芦名 雅 / 第1話

第一話 吾輩の飼い主は、どうやら悪役らしい

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。  もっとも、この屋敷の者どもは勝手に「ルシフェル」などという大層な名で呼んでいる。  漆黒の毛並みに金色の瞳だから、いかにもそれらしいと思ったらしい。人間というものは、名前をつける際には妙に張り切る生き物である。  吾輩としては、そのように仰々しい名を与えられる筋合いはないのだが、餌の時間に「ルシフェル」と呼ばれて出て行かねば損をするので、一応それらしく振る舞ってやっている。  猫にとって名前とは、餌の器が鳴る音と大差ない。呼ばれた先に肉か魚があるのなら、魔王だろうが大賢者だろうが、好きに呼べばよろしい。  ただし「かわいい子ちゃん」だけは断固として認めない。吾輩にも矜持というものがある。  吾輩の飼い主は、ヴォルフレイム公爵家の令嬢、セレスティーヌという。  世間では、この娘のことを「悪役令嬢」と呼ぶらしい。  吾輩に言わせれば、悪役なのはどう考えても王太子の方である。  ちなみに「悪役令嬢」だの「婚約破棄」だの「追放」だのという小難しい言葉を、吾輩に教えたのは、かつてこの屋敷で下働きをしていた一人の女中である。名は、もう覚えていない。  その女中は、異世界とやらから来たのだと、事あるごとに吾輩へ語って聞かせた。  曰く、あちらの世界には、こういう筋書きにはこういう型がある、と。  高慢な公爵令嬢。平民の可憐な娘。王太子。婚約破棄。断罪。そして追放。 「最後は悪役令嬢が国外へ追い出されるか、辺境で妙に有能になって見返すのよ」と、女中は得意げに言っていた。  人間はずいぶん忙しい生き物である。猫ならば、嫌いな相手とは同じ窓辺に座らなければ済む話だ。  吾輩は膝の上で丸くなりながら、それを右の耳から左の耳へ聞き流していたのだが、存外、身についてしまったものらしい。  その女中、ある日突然「マヨネーズ」なる、卵と油を混ぜただけの奇妙な調味料を作り出し、これが存外に金になった。あっという間に商会を興し、隣国のどこかへ出ていったと聞く。  この屋敷を去っていった人間の中で、もっとも逞しい生き方をした女であった。  おかげで吾輩は、餌の心配はせずとも、この手の物語の型だけは一通り心得ている。 「セレスティーヌ! これはどういうことだ!」  今日も、王太子アルディオンが玄関先で大声を上げている。  吾輩は窓辺で前足を舐めながら、その様子を眺めていた。 ――また始まった。  人間というものは、食事の前になると妙に騒がしい。 「貴様は、平民の娘リーゼに対して、心無い言葉をかけたそうだな! この私が、直々に聞いた話だ!」  声だけ聞けば、今にも戦争でも始まりそうな勢いである。だが話題は、若い娘が若い娘へ何を言ったかというだけのことであった。  王族というものは、些細な話ほど大声で扱わねばならぬ決まりでもあるのだろうか。  セレスティーヌは、いつもの通り眉一つ動かさず答えた。 「存じません」  嘘である。  吾輩は知っている。  存じませんもなにも、当のセレスティーヌ自身が、昨日リーゼとやらに「あなたのような平民が、殿下に近づくなど許しません」と言い放ったのを、この目で見ていた。  言葉だけを拾えば、なるほど立派な悪役である。声は冷たい。顔も怖い。ついでに背筋まで真っ直ぐで、隙がない。  しかし吾輩は、その直前に彼女が侍女へ「最近、リーゼ様の周囲に妙な貴族が集まっているわ。殿下の近くにいれば、余計な敵を作るだけよ」と漏らしていたことも知っている。  ならばそう言えばよいものを、口から出たのが「殿下に近づくなど許しません」である。  この娘には、親切を悪意へ翻訳する奇妙な才能があるらしい。  だが、吾輩はまた別のことも知っている。  同じ日の夜、セレスティーヌは自室で、リーゼの学費の請求書らしきものを、匿名で払い込む手続きをしていた。  封筒には差出人を書かなかった。侍女に尋ねられても「余計なことを知らなくて結構です」と追い払っていた。  徹底している。そこまでして善人と思われたくない理由が、吾輩にはさっぱり分からぬ。  どうやら人間の貴族というものは、親切をするときほど、悪人らしい顔をしなければならぬ生き物らしい。  実に面倒な種族である。 「今日のところは警告に留めておく。だが次に同じことがあれば、婚約そのものを見直すことになるぞ」  王太子はそう言い残し、去っていった。  セレスティーヌは、王太子の姿が見えなくなるまで微動だにしなかった。  だが、扉が閉まった瞬間。 「......もう少し、優しい声で言えばよかった」  遅い。  反省というものは、できれば発言より先に済ませておくべきである。  小さな独り言が、吾輩の耳にだけ届いた。  その夜、セレスティーヌの膝の上で丸くなっていると、彼女はぽつりと言った。 「ルシフェル。わたくし、悪役なのかしら」  吾輩は答えない。  正確には、答えられない。  その代わりに、彼女の指に頭を擦りつけてやった。  感謝の言葉すら、この娘はうまく受け取れないだろうから、せめてこれくらいはしてやろうと思ったのである。  セレスティーヌは少し驚いたように目を丸くし、それから珍しく小さく笑った。 「――変な猫」  吾輩に言わせれば、変なのはお前の方である。

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