須藤 / 第5話

第五話:秩父、夏の夜の囁き

 |秩父《ちちぶ》の夏。それは、都会の排気ガスとアスファルトの照り返しから逃れ、深い緑と清らかな水が織りなす生命の匂いそのものだった。  九月。|高柳結衣《たかやなぎゆい》と|水野凛《みずのりん》は池袋駅から乗り込んだ西武特急「ラビュー」のシートに深く身を沈めていた。 「わあ……窓がすごく大きいですね! 足元までガラス張りなんて、まるで空を飛んでるみたいです」  結衣の弾んだ声に、隣に座る凛さんは薄く微笑んだ。 「|妹島和世《せじまかずよ》さんの建築デザインだね。『都市や自然の中でやわらかく風景に溶け込む特急』がコンセプトらしいよ。この銀色の丸みを帯びた車体も、秩父の美しい風景を優しく反射するためなんだ」  デザイナーとしての血が騒ぐのか、凛さんの説明にはいつになく熱がこもっていた。黄色い座席が並ぶ広々とした車内は、どこかリビングのようにくつろげる空間だ。景色が次々と後方に飛び去っていく中、結衣は凛さんの横顔に密かに見惚れていた。 「……建築からプロダクトデザインまで、本当に詳しいんですね、先輩」 「職業柄、ね。でも、映像や写真でしか見たことがなくて、実際に乗るのは初めてだから……少し、|昂《たかぶ》ってるかもしれない」  そう言って、凛さんは窓の外へと視線を移した。深緑《しんりょく》を湛《たた》えた秩父の山々が、巨大な窓いっぱいに広がっている。  今回の旅は、これまでとは意味が違う。日帰りではなく、初めての一泊。初めて凛さんと夜の静寂を共にする時間。  窓枠に置かれた凛さんの真っ白な指先が、微かに震えているように見えた。結衣に対する緊張なのか、それとも、これから過ごす時間に対する得体の知れない恐れなのか。どこか遠くを見つめるその横顔は、電車の揺れに合わせて微妙に揺らめき、まるでそのまま、秩父の山の中へと消えてしまいそうに儚く、孤独だった。 「わあ……すごい。川の音が、ここまで聞こえてくる気がします」  |長瀞《ながとろ》駅に降り立った瞬間、|蝉時雨《せみしぐれ》に混ざって、荒川の|奔流《ほんりゅう》が遠くで鳴っているのが分かった。日差しは強いが、吹き抜ける風には明らかに水辺の涼やかさが混じっている。  二人がまず向かったのは、長瀞の代名詞とも言える「長瀞ラインくだり」の乗船場だった。 「|高柳《たかやなぎ》さん、ライフジャケット、しっかり締めて。紐が緩いと危ないから」 「あ、はい……」  凛さんが屈み込み、結衣の背中から腰にかけてのベルトをぐっと引き締める。その指が不意に背中に触れ、さらに彼女の顔が極端なほど近い距離に近づいたことで、結衣は鼓動が高鳴るのを感じた。凛さんの髪から、仄かに香る柑橘系の香りがダイレクトに鼻腔をくすぐる。 「……よし、これで大丈夫」 「あ、ありがとうございます、先輩」  顔が赤くなっているのを悟られないよう、結衣は慌てて視線を前方に逸らした。  船頭さんの軽快な語りを聞きながら、木造の和船はゆっくりと荒川の水面へ滑り出した。  穏やかな流れの中、周囲には国の特別天然記念物である「|岩畳《いわだたみ》」の巨大な地層が、まるで敷き詰められた石畳のように広がっていた。 「すごい……対岸の崖も、まるでミルフィーユみたいに層になってますよ」 「|結晶片岩《けっしょうへんがん》だね。このあたり一帯は『地球の窓』って呼ばれてるの」  凛さんは、その不思議な岩肌を真剣なまなざしで見つめていた。 「地球の窓、ですか?」 「そう。地下深くに変成岩として存在していた『|三波川変成帯《さんばがわへんせいたい》』っていう巨大な地層が、何千万年っていう途方もない年月をかけて|隆起《りゅうき》して、さらに荒川の流れによって削り出されたの。私たちが今見ているのは、地球の奥底に眠っていた途方もない時間の蓄積、そのものなんだよ」 「なんだか、圧倒されちゃいますね……。私たちの時間なんて、ほんの一瞬みたい」 「そうだね。自然が彫り上げたこの造形は、人間がどんなに計算してデザインしても絶対に敵わない究極の『機能美』だね」  凛さんの真っ直ぐな瞳に映る絶景は、彼女の情熱を通すと、まるで宝石のように輝いて見えるから不思議だ。でも、結衣はその「何千万年」という途方もない時間の中で、今こうして凛さんの隣に座っているという「一瞬の奇跡」のほうが、宝物のように価値があると思っていた。 「わあっ!」  突然、和船は急流域の「小滝の瀬」に突入した。白い水しぶきが舞い上がり、船全体が大きく前後に揺れる。 「ひゃっ……!」  バランスを崩しそうになった結衣は、反射的に隣の凛さんの腕にしがみついてしまった。  ——固い。  凛さんは、その時、結衣を抱きとめるでもなく、かといって振り払うでもなく、ただ一瞬、全身の筋肉を硬直させた。