芦名 雅 / 第8話

第8話 崩れる化けの皮

半年ぶりに見る王都は、何も変わっていなかった。 同じ白い城壁。 同じ大通り。 同じ王宮の尖塔。 変わったのは、自分だけなのだとクロエは思った。 馬車が王宮へ近づくにつれ、手のひらに汗が滲む。 向かいに座るジークハルトが言った。 「帰るか」 「え?」 「今なら引き返せる」 「……行かせないと仰ったり、帰るかと仰ったり、どちらなのです?」 「決めるのはお前だ」 クロエは一瞬黙り、それから笑った。 「では、行きます」 「分かった」 公聴会は、王宮の小議事堂で開かれた。 議長を務めるのは国王直属の法務卿で、左右には神殿と王立魔術院から一名ずつ監査役が座っていた。誰か一派の裁量だけで結論を出せないよう、ジークハルトが請求時に条件として求めた形だった。記録官の羽根ペンが紙を擦る音まで、やけに大きく聞こえた。 王族、神殿関係者、上級貴族。 アルフォンスもいる。 その隣には、イレーネ。 半年ぶりに見る元婚約者は、以前より苛立って見えた。 「クロエ」 名を呼ばれ、胸が一瞬だけ縮む。 それでもクロエは礼を執った。 「王太子殿下。お久しぶりでございます」 「……随分、元気そうだな」 「おかげさまで」 皮肉に皮肉で返す必要はない。 それだけで、アルフォンスの顔がわずかに歪んだ。 公聴が始まる。 クロエは壇上へ進んだ。 大勢の視線。 婚約破棄の夜が蘇る。 足が少し震えた。 視線を横へ動かす。 ジークハルトがいる。 無表情で、何も言わない。 ただ、そこにいる。 それだけで息ができた。 「わたくし、クロエ・ヴァンディミオンは、本日、自らの聖女認定に関する経緯をお話しいたします」 声は震えなかった。 五歳で水晶が光ったこと。 神殿から聖女候補と呼ばれたこと。 奇跡を起こせないまま、それでも聖女として教育されたこと。 自分自身、一度も聖女だと確信したことはなかったこと。 それでも期待に応えなければならないと思い、否定できなかったこと。 「もっと早く『違う』と言うべきだった――そう思います。成長してからも、期待を失うことが怖くて、はっきり否定できませんでした。その弱さまで、なかったことにするつもりはございません」 「わたくしには、大いなる治癒の力も、神託を受ける力もございません。少なくとも、聖女と呼ばれる根拠になるほどの力はございません」 議事堂が静まり返る。 「ですから、わたくしは聖女ではありません。それが事実です」 誰かが息を呑んだ。 「ですが」 クロエは顔を上げた。 「わたくしという人間そのものまで、偽物だったとは思いません」 胸の奥に、確かなものがあった。 「聖女でなくても、できることがありました。帳簿を読み、領地の不正を見つけ、制度を整えることができました。わたくしを必要としてくださる方々もいました」 ジークハルトと目が合う。彼は何も言わなかった。言わなくていい。ここから先は、自分の言葉で言える。 「だから、今日ここで申し上げます。わたくしは聖女ではありません。そして、それを恥じるつもりもございません」 最後の言葉が議事堂の高い天井へ吸い込まれていった。 誰かが反論するかと思った。偽物が開き直ったと笑われるかもしれないとも思った。 けれど、すぐには誰も口を開かなかった。神官の一人は視線を伏せ、老貴族は腕を組んだまま黙っている。中には、クロエではなく神殿側を責めるような視線を向ける者もいた。 十一年前、五歳の少女に「聖女かもしれない」と言った大人たち。その言葉を利用した家と王家。そして否定できずに従った自分。誰か一人だけに背負わせてよい責任ではなかった。 それを、ようやく公の場で共有できた気がした。 やがて、神殿側の老司祭が重い声で口を開いた。 「当時の水晶反応は、聖力への適性を示しただけで、聖女の確定判定ではありません」 議事堂がざわめく。十一年前に大人たちが膨らませた言葉を、大人の側がようやく訂正した。クロエは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。 やがて、議長が頷いた。 「記録に残す」 短い言葉だった。 けれどクロエには、それで十分だった。十一年間、自分では外せないと思っていた鎖が、ようやく音もなくほどけていく。 そこで終わるはずだった。 ジークハルトが立ち上がるまでは。 「もう一件、事前に申請していた補足審議を求める」 アルフォンスの顔が強張った。 「何だ、アルディア公爵」 「現聖女認定の正当性についてだ」 法務卿は手元の申請書を確認し、短く頷いた。 「許可する」 イレーネの顔から血の気が引く。 