朝海 / 第7話

Code7

 カイルの体がふらり、と傾いた。誰もいない部屋で机に手をつく。トイレに行くからと会場を抜け出していた。  甲高い耳鳴りがする。  眩暈もひどい。  何もかも限界だった。  目を閉じてやり過ごす。  そうしていると、幾分か楽になった。荷物を纏めていたボストンバッグを手に取る。ウイッグもカラーコンタクトもしていない。  素のカイルだった。  役目は終わった。  舞台の幕は下りたのである。これで、アイズリーに残る理由はなくなった。悪事を暴いた令嬢として、サラの株は上がっていくはずである。これから、サラを支えていくのは周囲の人たちだ。  だから、一枚の手紙をサラの家に置いてきた。姿を消すつもりでいた。駅に向かって歩き出す。行先はフレイル王国にある緩和医療ケアハウスだった。誰もカイルを知らない土地に行きたかった。  確か、フレイルはレース産業の一大産地である。近年では東洋の島国である日本のノウハウを得て、野菜の栽培を始めたと噂で耳にしていた。  ――さようなら。  ――サラ・ユーズベルト公爵令嬢。    ――そして、生まれ故郷(アイズリー)。  ジルとアンが愛した国に別れを告げる。 『フレイル王国行き列車が到着致します。危険ですので黄色い線までお下がりください』  目的地行きの列車に乗る。都会から田舎へと電車の風景が変化していく。乗っている乗客もまばらだった。何駅も抜かしていく。 『フレイル王国駅、フレイル王国駅。忘れ物落とし物にご注意ください』  やがて、電車のスピードが落ちて駅で停車をした。ホーム一面が山だった。山間にある王国のために、アイズリーよりも肌寒い。  ボストンバックから上着を出すと羽織った。緩和医療ケアハウスまで、少し歩くはずだった。    体をひきずって歩く。ケアハウスには直接、手紙を出して許可は取れていた。   『フレイル王国付属病院 緩和医療ケアハウス イージズの里』  看板が見えた。  ついて安心をしてしまったのか、血を吐き出す。数え切らないぐらい吐き出した。ただでさえ、残っていない体力が容赦なく削れていく。  次の瞬間だった。  カイルの意識は暗転した。  まず、目を開けて入って来たのは、白い天井だった。アルコールの匂いがして、清潔なベッドに寝かされている。起き上がろうとしたが、ベッドに逆戻りをしてしまった。  起き上がる体力も残っていない。 「目が覚めたの? カイル・コールエン君ね。私がここの緩和医療ケアハウスの院長のアイル・ルージュよ。よろしく」  差し伸べられた手を反射的に、弾いてしまった。触れられたくない気持ちが大きく出てしまった。体を触られるのが怖い。  暗殺者としての恐怖心が残っていた。銃を持ち続けた感触は、今でも記憶されている。銃声と火薬の匂いが全身に纏わりついてくる。  そう思うと吐き気に襲われる。気持ち悪くて洗面器に吐いてしまった。話す気力もない。体をベッドに預けるだけで精一杯だった。 「気にしなくてもいいから。吐き気止めの点滴をするわね。まだ、顔色が悪い。もう少し休もうか」  カイルは抵抗もままならず、重たい瞼を閉じた。  ――ここは?  カイルは暗闇で目が覚めた。  先ほどまで、ケアハウスにいたはずだ。 「……る?」  人の声がする。  歩いていた道が外れた。  ドボン、と水中に落ちる。息をするたびにコポコポと気泡になっていく。 「何でお前が生きている?」  今度は水中でもはっきり耳に届いた。 「人殺し。お前が死ねばよかったのに」  聞こえてきたのは、恨みの声だった。ねっとりとした声である。 「生きている価値なんてないだろう? 私たちの手で殺してやるよ」  真っ黒な手が伸びてきた。  首に絡まる。  それで、楽になれるのならそれでよかった。体の力を抜く。これで、ジルとアンに会える。  頑張ったね、と言ってもらえる。  ――父さん、母さん。  ――僕もそっちにいくから待っていて。  体は水中に飲み込まれて、深い場所へと沈んでいく。誰の手も届かない場所まで堕ちていく。浮上できない奈落の底まで導かれていった。  肉体も精神も失う直前だった。  遠くから声がする。    元気いっぱいの明るい声が。  ――……ル……さん。  ――イ……ルさん。  ――カイルさん!  ――今日はいい天気ですよ!  ――こもっていないで、気分転換に庭園の散歩にでも行きましょう!  ――準備をしてくださいませ!  ――ほら、外の風は心地よいですわ。  そんな中でも思い出すのは、サラの存在だった。ここにいないはずなのに、仮初めの婚約者のはずなのに、どうしてサラを思い出してしまうのだろう。  一番に出てくるのだろう。  ずきり、と心が痛む。  呪いの時の痛みと違っていた。  この痛みが何なのかまでは分からない。  ――サ……ラさん。  ――僕は悪夢で言われた通り、人を殺しすぎました。  ――銃声が纏わりついて離れません。  ――両親のためといいながら、自己満足でしかなかったです。  ――血に濡れた僕は、あなたの婚約者にはふさわしくありません。  ――どうか幸せに。  ――好きな人と幸せになって。  それ以上の言葉にはならなかった。カイルのいる場所に、一筋の光が差し込んだ。

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