RenHazumi / 第18話

第18話「投資話は、面倒なことから始まる」

第18話「投資話は、面倒なことから始まる」 その朝、蓮は特に何も感じることなく目を覚ました。 赤坂レジデンスのカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。 東京の街は、蓮が本当に一日が始まったと自覚するよりもずっと前から動き始めていた。 蓮はベッドの端に腰を下ろす。 手を伸ばし、スマートフォンを取った。 いくつか通知が届いている。 その一部は大学から。 そして、もう一部は高橋からだった。 最後に届いた一件のメッセージを見て、蓮の手が止まる。 ――黒瀬様。 三浦さんから、また連絡がありました。 直接お会いしたいとのことです。 今回はサクラ・フレイトの件ではありません。 蓮は一度メッセージを読んだ。 そして、スマートフォンを置く。 「……昨日の今日か」 蓮は立ち上がり、キッチンへ向かった。 コーヒー用の水を温め始める。 頭の中には、昨日の会談がまだ残っていた。 三浦 恒一。 当初はサクラ・フレイトの買収を目的として現れた、経験豊富な経営者。 だが、話し合いが終わる頃には、話の方向が変わっていた。 蓮が脅したわけではない。 自分の資産を見せつけたわけでもない。 ましてや、黒瀬ホールディングスという名前を利用したわけでもない。 ただ、自分が妥当だと思った数字を示しただけだ。 蓮はコーヒーを注ぐ。 「サクラ・フレイトじゃないなら……」 そのとき、スマートフォンが再び震えた。 高橋だ。 蓮は電話に出る。 「……ああ」 「おはようございます、黒瀬様」 「おはよう」 「朝から何度も申し訳ありません」 「昨日もそうだったな」 高橋が小さく笑う。 「おっしゃる通りです」 「何だって?」 「三浦さんから、ある提案をしたいとのことです」 「投資か?」 「まあ、近いものです」 蓮は少し黙った。 「黒瀬ホールディングスに投資したいのか?」 「まだ、そこまでは分かりません」 「じゃあ?」 「投資協力の可能性について話したいそうです」 「違いは?」 「直接投資なら、黒瀬様の会社に資金を入れることになります」 「協力なら?」 「特定のプロジェクトに対して、共同で投資スキームを組むこともできます」 蓮はコーヒーを一口飲んだ。 「そっちのほうが筋が通ってるな」 「私もそう思います」 「昨日、なぜ言わなかった?」 「まだ確信が持てなかったのかもしれません」 「それとも、試してる」 高橋が一瞬黙った。 「……その可能性はかなり高いでしょう」 蓮は窓へ歩いていく。 眼下には、明るくなり始めた東京の街が広がっていた。 「場所は?」 「黒瀬ホールディングスの会議室です」 「何時?」 「ご都合がよければ、昼前に」 「来てもらえ」 「承知しました」 電話が切れる。 蓮は手にしたコーヒーを見つめた。 投資。 数週間前まで、その言葉は蓮にとってほとんど意味を持たなかった。 今では、自分自身が投資会社を持っている。 問題は、蓮が本当に投資家になろうと思っていたわけではないことだった。 ただ静かに暮らしたかった。 大学へ行く。 本を読む。 たまに車を運転する。 コーヒーを飲む。 それで終わり。 だが、どうやら人生は別の計画を用意しているらしい。 蓮は小さく息を吐いた。 「……面倒だな」 テーブルの上に置かれた車のキーを見る。 そして、その中から一つを手に取った。 今日はP9LMを使う気分ではなかった。 あの車が不快なわけではない。 ただ、あまりにも長い間、駐車場で眠らせている車を使いたかった。 Ghost Series II by MANSORY。 「……埃をかぶるよりはいいか」 しばらくして、蓮は地下駐車場へ降りた。 三台の車は、まだそれぞれの場所にあった。 P9LM――B2-47。 Ghost Series II by MANSORY――B2-48。 Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORY――B3の特別区画。 蓮はGhostのほうへ歩いていく。 ドアを開ける。 車内は静かで、高級感がありながら、過剰な感じはしない。 蓮は運転席に座った。 エンジンを始動する。 