「な、何を……」 ジークハルトの部下が資料を配る。 神殿の測定記録。 魔術師の出入り記録。 花壇から検出された保存魔術の痕跡。 騎士の治療記録。 王太子府から保存魔術工房へ流れた支出記録。さらに、王太子派の魔術師の一人が提出した証言書。 『殿下の意向により、聖女誕生を印象づける演出を行った』 会場が騒然となった。 「違う!」 アルフォンスが立ち上がる。 「これは捏造だ!」 「なら、筆跡と魔力署名を鑑定すればいい」 ジークハルトは冷静だった。 「すでに王立魔術院の予備鑑定では一致している」 法務卿がアルフォンスへ視線を向けた。「殿下。なぜ聖女認定という国家的判断に、王太子府付きの魔術師を介入させたのですか。中立の鑑定を求めなかった理由をお答えください」 アルフォンスの口が開き、閉じた。いつもなら肩書きだけで押し切れた沈黙が、今日は誰も助けてくれない。 「そんな……」 イレーネが震える声を漏らした。 クロエは彼女を見た。 演技に見えなかった。 「イレーネ様」 「……わたし、知らない」 イレーネの目から涙が落ちる。 「最初に花が咲いたとき、本当に自分の力だと思ったの。殿下も神官様も、みんな聖女だって……」 アルフォンスが振り返る。 「イレーネ、余計なことを言うな!」 その一言で、空気が変わった。 イレーネがアルフォンスを見る。 「……殿下は、知っていたのですか」 「違う! 私はただ、お前の力を皆に認めさせるために――」 「知っていたのですね」 イレーネの声は、かすれていた。クロエを見て笑っていた夜会の少女ではなく、自分が信じていた足場を突然失った一人の娘の声だった。 クロエの胸に複雑な痛みが走った。イレーネの存在によって自分が断罪された事実は消えない。けれど目の前の彼女もまた、「聖女」という役を与えられ、その言葉を信じていたのだとしたら。 憎めば、もっと単純だったかもしれない。けれど自分が欲しかったのは、誰かを同じ場所へ突き落とすことではなかった。 「殿下」 クロエが静かに言う。 アルフォンスが睨みつける。 「何だ」 「わたくしとの婚約を破棄なさったことを、今さら責めるつもりはございません」 「……」 「ですが、誰かを聖女に仕立て上げるために、別の誰かを偽物として踏みつける。そのようなことを繰り返してはなりません」 アルフォンスは何も言えなかった。 議事堂のあちこちから、押し殺したざわめきが起きる。アルフォンスは何度か口を開いたが、いつものように「王太子である自分が言えば通る」という空気はもうなかった。 証拠がある。証言がある。そして何より、彼自身がイレーネの問いに答えられなかった。 クロエはその姿を見ても、勝ったという気持ちにはならなかった。ただ、あの婚約破棄の夜に自分を縛っていた相手が、思っていたほど絶対的な存在ではなかったのだと知った。 その日の公聴会で、イレーネの聖女認定は一時停止。 神殿と王太子派魔術師への正式調査が決まった。 アルフォンスについても、王家内部で責任を問う審議が始まることになった。 議事堂を出た瞬間、クロエは長く息を吐いた。 「終わりました」 「ああ」 「本当に、終わったのですね」 ジークハルトは少しだけ首を横に振った。 「終わったのではない」 「え?」 「お前が、自分で終わらせたんだ」 それは勝者へ向けた称賛ではなかった。怖さを抱えたまま壇上へ立ち、自分の言葉で過去に区切りをつけた――その選択を、ジークハルトは見ていた。肩書きではなく「自分がしたこと」を見てもらえた。それが、何より嬉しかった。 クロエは返事の代わりに、小さく息を吐いた。 そして、ようやく笑った。 廊下の先で、小さな声がした。 「クロエ様」 振り返ると、イレーネが一人で立っていた。いつも彼女のそばにいた王太子の姿はない。 「……申し訳、ありませんでした」 震える声だった。 クロエはすぐには答えなかった。簡単に「許します」と言えば、あの夜に受けた傷まで嘘になる気がした。 「わたくしは、まだすべてを許せるほど立派ではありません」 イレーネの肩が小さく揺れる。 「ですが、あなた一人にすべての責任があるとも思っておりません」 クロエは静かに続けた。 「これからは、誰かに言われたからではなく、ご自分で選んでください。わたくしも、そうするつもりです」 イレーネは涙を拭い、小さく頷いた。 二人が友人になることは、たぶんない。それでも、同じ役に縛られた二人が別々の道へ歩き出すには、それで十分だった。

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