芦名 雅 / 第3話

第2章 病院ではなかった

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。 特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません 最初の日、灯子は三度吐いた。 少女たちへ仕事を教えたのは、照屋シズという看護婦だった。三十代半ばで、髪をきつく後ろにまとめ、袖口には何度洗っても落ちない茶色い染みがあった。 「泣くのは止めない。でも手は止めない」 最初にそう言った。 「分からなかったら聞く。勝手に薬を触らない。水は一滴でもこぼさない。人を動かすときは一人でやらない。できないことを、できるふりしない」 灯子は最後の言葉だけ覚えた。ここでは、できないことばかりだったからだ。 千鶴は包帯を巻くのが早かった。裁縫で手を使い慣れているせいか、布の扱いが丁寧だった。律子は薬品棚の位置を一度で覚えた。夏子は患者に話しかけるのが上手かった。返事をする力のある人には、くだらないことを言って少しだけ顔を緩ませた。 澄江は最初、死者の顔を見られなかった。初江は逆に、怖いほど黙って見た。かなは初江が固まると、何も言わず肘でつついた。美代は咳の激しい患者のそばにいるときだけ、学校で習った歌を声にならないほど小さく口ずさんだ。 それぞれ役に立つ方法が違った。誰も準備してきたわけではない。準備する時間など最初から与えられていなかった。 壕の中には昼も夜もなかった。裸電球の黄色い明かりがところどころに浮かび、その外側はすぐ闇になった。天井から落ちる水滴、誰かの咳、担架の脚が土を擦る音、金属盆の触れ合う音。それらが途切れず重なり、静かな瞬間の方がかえって不吉に感じられた。 一度目は、運ばれてきた兵士の傷を見たとき。 二度目は、その兵士が自分より二つしか年上ではないと知ったとき。 三度目は、夕方にはもうその兵士が呼吸をしていなかったときだった。 「水……」 十八歳の兵士は何度もそう言った。 水は不足していた。 看護婦は灯子へ首を振った。 「一口だけ」 灯子は濡らした布を兵士の唇へ当てた。 「母ちゃんに……帰るって……」 それが最後の言葉になった。 灯子は死んだ人の目を閉じる方法を知らなかった。 つい数時間前まで、自分にとって「死体」は教科書や新聞の中の言葉だった。目の前の顔にはまだ汗が残り、頬にも温度があるように見えた。その人を死者と呼ぶことに、頭の中だけが遅れていた。 看護婦に教えられて、震える指で瞼を下ろした。 夜になっても患者は運ばれてきた。 砲撃。 爆風。 落盤。 切断。 高熱。 少女たちは包帯を洗い、血のついた布を運び、排泄物を処理し、呻く兵士へ水を含ませた。 眠る場所は通路の端だった。 横になると、すぐ隣に担架があった。 その担架の人間が生きているのか死んでいるのか分からないこともあった。 最初の夜、灯子は千鶴の手が震えていることに気づいた。昼間は器用に包帯を巻いていた指が、毛布の端をつまんだまま細かく揺れていた。 「寒い?」 「別に」 「震えてる」 千鶴は自分の手を脇へ隠した。 「灯子だって吐いてたじゃん」 「三回」 「数えなくていい」 二人とも少し笑った。笑ったあと、すぐ隣の担架から低い呻き声がして、笑ったことを悪いことのように感じて黙った。 その感覚にも、やがて慣れていった。誰かが苦しんでいる隣で食べ、眠り、笑うことを覚えなければ、自分たちの身体の方が先に動かなくなる。 夜半、灯子は教室へ戻った夢を見た。 窓から夏の光が入り、黒板には算術の問題があり、夏子が机の下で黒糖を齧っている。昌子に見つかって叱られ、みんなが笑った。 その笑い声の中に、別の声が混じった。 「水をくれ」 「痛い」 「お母さん」 灯子が振り返ると、教室の机が担架に変わっていた。 目を覚ましても、その声は消えなかった。 暗い壕のあちこちから、本当に誰かが母親を呼んでいた。誰かが「まだ死にたくない」と泣き、誰かが「助けてくれ」と何度も同じ言葉を繰り返していた。 灯子は毛布を頭まで被った。 それでも聞こえた。 夢の方がましだった。目を覚ませば終わるからだ。 ここでは、目を覚ましても悪夢が続いていた。 眠れば夢の中へ壕が入り込み、起きれば本物の壕が待っていた。灯子はいつから眠っているのか、どこからが夢なのか分からなくなることがあった。自分の名前を呼ばれても一拍遅れて振り向く。宮里灯子という女学生が、少しずつ遠くへ置き去りにされていくようだった。 「後方病院って言ってたよね」 暗闇の中で千鶴が言った。 「うん」 「後方って、前がどこなの」 灯子は答えられなかった。 爆発音がした。 土埃が天井から落ちる。 夏子が毛布を頭まで被った。 「ねえ。明日になったら慣れるかな」 誰も返事をしなかった。 その夜、澄江は小さなノートを取り出した。 学校で作文を書くために使っていたものだった。 「何してるの?」 灯子が聞いた。 澄江は昼に死んだ兵士の名前を書いていた。 『東條一郎 十八歳 北浜村』 その下に。 『母ちゃんに帰ると言った』 「なんで?」 「忘れたくないから」 澄江は答えた。 「今日だけで、何人死んだか分からないでしょう」 灯子は黙った。 「番号で運ばれてきて、番号で片づけられるの、嫌だ」 「でも、全部覚えられないよ」 「だから書くの」 澄江は鉛筆を握った。 「名前が分かる人だけでも」 その翌日から、少女たちは負傷兵へ名前を尋ねるようになった。 名前。 出身地。 家族。 帰ったらしたいこと。 死んだ者については、最後に口にした言葉。 ノートの頁は日に日に埋まった。 戦争は人間を数に変えていった。 だから少女たちは、せめて名前へ戻そうとした。

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