芦名 雅 / 第24話

第15話 会いたいと言えるまで

 冬が近づくにつれ、文化祭の熱気は遠い出来事になっていった。付き合い始めた頃のぎこちなさも少しずつ薄れ、二人で帰ることも、休日に会うことも日常になった。  だからこそ、陸が家族の用事で一週間県外へ行くと聞いた時、茜 は思った以上に動揺した。 「一週間だけだよ」 「知ってる」 「毎日連絡するし」 「別にしなくていい」 「する」 「......勝手にすれば」  出発の日、駅まで見送りに行くつもりはなかった。なのに気づけばホームにいた。 「来てくれたんだ」 「たまたま駅に用事」 「朝七時に?」 「うるさい」  電車が入ってくる。  陸が乗り込む直前、茜は制服の袖をつかんだ。 「陸」 「ん?」 「......早く帰ってきて」 「うん」 「それだけ」  電車が出たあと、茜は自分の言葉を何度も思い返した。以前なら絶対に言えなかった。  一週間は長かった。毎晩メッセージは来た。写真も送られてきた。それでも、画面越しでは足りないと思ってしまう。  五日目の夜、茜は何度も文字を打ち直した。 『暇』  違う。 『明日何時に帰る?』  まだ明後日だ。 『別に寂しくないけど』  最悪だ。  最後に、目を閉じて送った。 『会いたい』  送信した瞬間、スマートフォンをベッドへ投げた。  すぐ着信が鳴った。 「もしもし」 『俺も』 「......何が」 『会いたい』  茜は泣きそうになった。 「そう」 『茜』 「何」 『今、絶対笑ってる』 「笑ってない!」  笑っていた。  帰ってきた日、茜は駅の改札で待った。今度は「たまたま」と言わなかった。  陸を見つけた瞬間、足が勝手に動いた。人目も忘れて腕をつかむ。 「おかえり」 「ただいま」 「......会いたかった」 「うん。俺も」  たったそれだけのことを言えるようになるまで、茜には八年と数か月かかった。  帰ってきた日の夜、陸の部屋に、茜からお土産だと言って小さな包みが届いていた。地元の駄菓子屋で買った、昔よく二人で食べていた駄菓子の詰め合わせだった。 「わざわざ買いに行ったのか」  電話越しにそう聞くと、茜は少し照れくさそうに答えた。 『駅前、通っただけ。ついでに寄っただけだから』 「ついでに、俺のために選んでくれたんだ」 『そ、そういう言い方しないでよ』  笑いながらのやり取りに、離れていた一週間の寂しさが、少しずつ埋まっていくのを感じた。 「今度、俺からも何か持ってく」 『別に、いらないけど』 「いらないは嘘だろ」 『......うるさい』  電話の向こうで、茜が小さく笑う気配がした。  翌日、学校で顔を合わせた瞬間、茜は開口一番こう言った。 「もう、一週間もいなくならないでよね」 「善処する」 「善処じゃなくて、約束して」 「わかった、約束する」  その言葉に、茜はようやく安心したように頷いた。  「会いたい」の一言を送るまでに、茜には八年と数か月かかった。だが、一度口にできてしまえば、それはもう、当たり前の気持ちとして、二人の日常に溶け込んでいった。   エピローグ 八年越しの、その先へ 春。  桜が咲き始めた公園で、陸と茜は八年前と同じベンチに座っていた。  付き合ってから半年。二人は何度も喧嘩し、何度も仲直りし、昔よりずっとたくさん話すようになった。  茜は鞄から古い星座図鑑を取り出した。 「これ、やっぱり私が持っててもいい?」 「返したじゃん」 「借り直すの」 「いつ返す?」  茜は少し考えた。 「......ずっと先」 「また八年?」 「もっと」  陸が笑った。  ページを開くと、幼い字が残っている。『あかねはこれがすき』『りくくんとみる』。その下に、茜は新しいペンで小さく書いた。 『今も好き』 「星が?」  陸が聞く。  茜はペンを止めた。  以前なら、ここで逃げた。  別に。違う。そういう意味じゃない。  何度もそうやって、本当の気持ちを言葉の裏へ隠してきた。  でも今は、少しくらいなら言える。 「星も」 「も?」 「......陸も」  陸が目を丸くした。 「何その顔」 「いや、茜が普通に好きって言ったから」 「言えるし!」 「もう一回」 「調子に乗らないで」 「じゃあ俺から言う。好き」 「......知ってる」 「茜は?」 「知ってるでしょ」 「言葉にする約束」  茜は頬を膨らませた。  そして、仕方なさそうに――けれど、嬉しそうに笑った。 「好き」 しばらくして、茜は鞄の奥から細長い箱を取り出した。 角が少し擦れている。長い間、何度も開け閉めされたものだと分かった。 「これ、何?」 「……八年分」 陸が蓋に手をかけると、茜は慌ててその手を押さえた。 「今ここで読むのは禁止!」 「じゃあ、いつ読むんだよ」 「家。私がいないところで。あと、読んでも笑わないこと」 「笑わない」 「絶対?」 「絶対」 箱の中には、出せなかった手紙が何十通も入っていた。 会いたかった日。寂しかった日。陸を忘れようとした日。それでも忘れられなかった日。 茜が言葉にできなかった八年間が、全部そこにあった。 「本当は、ずっと渡さないつもりだった」 「なんで渡す気になった?」 茜は少しだけ考えてから答えた。 「もう、昔の私だけに任せなくていいから」 今の自分なら、会いたいと言える。好きだと言える。腹が立ったら怒れるし、寂しかったら寂しいと言える。 手紙は、言えなかった言葉の墓場ではなくなった。 八年間を陸に渡しても、明日からの言葉は自分の口で伝えられる。 陸は箱を大切そうに抱えた。 「全部読む」 「……うん」 「それで、明日また茜に会う」 「毎日会ってるでしょ」 「それでも」 茜は笑った。  風が吹き、桜の花びらが図鑑の上へ落ちた。  八年前、二人は「大人になったら結婚する」と約束した。  それが本当に叶うかは、まだ誰にも分からない。  子供の約束だけで未来を決める必要もない。  大切なのは、八年前の言葉ではなく、今日も明日も互いを選び直していくことなのだと、二人はもう知っている。 陸はふと、図鑑の余白に残った幼い字を指でなぞった。 「なあ。あの約束、まだ有効だと思ってる?」 茜の肩がぴくりと揺れた。 「……知らない」 「じゃあ、もう一回約束する?」 今度は子供の勢いではなく、未来を全部決めつけるためでもなく。 いつかその日が来た時、また二人で選べるように。 茜はしばらく黙っていた。 「……今度は、忘れない?」 「忘れない」 「離れても?」 「言うよ。会いたいって」 茜は目を細めた。 「……なら、考えてあげてもいい」 「それ、約束になってる?」 「うるさい」 けれど、つないだ手は離さなかった。 「帰ろうか」 「うん」  陸が手を差し出す。  茜は迷わず握った。  公園を出る直前、陸が思い出したように言う。 「明日の弁当、何?」 「は?」 「楽しみで」 「......唐揚げ」 「やった」 「勘違いしないでよね」  茜はいつもの言葉を口にしかけて、少しだけ笑った。 「べ、別にあんたのためじゃ――」  そこで止める。  陸を見る。 「......ううん。明日は、あんたのため」  八年かけて、ようやくその言葉は嘘ではなくなった。  そして二人は、手をつないだまま春の道を歩いていった。

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