Tihoo / 第1話

短編

気がつくと、私は冷たい石の床に転がっていた。 薄暗い視界。ツンと鼻を突くカビと排泄物の臭い。 首にはご丁寧に、重ったるい鉄の首輪がはめられている。 自分の手を見下ろせば、そこにあるのは小枝のように細く、泥にまみれた小さな手だ。年齢にして十歳前後といったところだろうか。ガリガリに痩せ細った、しがない幼女である。 現状を端的に説明すると、私は奴隷市の商品だった。 地下の牢獄のような場所に押し込められ、あとは競りに出されて、どこぞの金持ちに買われていくのを待つばかり、というわけだ。 まあ、最初は大人しくしていようと思ったのだ。 なまじ騒いでも痛い目を見るだけだし、運良くまともな貴族の屋敷にでも拾われれば、三食昼寝付きとはいかないまでも、雨風しのげる生活が待っているかもしれない。そうやって、頭の中で必死に言い訳を並べて、現状に甘んじるための賢しい計算をしていた。 でも、無理だった。 隣の檻で、昨日までシクシク泣いていた同じくらいの年の男の子が、今朝になって冷たくなっていた。それを見つけた見張りの男は、舌打ち一つして、ゴミでも捨てるようにその小さな体をズルズルと引きずっていった。 その光景を見た瞬間、私の中で何かが「プツン」と切れた。 音で言うなら、本当にそんな感じだった。 なんだろうな、この理不尽は。 私たちが何をしたっていうんだ。ただ力がないから、弱いから、運がなかったから、こんな埃っぽい地下室で虫ケラみたいに死んでいかなくちゃならないのか。 上の方からは、私たちを値踏みしてゲラゲラと笑う、下品な大人たちの歓声が聞こえてくる。 腹の底から、ふつふつと黒い感情が湧き上がってきた。 生存戦略? 賢い生き方? 知るか、そんなもん。 「おい、そこのガキ。お前の番だ、立て」 ガチャリと鉄格子が開き、見張りの男が入ってきた。 革鎧を着た、いかにも粗暴そうな男だ。ニヤニヤと笑いながら、私の細い腕を乱暴に掴み上げてくる。 「大人しくしてりゃあ、高く売って――」 私は、男の顔をじっと見上げた。 そして、無言のまま、空いている右の拳を握りしめ、男の鳩尾に向かって真っ直ぐに突き出した。 ドンッ、という、まるで大太鼓を叩いたような鈍い音が地下室に響いた。 「……あ?」 男が間抜けな声を漏らす。 次の瞬間、男の巨体は、くの字にひしゃげたまま後方へと勢いよく吹き飛んだ。そのまま向かいの石壁に激突し、ズドォン! と壁ごと陥没する。 男は白目を剥き、口から泡を吹いて、ピクリとも動かなくなった。 自分の小さな拳を見つめる。 魔法なんて使っていない。ただ、渾身の力を込めて殴っただけだ。 どうやら私には、見た目にそぐわない馬鹿みたいな腕力が備わっているらしい。理由は知らない。けど、好都合だ。 「おい! 何の音だ!」 「あいつ、見張りをやりやがったぞ! 捕まえろ!」 騒ぎを聞きつけて、通路の奥からわらわらと武装した男たちが湧いてきた。ざっと十人ちょっとか。剣や槍を構え、物騒な顔つきでこちらを睨みつけている。 「……はぁ」 私は短くため息をつき、首をコキコキと鳴らした。 気取った魔法の詠唱も、華麗な剣技もいらない。 これから私がやるのは、ただの「掃除」だ。 「殺さねえ程度に痛めつけろ!」 先頭の男が剣を振り上げて飛びかかってくる。 私はその場から一歩も動かず、男が間合いに入った瞬間、下からカチ上げるように拳を振り抜いた。 ゴシャッ! アッパーカットが男の顎を正確に捉え、男の体は天井に向かってロケットのように打ち上げられた。天井の石組みに頭からめり込み、そのままぶら下がる。 「なっ……!?」 「ひっ、こいつ、ただのガキじゃ……」 足を止めた残りの男たちに向かって、今度は私の方から踏み込んだ。 一歩。床の石畳がクレーターのように砕け散る。 その反発力を利用して弾丸のように飛び出し、二番目の男の顔面にストレートを叩き込む。鼻血を噴き出して吹き飛ぶ男を足場にして跳躍し、三番目の男の脳天に踵落としを落とす。 殴る。蹴る。殴る。 「ぎゃあああっ!」 「腕が、腕がァッ!」 狭い通路に、骨が折れる嫌な音と悲鳴が響き渡る。 剣で斬りかかってきても、刃の横っ腹を素手で殴ってへし折った。槍で突いてきても、柄を掴んでそのまま持ち上げ、振り回して他の連中にぶつけた。 別に、殺し合いを楽しみたいわけじゃない。 ただ、私の視界から、私を縛り付けようとする理不尽なものを排除したいだけだ。 だから、ひたすらに力任せに、雑に、暴力の限りを尽くす。 ものの三分も経たないうちに、通路は静まり返った。 床には、原型を留めていない男たちが、うめき声を上げながら折り重なって倒れている。 「さてと」 私は返り血で少し汚れた服の裾を払い、通路の突き当たりにある、一際大きく豪奢な扉を見据えた。 あそこが、奴隷市のメイン会場だ。 まだこっちの騒ぎには気づいていないのか、相変わらず明るい声と、競りを進める声が響いている。 私はゆっくりと扉の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。 「邪魔しまーす」 ドゴォォォォォン!!! 右足で思い切り蹴り飛ばすと、分厚い両開きの扉が蝶番ごと吹き飛び、会場の中へと飛んでいった。 扉は空中のシャンデリアを粉砕し、ステージの真ん中に凄まじい音を立てて落下する。 「な、なんだぁっ!?」 「ひぃっ! て、敵襲か!?」 煌びやかな衣装を着た貴族や商人たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。 私は、粉々になったガラスの破片を踏み締めながら、悠然と会場へと足を踏み入れた。 ステージの上では、脂ぎった小太りの奴隷商が、腰を抜かしてへたり込んでいた。 「お、お前は……四十二番!? なぜここにいる! 警備兵! 警備兵はどこだ!」 「警備兵なら、あっちで寝てるよ」 私は親指で背後を指差しながら、奴隷商の前に立った。 「な、何が望みだ……金か? 金ならあるぞ! いくらでもくれてやるから……」 必死に命乞いをする奴隷商を見下ろす。 金? 違う。そんなものに興味はない。 私が欲しいのは、もっとシンプルで、確かなものだ。 「道を開けろ」 私はただ一言、そう言って拳を握り直した。 「え……?」 「私の明日への道を、開けろって言ってんだよ」 振りかぶった右拳を、男の肥え太った顔面めがけて、容赦なく振り下ろす。 ――ナグル! ドパァン! という派手な音とともに、男の体はステージの後ろの壁まで一直線に吹き飛び、そのまま壁をぶち抜いて外の光を招き入れた。 ガラガラと崩れる壁の向こうには、オレンジ色に染まる夕焼け空が広がっていた。 「あー、手が痛い」 私は赤く腫れた拳を振りながら、大きく伸びをした。 足元には、恐怖で震え上がる大人たち。振り返れば、崩れ去った理不尽の象徴。 「さて、とりあえず美味しいご飯でも食べに行こうかな」 私は誰に言うでもなく呟くと、壁に空いた大穴から、自由な外の世界へと一歩を踏み出した。 ここから先は、私の足で、私の拳で、切り拓いていくのだ。

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