RenHazumi / 第5話

第5話「初めてのスキル」

第5話「初めてのスキル」 (金曜日・07:00) 赤坂レジデンス――1203号室・港区 蓮は、アラームが鳴る前に目を覚ました。 寝室の天井を見つめる。 真っ白で、ひび割れも、染みもない。 以前のアパートの天井とは違う。あちらには、窓の近くの隅に湿気による染みがあった。 蓮はベッドの端に腰を下ろした。 そしてスマートフォンを見る。 《絶対資産支配システム》 黒瀬 蓮 年齢:21 純資産:¥2,800,000,000 物質的欲求:2% Wantless Multiplier:×25 使用可能スキル:《資産分析 EX》 蓮は最後の一行を見つめた。 スキル、か。 資産分析 EX。 スマートフォンを置く。 立ち上がり、電気ケトルのスイッチを入れる。 湯が沸くのを待ちながら、再びシステムのアプリを開いた。 表示されているスキルをタップする。 《資産分析 EX》 資産分析 EX ランク:EX 金融資産を、驚異的な速度と精度で理解・分析・評価する能力。 適用範囲: ・財務諸表(貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書) ・企業および資産の価値評価 ・投資リスク分析 ・資本構成および所有構造 ・短期・中期の財務予測 注記:このスキルは未来に関する知識を与えるものではありません。利用可能なデータに基づく分析を高速化し、精度を高めるだけです。 蓮はその説明を二度読んだ。 …… つまり、財務諸表を漫画でも読むみたいに読めるってことか。 そう思いながら、アプリを閉じる。 インスタントコーヒーを、ひびの入った白いマグカップに入れる。 一口すする。 苦い。熱い。普通。 少なくとも、これは変わっていない。 --- 08:15 赤坂レジデンス――地下駐車場B2 蓮は自分の車の前に立っていた。 Mansory P9LM EVO 900。 黒い。 幅広い。 攻撃的だ。 大学の駐車場には大きすぎる。 一人の大学生には、あまりにも目立ちすぎる。 蓮は数秒間、その車を見つめた。 電車に乗ればいい。 昨日みたいに。 いつも通りに。 そう考えながら、ジャケットのポケットに鍵を入れる。 …… でも電車に乗ったら、駅から十五分歩かなきゃならない。 それに今日は天気が……。 蓮は上を見た。 地下駐車場に窓はない。 だが、スマートフォンの天気アプリを見て知っていた。 今日は晴れる。 暑い。 湿度も高い。 …… 蓮は車のドアを開けた。 --- 08:45 大学駐車場――B1 蓮は昨日と同じ場所に車を停めた。 暗い場所。 人がほとんど通らない場所。 エンジンを切る。 そして、しばらく座ったままでいる。 …… 誰にも見られませんように。 車から降りる。 ロックをかける。 そしてエレベーターへ向かって歩き出した。 その背後では、車がそのまま停まっている。 黒く、幅広く、攻撃的で――そこにあること自体が場違いな車。 蓮は振り返らなかった。 --- 09:00 大学――経済学部棟・3階 蓮は時間通りに教室へ入った。 後ろの席に座る。 田中はすでにそこにいた。 いつも通り、半分眠っているような表情をしている。 「おはよう」 「おはよう」 田中は蓮を見る。 「また車で来たのか?」 蓮は振り向いた。 「なんで聞くんだ?」 「いや、俺も……なんていうか分かんないけど。お前、車で来てそうな顔してる」 田中は肩をすくめた。 「まあ、どうでもいいけど」 蓮は答えなかった。 教授が入ってくる。 授業が始まった。 今日のテーマはコーポレート・ファイナンス――資本構成、レバレッジ、そして企業価値評価についてだった。 蓮は半分ほどの意識で講義を聞いていた。 以前、このテーマについての本は読んだことがある。 だが、今は…… …… 違って感じる。 教授がデット・エクイティ・レシオについて説明していると、蓮の頭の中には数字が浮かんできた。 単なる概念ではない。 その比率が企業価値にどう影響するのか。 資本構成のわずかな変化が、どれほど全体を変えるのか。 それが、まるで具体的な形になって見えていた。 …… これがスキルの効果か。 蓮はノートの端に小さな円を描いた。 その中に書く。 資産分析 EX。 --- 12:15 大学食堂 蓮はいつもと同じ隅の席に座っていた。 今日はカツ丼を注文した。 480円。 蓮は静かに食べる。 食堂の向こう側では、数人の学生たちが何かを熱心に話していた。 仕事のこと。 インターンのこと。 