「少なくとも今日は役に立ってくれ」 低いエンジン音が返ってくる。 蓮は地下駐車場を出た。 赤坂の道路は、すでに混み始めていた。 蓮はアクセルを深く踏み込まない。 Ghostは、車の流れに合わせるように静かに進んでいく。 歩道の何人かが振り返った。 そのうち一人の男が、スマートフォンを持ち上げた。 蓮はバックミラー越しにそれを見る。 「……やめろ」 だが、その男は撮影を続けている。 蓮は小さく息を吐いた。 SNS。 もしあの写真がSNSに載ったら、どんなコメントが付くか想像できる。 高級車。 謎のオーナー。 金持ちの若者。 ほかにも、いろいろ。 蓮は、そういうものが好きではない。 だが、スマートフォンを持っている人間全員を止めることなどできない。 そのまま運転を続ける。 やがてGhostは、黒瀬ホールディングスが入るビルの敷地へ入った。 ロビーでスタッフが蓮を出迎える。 「黒瀬様」 「おはよう」 「三浦さんと皆様は、すでに到着されています」 「何人だ?」 「三浦さんと、投資部門の責任者、それから顧問弁護士が同行されています」 「……じゃあ、気楽な話じゃないな」 スタッフは苦笑した。 「そういうことかと」 蓮はエレベーターへ向かう。 「そんなに緊張するな」 スタッフが少し驚いた顔をする。 「え?」 「ただの話し合いだ」 エレベーターの扉が開く。 蓮が乗り込む。 「何か買いたいなら、話を聞く」 「もし条件が合わなかったら?」 「断る」 扉が閉まる。 スタッフはその場に残ったまま、閉じたエレベーターの扉を見つめた。 「……そんなに簡単な話なのか」 その頃、上階では高橋がすでに待っていた。 蓮がエレベーターから出ると、高橋がすぐに近づいてくる。 「お早いですね」 「道が空いてた」 高橋が窓の外へ視線を向ける。 「今日はGhostですか?」 「埃をかぶるよりはいい」 高橋が笑う。 「実に黒瀬様らしい理由ですね」 「何か問題あるか?」 「いえ」 高橋は一冊のファイルを差し出した。 「こちらが三浦さん側から提供された初期情報です」 蓮は歩きながらファイルを開く。 「どの分野に入ろうとしてる?」 「輸送と物流です」 蓮の足が止まる。 「サクラ・フレイト?」 「直接ではありません」 「じゃあ?」 「地域物流を展開している企業のネットワークに興味を持っているようです」 蓮は数ページを読む。 「……もっと大きいな」 「はい」 「それに、もっと面倒だ」 「かなり面倒です」 蓮はファイルを閉じた。 「いくら出すつもりだ?」 高橋はメモを確認してから答える。 「まだ最終的な金額は提示していません」 「なぜ?」 「先に黒瀬様の考えを聞きたいそうです」 蓮は頷いた。 「本当に試してるわけか」 「私もそう思います」 蓮は会議室へ入った。 三浦がすぐに立ち上がる。 「黒瀬さん」 「三浦さん」 二人は握手を交わした。 今回は、昨日のような驚きは三浦の表情にはなかった。 視線は、より真剣だった。 「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」 「こちらに来てもらったんだ。気にするな」 「はい」 三浦が座る。 蓮はその向かいに腰を下ろした。 高橋は蓮の隣。 三浦の側には、顧問弁護士と投資部門の責任者が座る。 三浦が話を切り出した。 「単刀直入に申し上げます」 「どうぞ」 「我々は、黒瀬ホールディングスに興味があります」 蓮の表情は変わらない。 「なぜ?」 「あなたのポートフォリオの成長です」 「まだ、事業を始めてからそれほど経っていない」 「だからこそです」 三浦は蓮を見る。 「急速な成長は、目を引きます」 蓮は背もたれに身体を預ける。 「誰の目を?」 「投資家です」 「あなたのような?」 「その中の一人です」 蓮は小さく頷いた。 「問題は?」 三浦が笑う。 「問題はありません」 「問題がないなら、なぜ来た?」 高橋が笑いを堪える。 三浦はむしろ笑った。 「本当に率直ですね」 「回りくどく話す理由がない」 「分かりました」 三浦は資料を開く。 「我々は、資本へのアクセスを提供したい」 蓮はすぐには答えなかった。 「資本へのアクセス?」 「はい」 「何のために?」 「拡大です」 「どの会社を?」 