白井黒也 / 第4話

第4話「楽を覚えさせてあげる!」

「結飛! 私、分かったわ!」 朝の教室。 自分の席で鞄の中身を整理していると、隣から突然そんな声が飛んできた。 「……今度は何が分かったんだよ」 顔を向けると、莉夢が自信満々といった様子で胸を張っている。 この顔には見覚えがある。 こういう時のこいつは、大抵ろくでもないことを考えている。 「ふふっ。聞いて驚きなさい!」 「できれば聞きたくないんだけど」 「なんでよ!」 俺の反応が気に入らなかったのか、莉夢が頬をぷくっと膨らませる。 そんな抗議を無視して、鞄から取り出した教科書を机の中へとしまっていく。 できることなら、このまま話を終わらせたい。 だが、こうして莉夢が得意げな顔をしている以上、そうはいかないだろう。 案の定、莉夢は気を取り直すように一度咳払いをする。 「こほん。いい? この前みたいに授業をサボらせるだけじゃダメだったのよ」 「ようやく気づいたのか」 「だから私、考えたのよ。もっと確実に結飛を堕落させる方法を!」 嫌な予感しかしない。 「……一応聞いてやるよ。今度は何する気だ?」 「ふふっ」 莉夢は待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべると、びしっと俺を指差した。 「結飛を、ダメ人間にするのよ!」 「……は?」 あまりにも堂々と言い切られ、思わず間の抜けた声が出る。 「人間は一度楽を覚えたら、どんどん怠けるようになるって聞いたわ!」 「誰にだよ」 「悪魔の常識よ! 人間は一度楽を覚えたら、あとは自分から欲望に溺れていくって!」 「まあ……否定はしないけど」 「だったら簡単よ。今日一日、結飛には何もさせない!」 莉夢は腰に手を当て、得意げに胸を張る。 どうやら本人の中では、完璧な作戦らしい。 「何から何まで私がやってあげるわ。そうすれば結飛は楽を覚えて、最後には私なしじゃ何もできないダメ人間になるってわけ!」 「……それ、お前が大変なだけじゃないか?」 「え?」 莉夢の得意げな表情が固まった。 どうやら、そこまでは考えていなかったらしい。 「そ、そんなことないわよ! とにかく今日一日は私に全部任せなさい! 絶対に結飛をダメ人間にしてみせるんだから!」 「別になりたくないんだけど」 「いいから!」 どうやら、俺の意思は関係ないらしい。 まあ、好きにさせておけばそのうち飽きるだろう。 そう思いながら、そろそろ一時間目の準備でもしようと机の中へ手を伸ばす。 「待ちなさい!」 「……なんだよ」 「結飛は何もしちゃダメって言ったでしょ?」 莉夢は俺の手を制すると、人差し指を俺の机へ向けた。 「えっと……えいっ!」 次の瞬間、机の中に入っていた教科書とノートが、ふわりと宙へ浮かび上がる。 「……お」 そのまま机の上へ並ぶ――と思ったが。 「きゃっ!?」 教科書は途中でふらふらと軌道を変え、机の角へぶつかる。 ノートは俺の顔へ向かって飛んできて、慌てて受け止めた。 「危なっ!」 筆箱だけがぽとりと机の上へ落ちる。 「……」 「……あれ?おかしいわね」 「今の、魔法か?」 「そうよ。本当ならもっと綺麗にできるはずなんだけど……」 「失敗したのか?」 「し、失敗じゃないわ!人間界だと、魔法の出力も精度も落ちるのよ」 「そんな仕様なのか」 「しかも私、一人前になるための試験中だから、まだ見習い悪魔だし」 「なるほどな」 莉夢は散らばった教科書を拾い集めると、胸を張った。 「つまり、今の私は伸びしろの塊ってことよ!」 「ずいぶん前向きだな」 「ええ! だから安心して甘えてちょうだい!」 「話が繋がってないんだけど」 朝から妙なやる気を見せる莉夢を横目に、俺はため息をついた。 こうして俺をダメ人間にするための、莉夢の新たな作戦が始まった。 