応募している企業のこと。 「なあ、聞いた? 昨日、倒産した会社があるらしいぞ」 「どこの会社?」 「新宿にある会社。物流会社だって。経営が悪かったらしい」 「マジで? かなり借金があったって聞いたけど」 「ああ。借入金の利息を払えなかったらしい」 蓮は水を一口飲んだ。 …… 別に、意図して聞いていたわけではない。 だが、思考が勝手に動き始める。 物流会社。 新宿。 経営不振。 巨額の借金。 蓮は首を横に振った。 俺には関係ない。 食事を終える。 立ち上がる。 そして、その場を離れた。 --- 14:30 大学――図書館・2階 蓮は図書館の隅に座っていた。 財務諸表分析についての本を読んでいる。 課題だからではない。 ただ、知りたかっただけだ。 ページをめくる。 一ページ、また一ページ。 蓮はあまりにも速く読み進めていた。 三十分で、本の半分を読み終えてしまう。 普通なら、何日もかかるはずの量だった。 …… 蓮は本を閉じた。 そして、その本を見つめる。 俺、こんなに速く読めなかったよな。 スマートフォンを取り出す。 システムのアプリを開く。 《資産分析 EX》 状態:アクティブ 資産分析能力:EX 財務諸表の理解:瞬時 データ処理速度:驚異的 蓮は画面を見つめる。 …… つまり、これは本を読むだけの話じゃない。 俺の思考そのものが……変わってるってことか。 スマートフォンを置く。 図書館の天井を見上げる。 …… 気をつけないとな。 --- 15:30 大学→B1駐車場 蓮は駐車場へ向かって歩いていた。 帰りたかった。 少なくとも――誰もいない場所へ行きたかった。 だが、駐車場に着くと、そこには人がいた。 佐野悠斗ではない。 昨日の写真を撮っていた学生ではない。 警備員でもない。 一人の男だった。 灰色のスーツ。 濃紺のネクタイ。 こめかみには白髪が混じっている。 その男は蓮の車の前に立っていた。 そして、蓮には読み取れない表情で車を見つめている。 蓮は足を止めた。 「……」 男が振り向く。 その瞳――暗い灰色の瞳が、静かに蓮を見つめた。 「黒瀬蓮様、でいらっしゃいますか?」 男が尋ねる。 蓮は眉をひそめた。 「はい」 男は丁寧に頭を下げた。 「お時間をお邪魔して申し訳ございません。私、髙橋健司と申します。黒瀬アセットマネジメントの者です」 蓮は男を見つめた。 …… 黒瀬アセットマネジメント。 俺が作った覚えのない会社。 「何か?」 蓮が尋ねる。 髙橋はバッグから一つのファイルを取り出した。 「こちらの書類を、黒瀬様にお渡しするよう指示を受けております。先ほど買収したばかりの企業に関する書類です」 蓮は瞬きをした。 「企業?」 「はい。新宿にある物流会社です。ヤマト・ロジスティクス株式会社。現在、財務上の問題を抱えております。システム――」 髙橋は一瞬、言葉を止めた。 「……失礼。黒瀬アセットマネジメントが昨日、この会社を買収いたしました。そして手続き上、黒瀬様には正当な所有者として、いくつかの書類にご署名いただく必要がございます」 蓮は男を見つめた。 …… 昨日? さっき食堂で聞いたばかりの会社じゃないか。 蓮はファイルを受け取る。 そして開いた。 中には書類が入っていた。 財務諸表。 所有構造。 買収関連書類。 蓮は読み始めた。 そして初めて――発動中の《資産分析 EX》によって、すべてを理解できた。 数秒もかからなかった。 …… ヤマト・ロジスティクス。 負債48億円。 年間売上120億円。 利益率は薄い。 経営状態は悪い。 だが、資産は…… 蓮は数字を見た。 建物。 トラックの車両群。 複数の大手企業との長期契約。 …… この会社は救える。 蓮はファイルを閉じた。 「なぜ?」 「なぜ、とは?」 髙橋が蓮を見る。 「なぜ、この会社を買収したんですか?」 髙橋は薄く笑った。 「システム――失礼、経営陣が、この会社には可能性があると判断したからです。そして、黒瀬様。あなたこそが、この会社を救える唯一の方だからです」 蓮は髙橋を見つめた。 …… 俺は、こんなの頼んでない。 そう思う。 だが、分かっていた。 システムは、そんなことを気にしない。 蓮はため息をついた。 「分かりました。どこに署名すればいいですか?」 --- 16:00 B1駐車場→大学近くのカフェ 蓮と髙橋は、大学近くの小さなカフェに座っていた。 店内は静かだった。 客も数人しかいない。 蓮はブラックコーヒーを注文した。 髙橋は紅茶を注文する。 蓮は再びファイルを開いた。 そして、書類を素早く読み進める。 …… この財務諸表は……読める。 数字も、すべて筋が通っている。 蓮はいくつかの書類に署名した。 髙橋はその様子を見ていた。 「黒瀬様」 「はい?」 「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」 「どうぞ」 「その……財務諸表を読むのが、あまりにもお早いですね」 蓮は顔を上げる。 「何か問題でも?」 「いえ。ただ……」 髙橋は一瞬言葉を止めた。 「私はこの業界で二十年働いております。ですが、黒瀬様ほど速く財務諸表を読む方を、今まで見たことがありません」 蓮は答えなかった。 最後の書類に署名する。 「終わりました」 髙橋は書類を受け取った。 内容を確認する。 そして頷いた。 「ありがとうございます、黒瀬様。すべて揃っております」 髙橋は立ち上がる。 頭を下げる。 そして、そのまま去っていった。 蓮は一人でカフェに残った。 冷め始めたコーヒーを見つめる。 …… ヤマト・ロジスティクス。 負債48億円の会社。 そして今は…… 蓮はスマートフォンを取り出した。 《企業取得完了》 企業買収完了。 ヤマト・ロジスティクス株式会社 状態:黒瀬蓮が所有 負債:¥4,800,000,000 資産:¥6,200,000,000 従業員:87名 報酬: ・Wantless Bonus ×30 ・¥1,200,000,000 ・《企業管理》――企業経営スキル(ランク:C) 蓮は画面を見つめた。 「……」 また12億円か。 そして今度は、会社まで持っている。 スマートフォンを置く。 コーヒーを見つめる。 …… 俺は、こんなの頼んでない。 蓮はコーヒーを飲み終える。 会計を済ませる。 そして外へ出た。 --- 17:30 カフェ→B1駐車場→赤坂へ向かう道 蓮は車を運転して帰っていた。 車は、次第に混み始めた東京の道路を静かに走っている。 夕方。 仕事を終えた人々が帰路につき始めている。 街の明かりも、少しずつ灯り始めていた。 蓮は道路を見つめながら、考えを巡らせる。 ヤマト・ロジスティクス。 従業員87名。 負債48億円。 資産62億円。 蓮はため息をついた。 俺、物流のことなんて何も知らない。 だが―― 新しく手に入れた《企業管理》のスキルがあれば、理解できる。 しかも、すぐに。 …… このシステム、本当に俺を静かに暮らさせる気がないな。 蓮はアクセルを踏み込む。 車は、さらに速く走り始めた。 --- 18:00 赤坂レジデンス――1203号室 蓮は部屋に入った。 鍵をテーブルに置く。 そして床に座った。 …… 窓を見る。 空が少しずつ暗くなっている。 街の明かりが灯っていく。 …… 蓮はスマートフォンを取り出した。 システムのアプリを開く。 《次の報酬条件》 《他者の問題を一つ解決せよ》 報酬: ・新規スキル ・¥500,000,000 ・Achievement:【Problem Solver】 蓮はその条件を見つめた。 …… 他人の問題を一つ解決しろ。 誰の問題だ? 蓮はアプリを閉じた。 スマートフォンを置く。 …… 俺から問題を探しに行く気はない。 蓮は立ち上がる。 キッチンへ向かう。 緑茶を注ぐ。 そしてバルコニーに座った。 東京の街を見つめる。 …… でも、どうやら問題のほうからやって来るらしい。 蓮はお茶を一口飲んだ。 その夜。 かつては単純だった自分の人生が――あまりにも速い速度で変わり始めている。 そんな感覚を抱えたまま、蓮は眠りについた。 そして新宿のどこかでは、ヤマト・ロジスティクスの87人の従業員たちが、まだ知らずにいた。 自分たちの会社に、新しい所有者が現れたことを。 21歳の青年。 一人の大学生。 そして、富を望んでいない人間が、その新しい所有者になったことを。 --- [次話 6 — 「彼女は、金より規則を信じていた」] 蓮は、決して望んだわけではないにもかかわらず、ビジネスの世界へと関わり始める。 銀座で開かれるあるビジネスイベントが、彼を如月美雪と引き合わせる。 彼女は、エリート民間警備会社の警備部門を率いる女性だった。 美雪は蓮に、どこか奇妙なものを感じる。 21歳という年齢にはあまりにも落ち着きすぎていて、自分の立場に比べればあまりにも質素すぎる青年。 その一方で、蓮は自分が踏み込んだ世界には、自分では避けることのできない「ルール」が存在することに気づき始める。 [次話へ続く……]

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