Tihoo / 第1話

第1話 春はまだ浅きほど

 春は、まだ浅きほどがよい。  梅の花が咲いたと言うには早く、雪が残っていると言うには遅い。御簾の外の庭には、昨日まで冬であったものが、今朝になって急に春のふりをし始めたような気配がある。枝の先に薄くついた蕾は、まだ花とも言えず、けれど冬のものでもない。  そういう中途半端な朝は、何かが始まるには、たいそう都合がよい。  などと、いかにも物知り顔で思っていた私は、その実、たいそう困っていた。  なぜなら私は、今まさに、内裏の廊にて完全に道に迷っていたからである。 「こちらでございます」と言って先に立った女房は、角を三つ曲がったところで、急に誰かに呼ばれて消えた。残された私は、右も左も同じような柱、同じような几帳、同じような香の匂いの中に立ち尽くしている。  都の屋敷というものは、外から見れば雅である。だが中に入れば、これは罠である。似たような廊、似たような庭、似たような戸。人を迷わせるために作られているとしか思えない。  私は今日より、春宮の御母君、すなわち藤壺の宮に仕えることになっていた。  藤壺の宮。  この宮中で、今もっとも噂の多い姫君である。  若くして中宮に等しい御身分に上がられ、帝の御寵愛も深く、しかもただ美しいだけではない。漢籍にも和歌にも通じ、管絃を聞けばすぐに調子の狂いを言い当て、退屈な公卿の話には、扇で口元を隠しながら一言で場を笑わせる。  つまり、恐ろしい人である。  美しく、賢く、身分が高く、しかも面白い人など、この世にいてよいはずがない。そういう人のそばに仕えるなど、考えただけで胃のあたりが寒くなる。  私は、父の縁で召し出されたにすぎない。  和歌は人並み。字は少し読める。物語は好き。人の噂も好き。美しいものも好き。だが、それだけである。宮中で通用するほどの才など、どこにあるのか自分でもわからない。  そんな私が、初日に道に迷っている。  まことに先が思いやられる。  ため息をついたとき、ふと、御簾の向こうから笑い声がした。  鈴を転がす、という言い方はあまりにありふれている。しかし他に言いようがない。小さく、涼しく、けれど人をからかうような笑い声だった。 「それは、あまりに気の毒ですわ」  女の声であった。 「殿上人たるもの、せめて恋文の字くらいは美しくあってほしいものです。心が乱れるのは許せますけれど、墨まで乱れるのは、どうにも」  周囲の女房たちが、くすくすと笑う。  私は思わず足を止めた。  御簾の奥は見えない。見えないが、その声だけで、そこに座る人が場の中心であることはわかった。香の煙も、庭の光も、女房たちの笑いも、すべてその人のほうへ流れていくようだった。  そのとき、私はうっかり、手にしていた文箱を落とした。  からん、と間抜けな音が廊に響く。  笑い声が止んだ。  しまった。  逃げよう、と思った。宮中に来て初日、御前らしき場所で物音を立てた女として生きていくよりは、今すぐ実家に帰って、庭の蟻にでも謝って暮らしたほうがましである。  だが、逃げる前に、御簾の内から声がした。 「そこにいるのは、誰?」  私は平伏した。 「本日よりお仕えいたします、朝野の娘にございます」 「朝野?」  声が少し明るくなる。 「では、あの偏屈な博士の娘?」  父よ。  娘が宮中に上がった初日に、偏屈という評判で迎えられております。 「はい。偏屈な博士の娘にございます」  奥で、また笑いが起きた。 「正直なのね。顔を上げて」  私は恐る恐る顔を上げた。  御簾はまだ下りている。けれど、隙間から白い手が見えた。細く、冷たそうで、しかし力のある手だった。扇の端が、ゆるく揺れている。 「名は?」 「澪子と申します」 「みおこ。水のような名ね」 「よく、流されそうだと言われます」 「今日は道にも流されたの?」  言葉に詰まった。  女房たちがまた笑う。  私は顔が熱くなるのを感じた。だが不思議と、嫌な笑いではなかった。針で刺すような笑いではなく、火鉢のそばで袖を寄せ合うような笑いだった。 「はい。見事に流されました」 「どこへ行くつもりだったの」 「藤壺の宮様の御前へ」 「では、着いているわ」  私は一瞬、意味がわからなかった。  次の瞬間、全身の血が下がった。  御簾の奥にいるのが、その藤壺の宮である。  私はもう一度、額を床につけた。 