芦名 雅 / 第3話

第2話 新人研修は異世界仕様

「お、ちゃんと出勤してきたか」  午後十時。ミッドマート北森店の裏口から入った俺を見て、榊原先輩は片手を上げた。昨日と同じ、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン。胸元では、三日月を抱えた白猫がにこにこと笑っている。そのかわいらしい刺繍の上にある本人の顔は、相変わらず眠そうだった。 「そりゃ来ますよ」 「そうか」 「……なんですか、その反応」 「別に」  先輩はそれだけ言うと、手にしていた段ボール箱を持ち直した。 「着替えたら品出し手伝え。飲料重いから」 「はい」  昨日、俺はこの店で二本足で歩く巨大なトカゲを見た。そいつは普通に自動ドアから入ってきて、普通に買い物をして、普通に見たこともない銀貨で会計を済ませて帰っていった。そして自動ドアの向こうには、日本の山道ではなく、真っ暗な森が広がっていた。先輩は言った。――異世界につながるコンビニ。一晩寝ても、頭の中の整理はまるで追いついていない。それでも俺が今日もここへ来た理由は単純だった。時給三千円。それに――。いや、今は仕事だ。俺はバックヤードで制服に着替え、売り場へ戻った。  先輩は飲料ケースの前にしゃがみ込み、箱からペットボトルを取り出していた。 「先輩」 「あ?」 「昨日のこと、聞いていいですか」 「仕事しながらならな」 「そこはちゃんと説明してくれないんですか」 「説明だけで給料もらえるなら喜んでする」 「時給三千円もらってるじゃないですか」 「じゃあ手動かせ」  正論だった。俺は段ボールを開け、スポーツドリンクを一本ずつ冷蔵ケースへ入れていく。 「昨日、零時になったら森につながりましたよね」 「つながるな」 「毎日ですか?」 「毎日。零時から朝六時まで」 「六時間も?」 「そう」  先輩はペットボトルの列を前へ寄せながら、なんでもないことのように答える。 「じゃあ、その間ずっと昨日みたいな客が来るんですか?」 「来る日は来る」 「来ない日は?」 「暇」 「普通のコンビニと同じ答えだ……」 「コンビニだからな」  そこだけ切り取れば本当に普通の夜勤だった。俺は次の箱に手を伸ばす。 「あと、昨日のことなんだけど。外で喋るなよ」  先輩の声が少し低くなった。スポーツドリンクを差し込もうとしていた俺は、ラベルを棚へ向けたまま手を止めた。 「……やっぱり秘密なんですか?」 「秘密っつーか、事情を知らねえやつに本当のこと喋ろうとすると、お前が忘れる」 「忘れるって、昨日のリザードマンのことを?」 「この店のこと、まとめてらしい」  ボトルの底を棚に置き損ね、こつんと縁へぶつけた。昨日の怪物じみた客より、今の言葉の方が、自分のすぐ近くにある気がした。店のことを忘れるなら、ここへ通う理由までなくなる。 「待ってください。そんな大事な話、品出ししながらすることですか」 「手ぇ止めていいから聞け。家族でも友達でも、知らねえ相手に試すなよ」  先輩も箱から手を離した。ふざけている顔ではなかった。 「なんでそんなことになるんです?」 「知らねえ。俺も最初にそう言われた。俺が店作ったわけじゃねえし」 「でも、長く働いてるんですよね」 「働いてたらレジの使い方は詳しくなるけど、基板まで詳しくなるか?」 「……ならないですけど」 「そういうことだ。店のこと忘れて、次から来なくなる。おかげでずっと人手不足」  先輩は三本指を立てた。俺の目がそこへ向いたのを確かめてから、一本ずつ折る。 「最長でも三日だぞ、三日」 「三日!? それ、俺も明日までってことじゃないですか」 「だから口滑らせんな。毎回毎回、新人に仕事教え直すのめんどくせえんだよな……はぁ、だりぃ」 「先輩、教育係向いてないですよね」 「うるせえ。次も来い。