込んでいた。話の中身は様々で、与太話や世間話、怪談と色々|多岐《たき》に渡っていた筈だ。  私の、良き思い出の一つである。  彼もそうであったなら良いと、願ってはいるが。 「秋の夜は長いだろう。折角だし、久々に話し込まないか…如何だ?」  果たして江ノ本は、悪童《あくどう》の如き笑みから一変して少しばかり戸惑いを見せた。が、直ぐに仕方が無いなと苦笑して、私の横に触れ合わないぐらいの距離で胡座を掻く。 「まぁ良かろう。付き合って遣るさ、感謝しろ」 「はは、凄い言い草だなぁ。嗚呼そうだな…」  一先ず今日の出来事を話すと、江ノ本は青大将かと考える素振りを見せた。 「若しや、会った事が有るのか? 中々の大物だったぞ」 「まだ俺が小さい時分に、庭で小さな青大将を見た。…鱗が宝石みたく輝いていて、美しかったな」  同じ青大将だろうか。…そうかもしれない。旧江ノ本邸は、年古《としふ》りた物をよく見掛ける。 「しかし、ジローが仲裁なぁ…。嗚呼でも、風の噂で聞いたな。何でも此の近辺に、有りと有らゆる諍いを仲裁してみせる、御仏の如き犬が居るらしいと」 「何だ其れは…いや、そうだ、夏の頃にほら、話したろう。ジローが、泥だらけで帰って来たと。此奴が、溝にうっかり落ちるのかと思っていたのだが…」 「あぁ。其れも、仲裁の時に巻き込まれたのかも知れんな」  なぁ如何なんだ、と腕の中の本犬に尋ねたが、不思議そうに団栗眼《どんぐりまなこ》を瞬かせるだけだった。当の本犬は、己が巷で噂になっているなぞ知りもしないだろう。 「…何?」 「いや、素描のモデルとやらを頼まれてな。彼れや此れやで、初めて縛られたのだが…」 「…な、何だと?」  江ノ本が珍しく、同じ質問を繰り返す程動揺している。眉間《みけん》の皺《しわ》を揉む姿を眺めつつ、変わった御仁との出来事を話して遣る。  話し終えたら、盛大に溜め息を吐かれた。 「何だ。ほら、面白い先生だろう」 「面白いかで言えば、大層愉快な人だな。…里中も、大変だったろうに」  其処は確かである。 「其れで、肉は美味かったか」 「あぁ、矢張り肉は良いな!」  そうかそうか、と江ノ本は苦笑している。含みの有る笑みであった。何故なのか。  続けて、彼の近況を尋ねた。 「俺か? …先月は、少々忙しかったな」 「忙しい…水底の極楽も、遣る事が多いのか?」  そう訊くと、江ノ本は言葉を選ぶ様に科白を続ける。 「…どんな場所であれ、其処を取り仕切る御方は居られる。今の時期、出雲《いずも》で集まりがあるそうで、其の準備で大わらわだった」 「成程…」  此の旧友は、私と比べると遥かに多才である。何処でも重宝はされるだろう。 「湖底が気になるか、渡会」 「お前が今居ると聞いたからなぁ。どんな場所だろうと、ふと思った」  私がそう返すと、江ノ本はそっと壁を向いてだからか、と呟く。以前に美味い物が無いと言われた故に、往ってみたい訳では無い。  此奴が長く居る場所が、居心地が良ければいいと考えただけだ。 「まぁ、穏やかな処だよ。其方の、人間同士の諍《いさか》いや煩《わずら》わしい事も起こらぬ、唯静かな幽世《かくりよ》だ」  其れは確かに、彼にとっては好ましい場所だろう。 「此の屋敷は、好きか?」 「生家《せいか》は、ずっと好きだよ。…お前が家守に為って、久々に訪れてからも、しみじみそう思ったさ」 「…そうか」  ――…ならば、此れからも、昔の姿を成るべく遺して遣ろうと思う。其れこそが、家守の役目だ。  江ノ本と、他愛も無い事を唯|只管《ひたすら》に話した。  