逸漣 / 第13話

第9話 アトリエの陰と光

 アトリエの窓の外では鈴虫が静かに鳴いている。ランプも付けず、明かりは月明かりだけ。麗奈の肩の輪郭を銀色の光が柔らかく照らしていた。  麗奈は何気なく、その指輪を見つめた。  淡く、寂しく光る指輪——もう戻らないあの時間をそっと祈るように、息をひそめた。 「その指輪は……?」  背後から届く百合子の囁き声に、麗奈は少しだけ驚き振り返った。  だが、手は隠さなかった。  もう嘘をつくのも、隠すのも疲れていたから。 「……昔、心を預けた人のものです。でも、いまはもう──」  言葉の続きを、麗奈はそっと飲み込んだ。  その瞬間──  百合子は静かに近づき、指輪をした麗奈の右手にそっと手を重ねた。  細く白い指に、百合子のちいさな手が震えるように触れた。  脈打つ鼓動が指先から伝わり、麗奈の息がひそやかに乱れるのに百合子は気づいた。 「そう……辛かったのね」  百合子の声に嫉妬はなく、過去ごと抱きしめるような女性の優しさがあった。  麗奈は目を伏せ、震える唇をわずかに開く。  振り払おうと思えばできるのに、今はその手が麗奈には必要だった。 「今だけ……手を繋いでいてもいいですか?」  指先を絡めると、麗奈の瞳が僅かに潤み、静かな笑みが零れた。  頑なに閉ざしていた麗奈の心の扉が、ひとすじだけ開いた音が聞こえた気がして、二人はそっと息をひそめた。    ◇    ──百合子の指先に伝わる肌の張り、微かな震え、呼吸のひそやかな揺らぎ。  今まで何百枚も麗奈を描き、その姿に落ちる光も陰影も知っていたはずだったのに。  けれど、この手に触れなければ知り得なかった、心の揺れや本音が伝わってきた。麗奈がいつも明るく天真爛漫に見えていたのは、幻だったのか。  百合子は麗奈の何を見ていたのだろうかと、不甲斐なく思った。  冷えた手に触れているのに、胸の奥にじんわり広がる、言葉にならない熱。  恋なんて分からない。  ただ、今は離れたくない――。  夜の帳がアトリエを飲み込み、微かな呼吸と指先の触れ合いを隠していく。月明かりは静かに机や絵具瓶に淡い影を落とし、空気に溶けるように銀色の光を散らした。

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