マジで」 「そこまで言われると逆に辞めたくなるんですけど」 「辞めんな。だりぃから」  理由がひどくて、俺は少し笑った。先輩が段ボールを畳み始めても、手元の一本はしばらく動かせなかった。昨日見た森も、この人と働いたことも、話そうとしただけで失う。スマホで誰かに報告する前に聞けたのは、たぶん運がよかったのだ。  俺はようやくボトルを棚の奥へ押し込んだ。確かめたいとは思わない。少なくとも今は、誰かに話すために時給三千円の仕事を捨てるつもりもなかった。 「他に気をつけることあります?」 「客が来たら接客しろ」 「それ普通のコンビニでも同じです」 「じゃあ覚えやすくていいだろ」 「いや、そうじゃなくて。昨日みたいな……その、リザードマンとか」 「客だろ」  先輩は新しく開けた菓子の箱から商品を取り出し、値札と同じ列へ差し込んでいく。俺が剣の話をしている間も、手は一度も止まらなかった。 「剣持ってましたけど」 「買い物に来てるなら客」 「分かりやすいような、怖いような」 「慣れろ」 「雑だなあ」  先輩は気にせず次の箱を開けた。 「金は昨日見ただろ。分からん硬貨でも精算機に入れてもらえ。勝手に処理する」 「なんで処理できるんです?」 「知らん」 「また?」 「だから俺もバイトだっつってんだろ」  先輩が本当に少し面倒そうな顔をした。 「あと、零時過ぎたら勝手に外出んな」 「森に?」 「ああ」 「なんでです?」 「暗い森に仕事中のコンビニ店員が出てく理由あんのか?」 「……ないです」 「じゃあ出んな」  言い切ると、先輩は飲料ケースへ一本差し込み、ラベルを正面へ向けた。森の危険を語るというより、店内でやることの線を引いているようだった。 「危ない生き物とかいるんですか?」 「いるかもしれねえ」 「知らないんですか?」 「俺、あの森の管理人じゃねえし」  そう言って先輩は段ボールを持ち上げた。 「ほら、質問終わり。次、菓子」 「新人研修、だいぶ雑じゃないですか?」 「必要なことは言った」 「もっとこう、マニュアルとか」 「あるぞ」 ある、と即答されたので、俺は売り場のどこかに異世界用の冊子まで置いてあるのかと思った。先輩はそんな期待をよそに、いつもの無表情で続きを口にする。 「あるんですか!」 「普通のコンビニ業務のなら」 「異世界用は?」 「ない」 「ないんだ……」  俺は少しだけ、この店の人手不足が記憶消去だけのせいではない気がしてきた。 ◇  それから二時間ほどは、驚くほど普通だった。菓子を前に出し、弁当の期限を確認し、レジ横の商品を補充する。二十三時を過ぎると、先輩は昨日と同じようにフライヤーの前へ立った。一槽は洗浄中。もう一槽には新しい油が入っている。 「今日は俺もやります」 「火傷すんなよ」 「昨日見ましたから」 「見るのとやるのは違う」  先輩からトングを渡される。冷凍のチキンをバスケットへ並べる。油に沈めた瞬間、細かな泡が一気に立ち上り、ぱちぱちと乾いた音が響いた。熱気が頬に当たる。 「うわ、思ったより熱い」 「だから言っただろ」 「これ、毎晩こんなに揚げるんですか?」 「売れるからな」 「昨日の人、一人で三つ買ってましたもんね」 「だいたいそれくらい食う」 「リザードマンってみんな揚げ物好きなんです?」 「知らん」 「そこも知らないんですか」 「俺が会ったリザードマン全員に食生活のアンケート取ったと思うか?」 「思いませんけど」 「じゃあ昨日の客が好き。それでいいだろ」  確かにその通りだった。  先輩は異世界の客に慣れている。でも、だからといって、向こうのことを何でも知っているわけではない。昨日の俺は、勝手にこの人なら全部説明できるような気がしていた。  俺だって日本人だが、日本の全都道府県の郷土料理を説明しろと言われたら無理だ。 「揚がったぞ」 「あ、はい」  俺は慌ててバスケットを上げた。