しがみついた腕の向こう側で、凛さんの心臓が高い音を立てているのが伝わってくるような、そんな錯覚を覚えた。岩肌に当たる激しい水音よりも、凛さんの鼓動のほうが結衣にははっきりと聞こえた。 「……落ち着いて。もう、穏やかなところに出るから」  凛さんの声は、低く、どこか自分自身を抑えつけるような冷たさを孕んでいた。船が静かな淵に戻ると、彼女は静かに、でも断固として、結衣の手から自分の腕を抜いた。 「ご、ごめんなさい、先輩……痛かったですか?」 「……ううん。大丈夫」  そっぽを向いた凛さんの耳まで赤く染まっているのが見えた。そのもどかしいほどの距離感が、結衣の胸を小さく締め付けた。  和船を降りた二人は、秩父鉄道で少し戻り、秩父の中心街にある「秩父神社」へと足を運んだ。ここは秩父三社の一つに数えられる、歴史ある古社だ。  鳥居をくぐり、神門を抜けると、荘厳な本殿が姿を現した。朱塗りの社殿には、極彩色の鮮やかな彫刻が所狭しと施されている。 「日光の東照宮みたいに、すごく派手な色使いですね」 「うん、これも|権現造《ごんげんづくり》だからね。徳川家康が寄進したんだよ。あそこを見て。|左甚五郎《ひだりじんごろう》の作って言われてる有名な彫刻がいくつかあるの」  凛さんは本殿の軒下を指差した。 「あれは『お元気三猿』。日光の『見ざる、言わざる、聞かざる』とは逆で、『よく見て、よく聞いて、よく話す』っていう前向きな猿なんだって」 「へえー! なんだか現代風ですね。先輩に似てるかも。何でもパキパキと解決してくれそうで」 「からかってるの?」  凛さんが少しだけ目を細めて笑った。そして、本殿の東北側へと回り込んだとき、彼女はふと歩みを止めた。 「これは……『つなぎの龍』だね」  そこには、青い波間を舞う見事な青龍の木彫りがあった。しかしよく見ると、木漏れ日に照らされたその龍の体には、本物の鉄の鎖がぐるぐると巻きつけられている。 「なんで鎖で縛られてるんですか? かわいそう……」 「昔、近くの池に夜な夜な暴れる龍が出たらしいの。でも、この彫刻の龍に鎖を巻きつけたら、龍がピタリと出なくなったという不思議な伝説があるんだって」 「暴れるから、鎖で縛り付けた……」  結衣はその鎖に縛られた龍をまじまじと見つめた。 (まるで、自分の中の暴れるような感情を、必死に鎖で繋ぎ止めているみたいだ……)  ふと隣を見ると、凛さんもまた、沈痛な面持ちでその龍を見上げていた。夕暮れが近づき、境内にはひぐらしの鳴き声が物悲しく響いている。オレンジ色の西日が、凛さんの横顔に深い影を落としていた。 「……行こうか。そろそろ旅館にチェックインしないと」  凛さんは逃げるように背を向けて歩き出した。その背中が、鎖で縛られた龍と重なって見えた。  夕靄が秩父の山並みを包み込み始めた頃、二人は予約していた温泉旅館へと案内された。 「こちらが、お二人の部屋になります。ツインルームで、窓からは秩父の街並みが一望できますよ」  仲居さんに案内された部屋は、畳の上にローベッドが二つ並ぶ、モダンで落ち着いた空間だった。 「わあ、すごく綺麗! 窓からの景色も最高ですね!」  結衣は荷物を放り出して窓際へ駆け寄った。しかし、振り返ると、凛さんは部屋の入り口から一歩も入らずに、どこか居心地が悪そうに立ち尽くしていた。 「先輩?」 「……高柳さん。先にお風呂、行ってきて」  凛さんは目を合わせようとせず、自身のキャリーケースに手を置いたまま呟いた。  結衣はしばらく、何も言えなかった。一緒に行きたい、とは言い出せない。でも、この距離感のまま夜を迎えるのも、なんだか寂しかった。 「……あの」  口を開いてから、続く言葉を探した。 「大浴場、広そうで……一人だと、なんだか落ち着かなくて」  自分でも、苦しい言い訳だとわかっていた。凛さんも、きっとわかっているはずだ。  凛さんはほんの少しだけ目を細めた。 「……そう」  それだけ言って、少しの間、黙っていた。結衣は視線を床に落としたまま、返事を待った。  凛さんは俯いたまま目を閉じ、意を決したように一度小さく頷いた。 「……分かった。少しだけね」  凛さんの声は静かで、責めるでもなく、かといって明るくもなかった。  大浴場の露天風呂は、夕食の時間が近いせいか二人以外に誰もいなかった。立ち上る白い湯気の向こう側に、秩父の山々の稜線が夜の深い闇に溶け込んでいくのが見える。  お湯に浸かりながら、二人の間には重たい沈黙が流れていた。  ——先輩、お肌、すごく白い。  湯船の中で、凛さんの華奢な肩が水面に揺らめいていた。いつもはデザイナーとしてのプライドと、隙のない冷徹な空気という厚い『仮面』に包まれている彼女が、今はただの一人の無防備な女性として、そこにいる。 