まるで、昔に立ち返ったようで。再び遣って来た野分の騒音にも、心を乱される事も無く。  うつらうつらと座った儘船を漕ぐジローを撫でつつ、そうやって過ごしていると――…気付けば、外が明るくなり出していた。 「――…嗚呼。そろそろ、白み始めたな」 「本当だ。…野分も、流石に過ぎたか?」  磨り硝子の向こうを、目を凝らして視ようとしたらまた声がした。 ―おぉい…  だが、其れは余りにも控えめで弱々しい。今にも消え入りそうな声音で、視えない何かが玄関で囁いている。 「…何だか、憐れましいな」 「そうなのだがなぁ…おや?」  すん、と江ノ本が匂いを嗅ぐ仕草をした。私も気付く。ジローもぱちりと目を開けて、立ち上がった。  キンモクセイの香りが、玄関から漂っている。まるで、其処に彼の古木が在るの様な…。 「もうし。其処の方、迷子でしょう。…案内します故、共に往きませんか」  困惑する私を他所に、磨り硝子の向こうから見知らぬ男の声がする。 ―あぁ…  優しい声音に、呼び掛けていた何かは安堵の息を漏らしている。親を見つけた、幼子の如き吐息だった。  磨り硝子越しの曖昧な輪郭に、ふと庭先の方から人らしき誰かの手が増える。其れは、誰かに手を差し伸べている。 「はい、はい。淋《さみ》しかったでしょう。ほら、お釈迦様の許へと、参りましょう…」  夜半から呼び掛けて来ていた何かは、もう喋らない。  静かになった外で、謎の声は此方へと意識を向けた。深緑《しんりょく》の袖が、ちらりと視界に舞う。 「渡会様。わたくしも、暫しの暇乞いをば。…まだ往くつもりは無かったのですが、野分に早くと急かされて仕舞いました」 「…あ、あぁ。――貴方も、来年にはきっと、戻られますよね?」  私の問い掛けに、優しい声は笑みを含めた肯定を返す。 「えぇ。秋の頃に、また庭の裏手でお会いしましょう」 「はい。はい――また」  何時の間にか、背の高い深緑の袷《あわせ》を着た人影が、磨り硝子の向こうに佇んでいた。其れは、恭しくお辞儀をすると、みるみる薄くなる。最後には、すっかり消えて仕舞った。 「其れでは、然様《さよう》なら…」  既に、キンモクセイの香りは薄まっていた。もう、ふわりと匂う程度である。  静寂が訪れた玄関で、私はちらりと隣の江ノ本を見る。江ノ本も私を見ていた。 「今のは…キンモクセイで合っている、か?」 「生前に会った記憶は無いが…まぁ、話を聞くにそうだろう。嗚呼、お前、髪に残っているぞ」  そう言われ、江ノ本が指差した先に触れる。風に煽られてから大分時が経っていた筈だが、髪にまだキンモクセイが残っていた。  干乾びた小さい花を、掌に乗せる。其処からは、もう命を感じない。 「昨日と今日と、別れが多いなぁ…少し、寂しい気もするよ」 「…だが、再会の約束はしたのだろう。花の頃を、待つと良いさ」  そうだ。彼等はまた来ると言っていた。一抹の寂しさは、再会に対する希望の裏返しだ。  永訣《えいけつ》では無いのなら。其の日をまた、心待ちにしよう。  …彼もまだまだ、先延ばしにして呉れるだろうか。二度目の、別れの日を。 「江ノ本。…お前も、また来るよな?」 「…あぁ」  私がそう訊くと、彼は澄まし顔でそっぽを向いた。  ほんのりと、頬が色付いている。そんな気が、した。
おうち回。キンモクセイの話は一度書いてみたかったので、書けて満足です。良いですよね、キンモクセイ。 因みに野分とは今で言う台風の事。

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