油が切れるのを待ち、先輩に言われた通りチキンをホットスナックケースへ移していく。香ばしい匂いがカウンター周りに広がった。二十三時五十八分。昨日と同じ時間が近づく。なのに、昨日とは気分が違った。怖くないわけじゃない。ただ、何が起きるかを一度知っているだけで、人間はここまで落ち着けるらしい。 「そろそろですね」 「そうだな」 「先輩」 「ん?」 「今日も昨日のリザードマン、来ますかね」 「さあ」 「常連なんですよね?」 「だいたい来る」 「じゃあ来るんじゃ」 「来るまで分からん」  本当に余計なことを断言しない人だ。時計の数字が切り替わった。午前零時。ピッ。店のどこかで短い電子音が鳴った。白い照明がほんの一瞬だけ揺れる。自動ドアの向こうから、駐車場の白線も、道路脇のガードレールも消えた。代わりに現れたのは、闇の中へ続く木々だった。湿った土と草の匂いが、ドアの隙間から薄く流れ込んでくる。昨日と同じだ。分かっていたのに、俺はしばらく見入ってしまった。 「瀬尾」 「はい?」 「突っ立ってんな。客来るぞ」 「……はい」  その言葉から三分もしないうちだった。森の奥で枝が揺れた。ずし、ずし、と重い足音が近づいてくる。昨日なら、この時点で先輩を呼んでいただろう。今日は逃げずに、自動ドアの向こうを見た。木々の間から、深緑の巨体が現れる。俺より頭一つどころではない。二メートル近い身体。太い首と厚い胸板。苔のような色をした鱗。長い尾が地面すれすれを左右に揺れている。擦れた革のベストに、腰の幅広い剣。琥珀色の目が店の明かりを映した。 「あ」  昨日の客だ。リザードマンは自動ドアの前まで来ると、一瞬だけ足を止めた。ウィーン。ドアが開く。 「い、いらっしゃいませ!」  少し声が裏返った。先輩が隣で吹き出した気がした。リザードマンの縦長の瞳孔が俺へ向く。 「昨夜の新人か」  低くざらついた声。昨日聞いた時ほど怖くは感じなかった。 「はい。今日もいます」 「そうか」  大きな口元が、ほんのわずかに緩んだ。 「励め」 「ありがとうございます」  なんだろう。職場二日目にして、異世界人に仕事を励まされた。リザードマンは迷うことなくホットスナックケースへ向かった。やっぱりそこなんだ。厚い指の先にある黒い爪で、ガラスを傷つけないよう少し距離を取って中を覗き込む。黄色い照明の下には、揚げたてのチキン、コロッケ、フランクフルトが並んでいた。 「これを三つ」  指したのは昨日と同じチキンだった。 「はい。チキン三つですね」  俺はトングを握る。昨日は先輩がやっていた作業だ。紙袋を開き、チキンを一つずつ入れる。一個目。二個目。三個目。袋の口を折り、商品名のシールを貼る。たったそれだけなのに、妙に緊張した。 「お待たせしました」  差し出すと、リザードマンは大きな手を伸ばした。途中でぴたりと止まる。黒い爪が紙袋に触れないよう、指の腹だけでそっと挟んだ。昨日と同じ仕草だった。見た目だけなら、今にも店の商品棚ごと壊せそうな手なのに、俺より丁寧に紙袋を扱っている。 「熱いので気をつけてください」 「承知した」  言えた。普通の接客みたいに。いや、普通の接客なのかもしれない。客の姿が普通じゃないだけで。リザードマンはそのまま飲料棚へ向かい、大きな透明ボトルの水を一本取った。次におにぎりの棚の前で立ち止まる。  太い指が昆布おにぎりを指した。 「昨日食った、これだ。中の黒いものは何だ」 「あ、昆布ですね。海藻を甘辛く煮たものです」 「海藻」 「海の草みたいなものです」  俺は説明してから、これで伝わるのか不安になった。昨夜買った時は何も尋ねなかったから、最初から知っているのだと思っていたのだ。  リザードマンはしばらくパッケージを見つめている。 「お前も食うのか」  急に聞かれた。俺は客の指先から顔へ目を戻す。 「俺は好きです」 「ならば今日も買おう」 「そんな決め方でいいんですか?」  