「たいへん失礼をいたしました」 「よいの。道に迷って来る人は好きよ。最初から正しい道だけを歩く人は、話がつまらないもの」  なんということを言う人だろう。  私は平伏したまま、目を瞬いた。  宮は、さらに続けた。 「それに、あなたは今、文箱を落としたでしょう」 「はい」 「あれはよい音だったわ」 「よい音、でございますか」 「ええ。いかにも、これから何か面倒なことが始まりそうな音」  女房たちが声を殺して笑った。  私は、そのとき初めて少しだけ顔を上げた。  御簾の向こう、薄い絹の影の中に、その人の姿があった。はっきりとは見えない。けれど、黒髪が衣の上に流れ、淡い紅の袖が春の光を受けているのはわかった。  姿よりも先に、気配が美しかった。  花のようだ、とは思わなかった。  花は、ただ咲いているだけである。この人は、こちらを見ている。見透かし、面白がり、試し、そして少しだけ許している。  私は急に、怖さよりも好奇心が勝った。  この人は、何を見れば笑うのだろう。  何を嫌い、何を美しいと思うのだろう。  退屈な日には、どんな顔をするのだろう。  怒るときは、声を荒げるのか。それとも、今のような涼しい声で人を斬るのか。 「澪子」 「はい」 「あなた、物語は読む?」 「読みます」 「では、人の噂は?」 「……好きです」 「よろしい」  宮は満足そうに言った。 「物語を読み、人の噂を好む者は、退屈を殺す術を知っているわ。ここでは、それが何より大事なの」  宮中とは、もっと厳粛で、恐ろしく、息も詰まる場所だと思っていた。  もちろん、そうなのだろう。  人の身分、家の力、帝の御心、后たちの争い、兄弟の出世、父の失脚、そういうものが見えない糸となって、ここにいる者たちの袖や髪に絡みついている。  だが、その糸の真ん中で、この人は笑っている。  退屈を殺す。  その言葉が、妙に胸に残った。 「では、最初の務めを与えましょう」 「はい」 「今朝見たものの中で、もっともをかしと思ったものを言いなさい」  いきなりである。  私は焦った。  梅。雪。朝の光。香。几帳。女房たちの衣。いくらでもそれらしい答えはある。だが、それらを言ったところで、この人はきっと退屈する。  私は少し考えて、正直に言った。 「迷った廊の先に、干からびた蛙が落ちておりました」  沈黙。  終わった、と思った。  しかし次の瞬間、御簾の奥で宮が吹き出した。 「蛙」 「はい」 「春になりそこねたのね」 「そのように見えました」 「かわいそうに」 「けれど、少し偉そうでもありました」 「死んでなお?」 「はい。まるで、自分こそがこの廊の主だと言わんばかりに」  宮はしばらく笑っていた。  女房たちも笑った。今度の笑いは、先ほどよりも大きかった。私は自分でもなぜそんなことを言ったのかわからず、ただ床を見つめていた。  やがて宮が言った。 「澪子」 「はい」 「あなた、気に入ったわ」  その一言で、胸の奥がふっと軽くなった。  褒められたというより、戸が開いたような心地だった。 「これから、私のそばにいなさい。美しいもの、腹立たしいもの、情けないもの、愚かなもの、少しだけ愛しいもの。そういうものを見つけたら、私に話して」 「私などの目でよろしいのでしょうか」 「人の目は、多いほうがよいの。私一人では、この世を見飽きてしまうもの」  御簾の隙間から、扇が少し上がった。  その奥に、ほんの一瞬だけ、宮の目が見えた。  黒く、澄んでいて、春の朝よりもずっと早く目覚めている目だった。  私はその目を見たとき、なぜか思った。  この人は、きっと長くは穏やかでいられない。  これほど明るい人の周りには、いつか必ず暗いものが集まってくる。笑い声が高いほど、沈黙は深くなる。そんなことを、何の根拠もなく思った。  けれど同時に、こうも思った。  たとえそうだとしても、私はこの人のそばで、その明るさを見ていたい。  春はまだ浅く、庭の蕾は固い。  御簾の内では、藤壺の宮がまた誰かの下手な恋文を取り上げて、墨の乱れについて語り始めた。  私は文箱を拾い、静かに膝を進めた。  こうして私は、宮中という大きな迷路の中で、初めて仕えるべき人を見つけたのである。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