「……川越、楽しかったですね」  結衣が、その張り詰めた静寂を破るように切り出した。 「風鈴の音。あの日、先輩は何かを言おうとして……」 「高柳さん」  凛さんが、遮るように声をかけた。その声は、微かに震えていた。 「……私ね、一人のほうがいいって、ずっと思ってた。誰かと歩幅を合わせるのは煩わしいし、誰かといるのは……すごく、怖いことだから」  凛さんは、自分の白い腕を、お湯の中で大切に抱きしめるようにして俯いた。ポツリ、ポツリと、心の奥底から絞り出すような言葉が水面に波紋を作る。 「自分の想いが強すぎて、期待しすぎて……また壊したくなかった。だから……」  結衣は息を呑んだ。 「でも……あなたと旅を重ねるうちに、頑丈だった私の『鎖』が、どんどん錆びて、剥がれていくのが分かったの。それが……本当に恐ろしいの」  凛さんの声は、お湯が跳ねる音に消えてしまいそうなほど小さく、脆かった。  結衣は、何も答えられなかった。先輩の抱える過去に、何があったのかは結衣にはまだ分からない。でも、彼女が結衣と一緒にいるというただそれだけで、その恐怖と必死に戦ってくれていることだけは痛いほどに伝わってきた。結衣はお湯の下で、自分の胸を強く押さえた。  夜。地元の食材を使った夕食を終え、二人はそれぞれのベッドに、微妙な距離を保ったまま横たわっていた。  消灯された部屋の中で、窓から差し込む街灯の光と月明かりが、二つのベッドの間に細い線を引いていて、どうしても越えられない見えない壁のように思えた。 (先輩、起きてるのかな)  結衣が、そっと隣のベッドの気配を伺う。シーツの擦れる小さな音がした。 「……眠れない?」  暗闇の中から、凛さんの静かな声が響いた。驚くほど優しい声だった。 「はい。なんだか、今日が終わるのが、もったいなくて」 「……同感だよ」  ガサリ、と音がして、凛さんが自分のベッドからそっと腕を伸ばしてきた。その手が、二つのベッドの間の空間で宙を彷徨い……やがて、結衣の手を、震えながら求めてきた。  結衣は迷わず、その手をそっと、力強く包み込むように握りしめた。  ——熱い。  凛さんの指先はひどく熱く、そして、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように慎重に、結衣の掌の形をなぞった。 「高柳さん……。じゃないね」  不意に、凛さんが吐息のように囁いた。鼓膜のすぐ近くで鳴ったように感じた。 「これまでの旅で、ずっと、ずっと……呼びたいと思ってた。でも、呼んでしまったら、私の心の最後の一線が全部崩れ落ちてしまいそうで、どうしても呼べなかった」  凛さんは、握りしめる手に、さらに深く力を込めた。少し痛いほどに。でも、その痛みがたまらなく嬉しかった。 「……結衣」  そのひとことが、凛さんの唇から、絞り出されるように零れ落ちた。  心臓が大きく波打った。あの一音が、今、最高の温度を持って、結衣に届けられた。それは、どんな言葉よりも深く結衣の胸に刺さった。 「……はい。凛さん」 「……ごめんね。待たせて。……ありがとう」  凛さんは、そう短く言って、結衣の手にもう一度だけ強く力を込め、名残惜しそうに指を離した。そして、静かに布団の中に潜り込んだ。  暗闇の中、繋がれていた手のひらには、凛さんの熱がいつまでも残っていた。結衣の胸の鼓動は、朝まで激しく鳴り響いていた。  翌朝。すっかり晴れ渡った空の下、二人は秩父ミューズパークの展望台に立っていた。  早朝の澄み切った空気の中、眼下には秩父の街並みが穏やかな光に包まれて輝いている。山を削った荒川、遠くに見える神社の森。見下ろすこの広い景色は、結衣が今まで見たどの風景よりも美しかった。 「この景色、秋になって紅葉したら、もっともっと綺麗でしょうね」  結衣が弾んだ声で言うと、凛さんは、いつもの「クールで完璧な先輩」の顔に戻っていた。しかし、その瞳の奥には、確かな熱が宿った晴れやかな笑顔があった。 「そうだね。その頃に、また二人で来よう」 「……絶対、約束ですよ」 「当然でしょ。高柳さん」  凛さんのからかう響きに、結衣はむくれてみせた。 「……あ、またそれに戻っちゃったんですか」 「会社では、これでいいの。誰にも悟られないように。……でも、二人の時は……そのうち、慣れてあげる」  凛さんは、結衣の頭をポンと優しく叩き、小さくウインクをして先に歩き出した。その足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。  二人の散歩道は、まだまだ、どこまでも続いていく。  Season 1(埼玉編) 完

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