一時間目の授業が終わり、俺は机の上に広げていた教科書とノートを片付けようとする。 だが、手を伸ばした瞬間、隣から声が飛んできた。 「結飛!」 「……今度はなんだよ」 「だから、何もしちゃダメって言ってるでしょ!」 莉夢は俺の手から教科書を取り上げると、代わりに机の中へしまい始めた。 そのまま次の授業の教科書まで取り出し、机の上へ並べていく。 「はい、これでよし!」 「……お前、本当に一日中これやるつもりか?」 「もちろんよ! こういうのは積み重ねが大事なんだから!」 何やら自信満々に言っているが、その積み重ねでダメ人間になる未来はまったく想像できない。 それからも、莉夢の世話焼きは続いた。 プリントが配られれば俺の分まで取りに行き、授業が終われば次の準備を始める。 最初こそ止めていた俺も、何を言っても聞かない莉夢を前に、次第に好きにさせるようになっていた。 そして午前最後の授業は、別の教室への移動だった。 俺が席を立ち、教科書を手に取ろうとすると――。 「待ちなさい!」 またしても莉夢が俺の教科書を奪い取る。 「……まさか、それも持つ気か?」 「当然でしょ?」 莉夢は自分の分と合わせて、二人分の教科書を抱える。 「結飛は手ぶらで来ればいいのよ!」 「いや、それくらい自分で持つって」 「ダメよ! 楽を覚えなきゃダメ人間になれないじゃない!」 「なりたいって一言も言ってないけどな」 そんな俺の言葉を無視して、莉夢はさっさと教室を出ていく。 仕方なく、その後を追いかける。 朝からずっとこんな調子だ。 俺を堕落させるためとはいえ、よくやるものだと思う。 「……なあ」 「何?」 「重くないのか?」 「これくらい平気よ! 結飛は何も気にせず、私に任せておけばいいの!」 「……そうかよ」 本人がそこまで言うなら、好きにさせておこう。 ――まさか莉夢の世話焼きが、この後さらにエスカレートするとは思っていなかった。 ◇ ◇ ◇ 教室のあちこちで机を動かす音が響き、クラスメイトたちがそれぞれ昼食の準備を始める。 俺も昼飯を買いに行こうと席を立った。 「購買行ってくるか」 「待ちなさい!」 「……今度はなんだよ」 「結飛はここで待ってなさい。私が買ってきてあげるわ!」 「いや、昼飯くらい自分で買いに行くけど」 「ダメよ! ここまで順調だったのに、自分でお昼を買いに行ったら意味ないじゃない!」 「順調だったのか、これ」 「もちろんよ。朝から結飛はほとんど何もしてないでしょ?」 言われてみれば確かにそうだが、ダメ人間に近づいた実感はまったくない。 「というわけで、結飛はここで大人しく待ってなさい!」 「……分かったよ。じゃあ、焼きそばパンとお茶」 「任せなさい!」 莉夢は俺から代金を受け取ると、意気揚々と教室を飛び出していった。 そこまでして俺を堕落させたいのか。 呆れながらその背中を見送り、再び椅子に腰を下ろした。 ――それから、しばらくして。 「た、ただいま……」 聞こえてきた声に顔を上げる。 そこには焼きそばパンとペットボトルを手に、すっかり疲れ切った莉夢が立っていた。 「……お前、どうしたんだよ」 「購買って……あんなに人が来るのね……」 莉夢はふらふらとこちらまで歩いてくると、俺の机の上に焼きそばパンとお茶を置いた。 「ほ、ほら……買ってきてあげたわよ……」 「……ありがとな」 「礼なんていらないわ! これも全部、結飛をダメ人間にするためだもの!」 俺を堕落させるために、わざわざ混雑した購買に飛び込んで昼飯を買ってくる。 やっていることは、ただ世話を焼いているだけのような気もする。 まあ、本人が満足しているなら、わざわざ指摘する必要もないだろう。 ◇ ◇ ◇ 午後になっても、莉夢の作戦は続いた。 「おい」 「……何よ」 「もうやめたらどうだ?」 