芦名 雅 / 第7話

第七話 王都からの影

 平穏な日々は、長くは続かなかった。  ある晩、見知らぬ男が領地の館に忍び込んだ。  人間には気づけぬ足音でも、吾輩の耳はごまかせない。  吾輩はいち早くそれに気づき、暗闇の中でその顔を見た。  知らぬ顔である。  だが、男が小声で呟いた名前には覚えがあった。 「グレゴール様の命令だ。必ず見つけろ」 「昔の会計記録さえ処分できればいい。余計なものには触るな」  男はそう続けた。  なるほど。やはり狙いは金に関する何からしい。  王都で聞いた声――あの宰相補佐官の名である。  男は館の書庫に忍び込み、何かの書類を漁っていた。  セレスティーヌの父、公爵家の古い記録らしきものである。  吾輩は棚の影から様子を窺った。  これでも吾輩は慎重な猫である。  ......三秒ほどは。  男が一冊の帳簿を懐へ入れようとした瞬間、吾輩は足元へ飛びかかり、思い切り爪を立てた。  男が足を振り上げる。吾輩は身をひねって避け、今度は手首へ飛びついた。  革紐が爪に引っかかり、小さな金属片が床へ転がる。  それでも男は拾う余裕もなく、窓から夜の庭へ逃げていった。 「うわっ! 何だ、この猫は!」  失礼な。  ルシフェルである。  男は悲鳴を上げ、書類を落として逃げていった。  吾輩の爪には、先ほど切れた革紐が残っていた。  床に落ちた金属片には、見覚えのある紋が刻まれている。王都でグレゴールの馬車に付いていたものと同じ、鷲を模した意匠だった。  吾輩はそれを前足で転がし、書類のそばまで運んでおいた。  騒ぎに気づいた使用人たちが駆けつけたときには、もう男の姿はなかった。 「何かを、探していたようですね」  セレスティーヌは、床に散らばった書類を一枚ずつ拾い上げていった。  やがて、その手が止まる。 「これは......父の代の、寄付金の記録?」 「それに、これは......グレゴール卿の家の使用人章?」  セレスティーヌは床の金属片を拾い、目を細めた。  ようやくである。吾輩は何度も言っているが、人間は察しが悪い。  吾輩は、その書類の端をじっと見つめた。  グレゴールという男が探していたもの。  それはきっと、セレスティーヌを陥れた本当の理由に繋がっている。  婚約破棄そのものが目的ではない。  公爵家の信用を落とし、古い帳簿から目を逸らさせたい理由が、どこかにある。  吾輩の頭の中では、王都で聞いた会話と、目の前の帳簿がようやく一本の糸で結ばれ始めていた。  だが、それを言葉で伝える術を、吾輩は持たない。  もどかしさに、吾輩は思わず書類の上で香箱座りをした。 「......もしかして、これが大事なもの、ということ?」  セレスティーヌが、ふと吾輩を見た。  吾輩も見返した。 「......まさかね」  まさかではない。  猫の行動に意味を見出そうとする程度には、この娘も追い詰められているらしい。  ならば吾輩も、その期待に応えてやろうではないか。

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