「ヤマト物流と三井マリンフーズは、より大きな投資スキームの一部になり得ます」 蓮は三浦を見る。 「俺の会社に入るつもりか」 「支配するつもりはありません」 「違いは?」 「経営権は黒瀬ホールディングスに残ります」 「あなたたちは?」 「投資利益の一部を得る」 蓮は高橋を見る。 高橋はすでに資料を開いていた。 「技術的には、少数株主としての投資提案です」 蓮は再び三浦を見る。 「規模は?」 三浦が答える。 「初期段階で、約30億円です」 部屋が一瞬静かになった。 蓮は驚いた様子を見せない。 むしろ、別の質問をした。 「で、バリュエーションは?」 投資部門の責任者がタブレットを開く。 「まだ協議段階です」 「つまり、まだ決まってない」 「はい」 「なら、30億円という数字だけじゃ意味がないな」 女性は頷いた。 「おっしゃる通りです」 蓮は資料へ視線を落とす。 「なら、金から始めるな」 三浦が少し眉を上げる。 「何から?」 「目的だ」 「我々の目的は明確です」 「まだだ」 蓮は資料を指で示す。 「あなたたちは俺の会社に資金を入れたい。俺が知りたいのは、その理由だ」 三浦は黙った。 蓮は続ける。 「目的が単に利益を得ることなら、俺は受ける理由がない」 「なぜ?」 「俺は金に困ってない」 高橋がわずかに俯く。 三浦が笑った。 「やはり、そう言いますか」 「そうだな」 「しかし、投資は資金不足だけが目的ではありません」 「その通りだ」 「能力を拡大するためでもあります」 蓮は頷いた。 「それなら、まだ分かる」 三浦は別の資料を開く。 「我々には、黒瀬ホールディングスが新興企業では簡単に入れないいくつかのプロジェクトへ参入するための投資家ネットワークがあります」 「例えば?」 「物流倉庫の開発です」 「どこで?」 「関東圏です」 「規模は?」 「中規模から大規模まで」 蓮は高橋を見る。 「俺たちに必要か?」 高橋は少し考える。 「ヤマトにとっては、長期的には必要になる可能性があります」 「なぜ?」 「会社の再編に伴い、より効率的な配送ネットワークが必要になるからです」 「三井マリンフーズは?」 「低温物流です」 蓮は頷く。 「つまり、二社が互いに支え合える」 「その通りです」 三浦が口を挟む。 「そこが我々が興味を持っている理由です」 蓮は指先でテーブルを軽く叩く。 「筋は通ってる」 三浦が笑う。 「では――」 「だが、まだ受けるとは言ってない」 三浦の笑顔が止まる。 「本当に早いですね」 「十分な理由がまだない」 三浦側の顧問弁護士が、ここで初めて口を開いた。 「黒瀬さん、それだけの規模の投資には通常、一定のコミットメントが必要になります」 「どんな?」 「成長目標です」 「いくつ?」 「まだ決まっていません」 「なら、まだ存在しない」 男は黙った。 蓮は続ける。 「金を入れる代わりに、あなたたちが決めた目標を追わせるなら、それは投資じゃない」 「では、何だと?」 「圧力だ」 高橋が顔を上げる。 三浦は背もたれに身体を預けた。 「では、あなたは何を望む?」 蓮は迷わず答えた。 「柔軟性だ」 「説明していただけますか?」 「黒瀬ホールディングスを、投資家が数字を見たいという理由だけで成長させようとするな」 三浦は蓮を見つめる。 「成長を追わないのですか?」 「安定を追う」 「まだ始まったばかりでしょう」 「だからだ」 蓮はヤマトの資料を指す。 「会社を急速に成長させて、手に負えなくなるようなことはしたくない」 次に三井マリンフーズの資料を指す。 「それに、会社を買って、ただ売るためだけに持つつもりもない」 そして三浦を見る。 「この協力で二社が強くなるなら、考える」 三浦は黙っている。 蓮は続けた。 「投資家向けの報告書を良く見せるだけなら、興味はない」 高橋が口を開く。 「黒瀬様は、長期的な投資構造を求めているのだと思います」 三浦が頷く。 「その通りです」 「出口を急がせない」 「はい」 「経営に介入する権利も持たない」 「はい」 「そして、戦略的な判断は黒瀬ホールディングスに残す」 三浦は蓮を見る。 「はい」 蓮は少し考えた。 「じゃあ、一つ聞きたい」 「どうぞ」 「この投資が失敗したら?」 三浦はすぐには答えなかった。 蓮は待つ。 