志乃創 / 第1話

第1話 加害者のいない事件

 異動辞令の端が、指の湿気を吸って柔らかくなっていた。  |柏城《かしわぎ》はそこに印字された文字を、もう一度目でなぞる。  ――刑事部 特殊事象対策係 第九十九課  階段を上がる前にも読んだ。  刑事部のフロアへ入ってからも読んだ。  同僚に尋ねると、誰もが一度だけ考える顔をした。 「そんな課あったっけ」 「なんか端っこにあるらしいぞ」 「窓際だろ、左遷先とか?」  それ以上を知っている者はいなかった。  それでも、噂だけは聞いた。  柏城は刑事部のフロアを抜ける。  忙しそうに電話を取る捜査員や慌ただしく行き交う制服警官。  廊下の向こうから笑い声が聞こえた。  巡査たちが立ち話をしている。  誰かが肩を叩き、誰かが声を上げて笑う。ありふれた昼。  柏城が近づくと、そのうちの一人がこちらを見た。  笑った形のまま、口が閉じる。  隣の男も紙コップを腹の前へ下ろした。  柏城は足を止めず、その間を通り抜けた。  磨かれた床に靴音だけが残った。  三歩ほど進んだところで、背後から声が戻った。  先ほどより低い声で始まり、やがて元の大きさへ膨らんでいく。  柏城は前を向いたまま歩く。  柏城は異動辞令を二つに折った。  折り目が、課名の中央を横切った。  柏城も何も言わない。きっと彼らに悪意はないから。  別に気にしていない。  気にしなくなって久しい。  ただ。自分が通った後だけ少し静かになる廊下を、好きになれないだけだった。  ふと、耳にした噂を思い出す。  九十九課が担当するのは、加害者のいない事件だという。  誰も殺していないのに死体が出る。  誰も連れ去っていないのに人が消える。  休憩室でそれを話した男は、最後に「まあ、怪談だけどな」と笑った。  柏城も笑った。  廊下を曲がるたび、電話の音が一つずつ減っていった。  資料倉庫を過ぎ、使われていない会議室の前を抜ける。  蛍光灯は同じ間隔で続いているのに、奥へ進むほど点灯が遅れていくように見えた。  気付けば自分の足音しか聞こえない。  資料倉庫と会議室に挟まれた場所に小さなドアがあった。  プレートには正式名称。  刑事部特殊事象対策係 第九十九課。  白いプレートの下に、油性ペンの文字が重なっている。 『化け物課』 『税金泥棒』 『窓際部署』  一つ目だけ、何度か消そうとした跡があった。  薄くなった黒い線の上から、また同じ文字が書き直されている。  柏城は異動辞令を胸ポケットへ押し込んだ。  この紙一枚で人生が変わった。  いや、正確には、変わった人生の後始末だった。  二か月前、所属していた機動隊は壊滅した。  生存者の欄には、柏城の名前だけが残った。  原因の欄には、事故とあった。  土砂降りの雨。  暗い室内。  無線機の向こうで、誰かが何度も同じ名前を呼んでいる。  そこから先へ進もうとすると、呼ばれていた名前から先に消えた。  その果てに渡されたのが、この辞令だった。  深いため息。扉に手をかける。  ドアは軽い音を立てて内側へ開いた。  窓際まで差し込んだ昼の明るさの中に、書類の山がいくつも影を落としている。  六つ並んだ机のうち、人がいるのは一つだけだった。  棚には民俗学や伝承学の本が並ぶ。 『妖魔神精名鑑』という背表紙が目に入った。刑事課では見ない本だった。  誰かの話し声も電話の音も聞こえない。  目についたのは奥の机。  机に突っ伏し、腕を枕代わりにして眠っている男。  小柄だった。  黒いワイシャツ。 椅子の脚元には、脱いだ革靴が片方だけ転がっている。  明るく茶色がかった髪は前から後ろへ流し、ポンパドールのようにまとめられていた。  そこに一本だけ差し込まれたピンク色のヘアピン。  刑事には見えない。むしろ補導される側だ。  周囲に積まれた書類の山から察するに、仕事中らしい。  柏城は思わず眉をひそめた。  本当にここは刑事部なのか。入る部屋を間違えた気がする。 「おや」  背後から声がして、柏城は半歩だけ脇へ退いた。  入口に立っていた男は、濡れた傘を閉じながらこちらを見ていた。  黒縁眼鏡の奥で目を細め、傘の先から落ちた水を靴で避ける。  三十代前半。細身。整った顔立ち。  背広もきちんと着こなしていた。男は柔らかく微笑む。 「柏城さんですね」 「はい」  柏城は反射的に背筋を伸ばした。 「本日付で異動になりました柏城です」 「|香月詩音《かづきしおん》です」  男は傘を壁へ立てかけ、軽く敬礼した。  落書きの下に立つには、身なりが整いすぎていた。  少なくとも、プレート下の落書きから想像するような人間ではない。  目の前の男は地域課にいると言われても違和感がない。  むしろ、理想的な警察官に見えた。 「第九十九課の課長です。これからどうぞ、よろしく」 「……課長?」  柏城は思わず聞き返す。  想像していた課長像とかけ離れている。 「よく驚かれます」  その言葉に柏城は慌てて口を閉じた。  香月は気にした様子もなく奥の机へと視線を向ける。 「|紫谷《したに》くん」  返事はない。 「紫谷くん」  やはり返事はない。  香月は少し考えるように首を傾げた。  机の横まで行き、積まれた書類の一番上から一枚抜き取る。 「仕事ですよ」  紙が擦れる音に、紫谷の肩が動いた。  腕の隙間から顔が上がる。  眠そうだった。  まるでお昼寝の時間を逃した子供のような目。 「……雨っすね」  香月は窓へ目を向けた。 「秋雨ですね」 「やだなぁ」  紫谷は目元を擦りながら、窓ガラスを伝う水を見た。 「俺は嫌いじゃないですよ」  香月は微笑む。 「心地いい音は落ち着きますから」 「んは、香月さんらし」  紫谷は欠伸を噛み殺しながら椅子へ深く沈み直した。  香月は何も言わず、机から落ちかけていた書類を中央へ戻す。 「新人さんです」  香月に促され、紫谷の視線が柏城へ向く。 「へえ。噂の人だ」 「本日付で異動になりました。柏城です」 「俺紫谷ね。よろしく」  紫谷はそれだけ言うと、机に置かれた煙草の箱を指先で裏返した。  柏城は一拍待った。香月が割って入る。 「すみません。いつもこんな感じで」 「なにそれ」  紫谷が欠伸混じりに言った。 「本来なら俺が今日一日案内をする予定だったんですが」  香月が視線を上げ柏城と目を合わせる。  彼の机の上には資料が広がっていた。付箋だらけだ。 「少し予定が変わりまして。運が悪かったですね」  傍らのファイルを抜き取り、紫谷の机へ滑らせる。

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