「な、なんでよ…」 そう言い返す莉夢の声には、朝のような勢いがない。 昼休みの購買でかなり体力を使ったのか、明らかに疲れている。 それでも、俺が次の授業の準備をしようとすると、莉夢はすぐさま立ち上がった。 「だから……結飛は何もしちゃダメって言ってるでしょ!」 俺の机から教科書を取り出し、机の上に置く。 それだけのことなのに、莉夢は小さく息を吐いた。 「いや、もう十分だろ」 「ダメよ……」 「何がだよ」 「だって、結飛……全然ダメ人間になってないじゃない……!」 「そりゃそうだろ」 この程度でダメ人間になっていたら、さすがに困る。 「まだよ……まだ何かあるはず……」 ぶつぶつと呟きながら、莉夢が考え込む。 「無理しなくてもいいんじゃないか?」 「無理なんてしてないわよ!」 即座に言い返してくる。 その割には、どう見ても朝より動きが鈍い。 「とにかく! 今日一日は私が何でもやるって決めたんだから!」 ◇ ◇ ◇ 放課後を告げるチャイムが鳴る頃には、莉夢は自分の机に突っ伏して、完全に動かなくなっていた。 「つ、疲れた……」 「だから言っただろ。お前が大変なだけだって」 「うるさいわね……」 もはや言い返す元気も残っていないらしい。 俺は鞄を手に取ると、席を立った。 「ちょっと待ってろ」 「……どこ行くのよ」 「すぐ戻る」 そう言い残して教室を出ると、自動販売機で飲み物を一本買って戻ってきた。 相変わらず机に突っ伏している莉夢の前に、ペットボトルを置く。 「ほら」 「……何これ」 「見れば分かるだろ。飲み物」 「そうじゃなくて。なんで結飛が私に買ってくるのよ」 莉夢が顔だけを上げ、不思議そうに俺を見る。 「誰かさんが勝手に疲れ切ってるからだろ」 「誰のせいだと思ってるのよ……」 「俺は頼んでないけどな」 「むぅ……」 莉夢が不満そうに頬を膨らませる。 だが、ペットボトルへ視線を落とすと、小さく口元を緩めた。 「……でも」 「ん?」 「こういうの、悪くないわね」 「そうか?」 「だって、人間を堕落させようとしてたのに……」 莉夢は少しだけ照れくさそうに笑う。 「気付いたら、私の方が助けられちゃった」 「……たまたまだ」 「そういうところが、堕落させがいがあるのよ♪」 そして莉夢はペットボトルを手に取り、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。 よっぽど喉が渇いていたらしい。 「……生き返るわ」 「大げさだな」 「本当に疲れたんだから……」 そう言って、莉夢は再び机に身体を預けた。 朝はあれだけ自信満々だったのに、見る影もない。 「それで?」 「……何よ」 「俺をダメ人間にする作戦は成功したのか?」 俺が尋ねると、莉夢がぴくりと反応する。 そして少し考え込んだ後、ゆっくりと顔を上げた。 「……でも、今日の結飛は私にいっぱい頼ったわよね?」 「ほとんどお前が勝手にやったんだろ」 「細かいことはいいの! つまり、私がいないとダメになってきてるってことでしょ!」 「なってない」 「即答しないでよ!」 どうやら、これだけ疲れても懲りてはいないらしい。 「とにかく、今日の作戦は大成功よ!」 「どこがだよ」 「次はもっと楽を覚えさせてあげるんだから!」 さっきまで机に突っ伏していたとは思えないほど、莉夢は得意げに胸を張る。 結局、今日一日で俺がダメ人間になることはなかった。 むしろ最後には、俺がこいつの世話をすることになっている。 作戦としては、どう考えても失敗だろう。 まあ、朝からあれこれ世話を焼かれたこと自体は、悪い気はしなかったけど。 ……もちろん、そんなことを本人に言うつもりはないけど。

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