琥珀色の目がこちらを向いた。 「店の者も食うものなら、間違いあるまい」 「そう言われると、ちょっと責任感じますね」  後ろで先輩が小さく笑った。リザードマンは昆布おにぎりを二つ、爪を立てないよう指の腹でつまみ、買い物かごへ入れた。そしてレジへ来る。ここからが、今日の俺にとって本番だった。 「こちらでお会計します」  商品を一つずつ読み取る。ピッ。ピッ。バーコードを通すたび、聞き慣れた電子音が鳴る。巨大な爬虫類の客を相手にしているのに、レジ画面に表示されるのは「チキン」「天然水」「昆布おにぎり」という見慣れた文字だ。状況のちぐはぐさに、頭がおかしくなりそうだった。 「お支払いはこちらへお願いします」  俺は半セルフ精算機を示した。リザードマンは腰の革袋を開き、昨日と同じ厚い銀色の硬貨を数枚取り出す。一枚ずつ投入口へ入れた。ちゃりん。ちゃりん。画面の表示が勝手に切り替わり、何事もなかったように会計が完了する。やっぱり意味が分からない。でも先輩に聞いても、たぶん答えは同じだ。――知らん。だから今は、それでいいことにした。 「袋、使いますか?」 「頼む」 「はい」  俺はレジ袋を広げた。最初に水を入れ、その横へおにぎり。最後に、潰れないようチキンの紙袋を上に置く。持ち手をまとめて差し出す。リザードマンはまた爪を引っ込めるようにして、慎重に受け取った。 「ありがとうございました」  今度は声が裏返らなかった。リザードマンは俺を見下ろした。 「昨日より店の者らしいな」 「まだ二日目ですけどね」 「二日あれば十分だ」  何を基準に十分なのかは分からない。だが悪い気はしなかった。 「またお越しください」 「ああ」  太い尾を揺らしながら、リザードマンは自動ドアの向こうの森へ戻っていった。ウィーン。ドアが閉まる。俺はしばらくその場に立ったままだった。 「瀬尾」 「……はい」 「レジ」 「え?」 「次の客来たら困るだろ。ぼーっとすんな」 「あ、はい」  慌ててレジ周りを整える。先輩はホットスナックケースを確認し、減ったチキンの数を数えていた。 「先輩」 「なんだ」 「俺、今、普通に接客できてましたよね」 「普通ではなかったな」 「え」 「最初のいらっしゃいませ裏返ってた」 「そこですか?」 「あと昆布の説明長い」  先輩は俺の顔ではなく、減ったチキンの数を見ていた。褒めるか反省会をするかより、次の客へ何個残すかの方が先らしい。 「異世界の人に昆布をどう説明しろっていうんですか!」 「自分で考えろ。接客だろ」 「新人に厳しくないですか?」 「三日以内に覚えさせないと、また最初からになるかもしれねえからな」 「縁起でもないこと言わないでくださいよ」 「なら明日も来い」 「来ますよ。時給三千円ですから」 「よし」  先輩は満足そうでもなく、ただいつもの眠そうな顔で頷いた。そして減ったチキンを指差す。 「じゃあ追加揚げるぞ」 「もうですか?」 「売れたからな」  俺はフライヤーの方を見る。油の表面が照明を反射して光っていた。昨日までなら、リザードマンが来たことの方が一大事件だった。でも今は、その客がチキンを三つ買ったから、在庫を補充しなければならない。異世界だろうがなんだろうが、売れた商品は補充する。どうやらこの店では、それが一番正しいらしい。 「瀬尾、バスケット」 「はいはい」 「返事一回」 「はい」  俺は冷凍庫を開け、教わった数だけチキンをバスケットへ並べた。分からないことを聞くのは、そのあとでも間に合う。油へ沈めると細かな泡が立ち、さっき売った三つ分の場所を、今度は自分で埋められるのだと思った。午前零時を少し回ったばかり。二日目の夜勤は、まだ始まったばかりだった。

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