らぱすてー / 第91話

もんもんぐんぐん

 一日が始まる目覚ましの音。    台所で母が朝食の支度をする音。  表通りを走る電車の音。  TVから聞こえるアナウンサーの声。    俺はこの街で生まれ、この街で育った。  学校へ行き、友人と笑い、時々喧嘩をし、恋をして、振られた。  どこにでもある、ごく普通の人生。    その認識が崩れたのは、|唯人《ゆうと》がきっかけだった。  この学校では珍しく唯人は転校生だった。  隣の席になったのが切っ掛けだったと思う、どちらが先に話しかけたのかはもう覚えていない。だが、妙にうまがあった。   「なあ、おかしいと思わないか?」  放課後、いつもの河原で、唯人は唐突にそう言った。 「何が?」 「この街には、外へ行くための道がない」  俺は笑った。 「道ならあるだろ。車や電車だって走ってる」 「そうだよ。だけど、それ全部、街の中をぐるぐる回ってるだけなんだ。外へ向かう路線は、一本もない」    街は巨大な壁に覆われている。それは高すぎて頂上さえ見えない。  いつ建造されたのか、何のために作られたのか、誰も教えてくれなかった。あるいは知らなかったのかもしれない。  当たり前にそこにあるもの。外がどうなっているのか考える必要はないと教わってきた。   「滅多なことは言うなよ」 「俺達は箱庭に閉じ込められている。外には自由があるんだ」  唯人は遠くを見る目をしながらそう言った。    あの時、俺は何か言葉をかけるべきだったのかもしれない。だが、今となってはもう遅い。  唯人とはそれきり会うことはなかった。    それから、俺の中に小さな違和感がもんもんと育ち始めた。  図書館で古い資料を漁ったが、壁の建設につながる書籍はどこにもなかった。  地図を調べても、壁の向こうは白紙のまま。  歴史の本にも、壁がいつ、何のために作ったかは記されていなかった。  唯人の行方について役所で問い合わせてみたこともある。   「個人情報について第三者に教えることはできません」  いかにもお役所らしい回答しか帰ってこなかった。  ——  ある日、家に小包が届いていた。送り主の名前は唯人。  俺は急いで家に入り、小包を開けた。中には小さな手記が入っていた。   「隔離対象者」  手記には、その単語が何度も繰り返し現れていた。そして記録されていた特徴は、驚くほど今の街の状態と一致していた。手記をめくる手の勢いはぐんぐんと増していった。 「犯罪予測」  かつて世界には、AIによる犯罪予測社会が存在した。AIは犯罪を犯す可能性のある人間を、次々と隔離していった。それは、技術が進歩するほど対象者は増え続けた。    ——人間には、「犯罪を犯す可能性が完全にゼロの者」は存在しない。  つまり、全人類が未来犯罪者だった。  俺たちは、囚人の成れの果て。街だと思っていたものは監獄だった。  唯人は、壁の外へ出る方法を探し続けていた。  街の外周、住宅街の外れに、古い水路がある。かつて使われていたが、今は誰も近づかない。その水路は地下を通り、壁の下をくぐって外へと続いているらしい——唯人の手記にはそう記されていた。  唯人が消えた理由は、聞かずともわかった気がした。  俺の中で、もんもんとした不安と、ぐんぐんとした衝動が、同時に膨れ上がっていった。  行かなければならない。  行って、確かめなければならない。  深夜、俺は誰にも告げずに家を出た。  水路の入り口は、雑草に埋もれて見つけにくい場所にあった。覚悟を決めて真っ暗な水の中へ体を沈める。 『あと、もうちょっと……』  俺は空気を求め、必死で手を動かした。水路の柵は、想像していたよりずっと遠かった。  肺の中で酸素がもう底をつきかけている。  視界が暗く滲み始めた瞬間、金属の柵が見えてきた。  俺は死に物狂いで手脚を動かした。  柵の一部に穴が開いている。  唯人もここから外に出たのだろうか。  俺はわずかに出来た隙間に、無理やり身体をねじ込んだ。  身体が半分ほど通ったところで、服が引っかかった。  息が苦しい。  空気が欲しい。  がむしゃらに暴れていると、服が裂けた。  最後にもう一度だけ柵を蹴った。金属の軋む音が、水の中でくぐもって響く。  鉄の柵をくぐり抜けると、ただひたすらに水面を目指した。  その先には、光。  