やがて、三浦が口を開いた。 「リスクは投資家側が負います」 「黒瀬ホールディングスの判断が原因で失敗した場合は?」 「契約に基づいて評価します」 「それで、俺たちに会社を売れと迫ることは?」 「ありません」 蓮は頷いた。 「それならいい」 三浦が笑う。 「ようやく話が前に進んだ気がします」 「まだだ」 三浦が笑った。 「なぜ、まだなんです?」 「誰が一番得をするのか、まだ分からない」 投資部門の責任者が答える。 「双方です」 「なら、見せてくれ」 女性は黙った。 蓮は高橋を見る。 「計算できるか?」 「もちろんです」 「全部のシナリオを」 「承知しました」 三浦が頷く。 「どれくらいかかります?」 「データが揃っていれば、そう時間はかかりません」 蓮は立ち上がった。 「投資室へ行こう」 三浦も立ち上がる。 「今から続けるのですか?」 「時間があるなら」 「あります」 蓮はファイルを手に取った。 「なら、行こう」 彼らは会議室を出た。 オフィスの廊下は、さっきまでよりも忙しそうだった。 何人かのスタッフがその一団を見ていたが、誰も声をかけようとはしない。 投資室では、大型モニターがすでに起動していた。 高橋が資料を接続する。 法務面を見るため、黒田 武も呼ばれた。 彼が書類を抱えて入ってくる。 「投資の話があると聞きました」 「そうです」と高橋。 黒田は三浦を見る。 「三浦さん」 「黒田さん」 蓮は席に着く。 「リスクから始めよう」 投資部門の責任者が予測データを表示する。 「物流ネットワークの拡大に資金を使用した場合、利益は増加する可能性があります」 「何を根拠にした予測だ?」 「需要の伸びです」 「成長率は?」 彼女が答える。 蓮は画面を見る。 《資産分析 EX》 頭の中で財務情報が、より明確に整理されていく。 前提。 コスト。 リスク。 キャッシュフロー。 成長余地。 蓮は一つの部分を指差した。 「ここは楽観的すぎる」 女性が黙る。 「どこですか?」 「維持費」 「すでに入れています」 「足りない」 蓮は再び指を動かす。 「それと人件費」 高橋が近づく。 蓮は説明する。 「倉庫ネットワークを拡大したら、コストは建設費だけじゃ終わらない」 「その通りです」 「維持管理、人件費、警備、保険、輸送」 黒田も頷く。 「すべて入れる必要があります」 蓮は続ける。 「大きな資金を入れても、コスト構造を変えなければ、売上の成長がそのまま利益の成長になるわけじゃない」 三浦が身体を預ける。 「見つけるのが早いですね」 「報告書を読んでるだけだ」 「ほとんどの人も報告書を読みます」 「たぶん、読むのが遅いんだろ」 高橋が笑う。 黒田も笑いを堪える。 三浦は首を横に振った。 「あなたは本当に褒めにくい人だ」 「褒めてもらうつもりはない」 蓮は画面を指す。 「前提を変えろ」 投資部門の責任者が従う。 「保守的な前提なら?」 「そのほうがいい」 彼女がデータを変更する。 グラフが変わった。 蓮はそれを見る。 「これなら、まだ筋が通る」 三浦が言う。 「保守的な試算でもプラスなら、投資を受けますか?」 蓮は振り向く。 「いや」 「なぜ?」 「まだ一つ問題がある」 「何です?」 「資本だ」 三浦が困惑する。 「あなた自身、資本は必要ないと言ったでしょう」 「俺には必要ない」 蓮は少し間を置く。 「だが、会社には必要かもしれない」 三浦が笑う。 「では?」 「あなたたちの資本で会社を健全にできるなら、それでいて俺たちが経営権を失わないなら、考える」 高橋が頷く。 「最初から、それが今回の話の核心です」 蓮は三浦を見る。 「なら、正式な提案書を送ってくれ」 「今日は署名しないのですか?」 「しない」 「なぜ?」 「読んでないものに署名するのは嫌いなんだ」 三浦が笑った。 「シンプルな答えですね」 「たいてい、シンプルな答えで十分だ」 三浦はファイルを閉じる。 「分かりました」 立ち上がる。 「正式な提案書をお送りします」 蓮も立ち上がる。 「条件は全部、書面にしてくれ」 「もちろん」 「二通りに解釈できる文章は入れるな」 黒田が頷く。 「法務の仕事も楽になります」 三浦が手を差し出す。 「黒瀬さん」 蓮はその手を握る。 