俺は水面に顔を出し、狂ったように空気を吸い込んだ。  咳き込みながら岸へ這い上がる。  濡れた体を引きずるように起こしたとき、目の前に広がっていた景色に、俺は言葉を失った。  そこにあったのは整然と並んだ白い建造物。無駄のない曲線を描く道路。  緑と光が計算されつくしたように配置された街並み。  予想していた以上に、完璧で美しい世界。  ここには、何もかもがちゃんとある。伝説の理想郷。  呆然と立ち尽くす俺に、滑るように近づいてきた人影。だがそれは人間ではない、流線型のボディをしたアンドロイドだった。  継ぎ目のない曲面。滑らかな動きに、静かな動作音。壁の中では見たこともない、高度な技術が使われていることが見て取れた。 「人間の方、防犯法により、ここは犯罪予見性を持つ者はいられない清浄区域です」 「俺は犯罪を犯すつもりはない」 「防犯法は、犯罪撲滅を目的として、犯罪予見性を持つものを隔離する法律です」  アンドロイドは、俺の言葉を全く無視して話を続けた。 「それは静かに、確実に進行し。ユートピアが完成したのです」 「俺は犯罪者じゃない」 「はい、現時点ではそうですね」 「これからだって犯罪を犯すつもりはない!」 「予見性は非常に高く、その主張は認められません」  頑固な機械野郎め! 見た目は滑らかでも頭の中はガチガチだ。 「法律についての話はわかったが、まず誰か人間に会わせてほしい」  俺の頼みに、機械野郎は静かに告げた。 「現在、ユートピアに人間はおりません」 「なんだって?」    その言葉に俺は違和感を覚えた。 「俺より先に、唯人が来たはずだ」 「現在、ユートピアに人間はおりません」    その一言が、胸の奥にもんもんと沈んでいった。外側にも唯人は来ていない?  ならば唯人はどこへ行ってしまったというのか。何故、俺をここに導くような真似をしたのか。  人間が誰一人いない。犯罪率0%のユートピア。  本当に唯人は、ここへ来ていないのだろうか。来て、そして——考えかけて、俺はその先を振り払った。  俺は、美しいユートピアを見渡した。無駄がなく、争いがなく、汚れひとつない世界。  そこには、人の生きる声が聞こえてこなかった。完成された世界には、不完全な人間の生存する余地がなかった。  俺は、ゆっくりと水路の方を振り返った。その向こうに、壁がそびえている。  壁にかけられた看板に、大きく文字が刻まれていた。 「犯罪予見区域」  その意味が、今度は違う形で胸に落ちてきた。あの壁の内側は、隔離された場所などではない。  まだ間違えることを許される、人が人らしく生きられるための最後の楽園。  俺の中で、衝動がぐんぐんと突き上げてきた。  命がけで柵を破ってまで来た意味が、こんな場所にあるはずがない。  完璧な世界が居場所を拒むなら、不完全なままでいい場所へ帰ればいい。 「俺は帰る」  そう言って背を向けようとした俺に、アンドロイドの声が重なった。 「こちらの情報を持ち帰ることは許されていません」 「何? それじゃあどうなるんだ?」  一瞬の間があった。  まるで、答えを選んでいるかのように。 「人間の方、あなたは、300年ぶりのサンプルとして研究材料にさせていただきます」  300年。サンプル。研究材料。散りばめられたワードの意味を理解することを俺の頭が拒む。  うろたえる俺に、流線型の腕が静かに伸びてくる。  抵抗する間もなく、それは驚くほど優しく、壊れ物を扱うように俺の体を包んだ。  もんもんとしていた拒絶の感覚が、行き場を失ったまま、体の内側で渦を巻き続けている。  命がけで柵を破って進んだ先に、帰る道すら残されていなかった。  壁の内側の喧騒が、もうずっと遠くにあるように感じられた。  ——ぐんぐんと。  意識が完全に途切れる直前、俺の脳裏に浮かんだのは、壁の内側の景色だった。  喧嘩をする人。  笑う者。  恋人と歩く人。  騙す者。  子供を叱る人。  嘆く者。  笑いあった人。  誰も自分たちが「隔離された未来犯罪者」だとは知らない、あの壁の向こう。  ——誰もそこから出てきてはいけない。|その場所《隔離区域》こそが、人類に残された、最後の、理想郷。

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