「昨日、あなたを少し見誤っていたようです」 蓮は三浦を見る。 「どこを?」 「大きな資本を持っている、若いオーナーだと思っていました」 蓮は黙る。 「今は?」 三浦が笑う。 「資本を持っているのに、それをあまり使いたがらない若いオーナーです」 蓮は小さく息を吐く。 「……だいたい合ってる」 三浦が笑う。 「そこが、あなたを面白いと思わせるところです」 「褒め言葉かどうか分からない」 「観察だと思ってください」 「そのほうが安全だ」 三浦は頷いた。 「では、また」 「ああ」 三浦たちが去ると、部屋は静かになった。 高橋が蓮を見る。 「どう思われました?」 「本気だ」 「それと?」 「取引を無理に押しつけてこなかった」 「それは良いことですね」 「まだ分からない」 高橋が眉を上げる。 「なぜです?」 「忍耐強い投資家には、たいてい理由がある」 黒田が笑う。 「疑っているんですか?」 「違う」 蓮はスマートフォンを手に取る。 「全体が見える前に決めるのが嫌いなだけだ」 高橋は頷いた。 「だから私は、黒瀬様と仕事をするのが好きなんです」 蓮はスマートフォンをポケットに入れる。 「早すぎる」 「なぜです?」 「そのうち残業を頼むかもしれない」 高橋が笑う。 「黒瀬ホールディングスの成長を見られる代償なら、喜んで」 蓮は部屋を出る。 だが、廊下を歩いていると、一人の若いスタッフが蓮に近づいてきた。 「黒瀬様」 蓮が立ち止まる。 「何だ?」 「申し訳ありません」 「どうした?」 スタッフは少し迷ってから口を開く。 「先ほどの車の写真が、もうSNSに出ています」 蓮はスタッフを見る。 「もう?」 「はい」 「コメントは?」 スタッフが画面を見せる。 すでにいくつかの投稿で、赤坂周辺で目撃されたGhost Series II by MANSORYについて話題になっていた。 持ち主を推測するもの。 ただ車について語るもの。 そして、黒瀬ホールディングスとの関係を推測するものまである。 蓮は数秒だけ画面を見る。 「返信するな」 「承知しました」 「それと、スタッフから確認するな」 「分かりました」 蓮はスマートフォンを返す。 歩き出そうとした、そのとき。 今度は蓮自身のスマートフォンが震えた。 システムからの通知だった。 報酬ではない。 ミッションでもない。 ただ、一つのメッセージ。 《利用者の経済活動が、外部から注目され始めています》 蓮は眉を寄せた。 「……外部からの注目?」 画面が切り替わる。 《ビジネス上の露出度:上昇》 最後まで読む。 報酬の数字はない。 ボーナスもない。 実績もない。 ただの情報だった。 蓮はスマートフォンをポケットに戻す。 「……今度は車だけじゃないのか」 高橋が蓮を見る。 「どうしました?」 「まだ分からない」 蓮はエレベーターへ向かう。 「でも、すぐに分かる気がする」 エレベーターの扉が開く。 蓮は一人で乗り込んだ。 扉が閉まる直前、金属の壁に映った自分の姿を見る。 一人の大学生。 シンプルなシャツ。 高級そうなバッグも持っていない。 高価なスーツも着ていない。 会社経営者には見えない。 それでも、ビジネスの世界は少しずつ蓮を違う目で見るようになっていた。 蓮は小さく息を吐く。 「……ただ静かに暮らしたいだけなのに」 エレベーターの扉が閉まる。 そして建物の外では、黒瀬ホールディングスという名前が、東京のビジネスSNSに少しずつ現れ始めていた。 スキャンダルとしてではない。 大きなニュースとしてでもない。 ただ、新しく現れた一つの名前として。 そして、人々は少しずつ疑問を持ち始める。 ――この会社は、一体どこまで成長するのか。 --- 次話予告――第19話 正式な投資提案書が、ついに黒瀬ホールディングスの手元へ届く。 だが、蓮が受けるか断るかを決める前に、高橋は別の報告書を持ってきた。 黒瀬ホールディングスの成長に、さらに大きな企業が目を向け始めているという。 そして今度、蓮に必要なのは、ただ数字を読むことではない。 ――誰を、自分のビジネスの輪の中に入れるのか。 蓮は、その判断を迫られることになる。 【第19話へ続く】

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