らぱすてー / 第87話

もんもんぐんぐん

 その|夜《よる》も、|燭台《しょくだい》の|火《ひ》が|揺《ゆ》れる|客間《きゃくま》で、|朗読《ろうどく》の|集《つど》いが|開《ひら》かれていた。  |絹張《きぬば》りの|長椅子《ながいす》に|身《み》を|沈《しず》めた|常連《じょうれん》たちは、もう|幾度《いくど》となくこの|遊戯《ゆうぎ》を|重《かさ》ねてきたためか、|私《わたし》という|朗読者《ろうどくしゃ》の|癖《くせ》も、その|声《こえ》の|抑揚《よくよう》も、すっかり|心得《こころえ》ているようだった。  |今宵《こよい》|携《たずさ》えた|原稿《げんこう》は、まるで|幼子《おさなご》に|読《よ》み|聞《き》かせるかのように、あらゆる|漢字《かんじ》にまで|丹念《たんねん》にルビが|振《ふ》られていた。これしきのもの、|読《よ》み|違《ちが》えようもあるまい。そう|思《おも》う|端《はし》から、|胸《むね》の|底《そこ》にほんの|微《かす》かな、もんもんとした|翳《かげ》りが|差《さ》した。  だが、その|予感《よかん》とは|裏腹《うらはら》に、|朗読《ろうどく》は|絹糸《きぬいと》のように|滑《なめ》らかに|流《なが》れ|出《だ》した。|声《こえ》は|蝋燭《ろうそく》の|炎《ほのお》さながらに、ぐんぐんと|勢《いきお》いを|増《ま》して|客間《きゃくま》の|空気《くうき》を|染《そ》めていく。ルビとは、かくも|慈悲深《じひぶか》いものであったか。  ——と、そこで|指先《ゆびさき》が|凍《こお》りついた。  |見慣《みな》れぬ、|画数《かくすう》の|多《おお》い|一字《いちじ》。|先《さき》ほどまでの|平易《へいい》な|文字《もじ》とは|明《あき》らかに|毛色《けいろ》を|異《こと》にする、|意味深長《いみしんちょう》な|漢字《かんじ》が、ルビを|伴《ともな》わずに|紙面《しめん》にぽつりと|佇《たたず》んでいる。まるで、|忘《わす》れられた|墓標《ぼひょう》のように。  |客間《きゃくま》の|空気《くうき》が、ふっと|張《は》り|詰《つ》めるのを|肌《はだ》で|感《かん》じた。|誰《だれ》も|声《こえ》を|発《はっ》さぬが、|全員《ぜんいん》の|視線《しせん》が、|固唾《かたず》を|呑《の》んで|私《わたし》の|唇《くちびる》に|注《そそ》がれている。 (——|嘘《うそ》でございましょう)  もんもんとした|戸惑《とまど》いが、|先刻《せんこく》よりも|深《ふか》く|胸《むね》を|疼《うず》かせる。けれど、ここで|言《こと》の|葉《は》の|紡《つむ》ぎを|止《と》めるわけにはいかない。|朗読《ろうどく》はすでに、|満帆《まんぷう》に|風《かぜ》を|孕《はら》んだ|帆船《はんせん》の|如《ごと》く、ぐんぐんと|勢《いきお》いに|乗《の》っており、この|流《なが》れを|断《た》ち|切《き》れば、|集《つど》いそのものの|興《きょう》を|削《そ》いでしまう。  |私《わたし》は|文脈《ぶんみゃく》という|名《な》の|羅針盤《らしんばん》を|頼《たよ》りに、|前後《ぜんご》の|言葉《ことば》、|物語《ものがたり》の|呼吸《こきゅう》、その|字《じ》の|成《な》り|立《た》ちを|総動員《そうどういん》し、|脳裡《のうり》でもんもんと|思案《しあん》を|煮《に》|詰《つ》め、そして、|一世一代《いっせいいちだい》の|賭《か》けに|出《で》た。 「——”覚悟”を、|決《き》めた」  |声《こえ》を|発《はっ》した|刹那《せつな》、|客間《きゃくま》の|緊張《きんちょう》がふわりと|解《と》けた。|正解《せいかい》であったらしい。|安堵《あんど》に|肩《かた》の|力《ちから》が|抜《ぬ》ける。  だが、|著者《ちょしゃ》の|悪戯心《いたずらごころ》、|或《ある》いは|悪意《あくい》は、それで|幕引《まくひ》きとはいかなかった。  |頁《ページ》をめくれば、|再《ふたた》び|同《おな》じ|文字《もじ》が|現《あらわ》れる。|今度《こんど》は|律儀《りちぎ》にルビが|添《そ》えられていた。「|覚悟《かくご》」——|私《わたし》の|読《よ》みと|寸分《すんぶん》|違《たが》わぬ。  ところが|次《つぎ》の|頁《ページ》。また|別《べつ》の|難解《なんかい》な|文字《もじ》に、ルビの|影《かげ》が|見当《みあ》たらない。さらに|次《つぎ》も。またその|次《つぎ》も|続《つづ》いた。  |最初《さいしょ》は|書《か》き|手《て》の|不手際《ふてぎわ》かと|思《おも》うた。だが、これは——|紛《まぎ》れもなく、|意図的《いとてき》なものだ。  ふと|署名欄《しょめいらん》に|目《め》をやれば、|案《あん》の|定《じょう》、そこには「|曲《まがり》」という|筆名《ひつめい》が|記《しる》されていた。  |備考《びこう》には、たった|一行《いちぎょう》、こう|書《か》き|添《そ》えられていた。 「いつも|朗読《ろうどく》をありがとう|存《ぞん》じます。あなたならば|読《よ》み|解《と》けると|信《しん》じ、あえてルビを|外《はず》させていただきました」  なるほど。これは|著者《ちょしゃ》である|曲《まがり》らしい|戯《たわむ》れだ。  もんもんとした|戸惑《とまど》いが、すとんと|腑《ふ》に|落《お》ちるや|否《いな》や、|代《か》わりに|笑《わら》いが|喉元《のどもと》までこみ|上《あ》げてきた。|何《なん》と|挑戦的《ちょうせんてき》な|投稿者《とうこうしゃ》であろうか。しかし、|悪《わる》い|心地《ここち》はしない。むしろ——|胸《むね》の|奥《おく》に、|仄《ほの》かな|炎《ほのお》が|灯《とも》った|心地《ここち》がした。  |私《わたし》は|居住《いず》まいを|正《ただ》し、|残《のこ》された|頁《ページ》と|向《む》き|合《あ》う。ルビなき|文字《もじ》が|現《あらわ》れるたび、|文脈《ぶんみゃく》を|読《よ》み、|登場人物《とうじょうじんぶつ》の|心《こころ》の|綾《あや》を|汲《く》み|取《と》り、|声《こえ》にする。|正解《せいかい》すれば|客間《きゃくま》からささやかな|拍手《はくしゅ》が|起《お》こり、|迷《まよ》う|箇所《かしょ》では、|皆《みな》が|固唾《かたず》を|呑《の》んで|見守《みまも》った。  いつしかそれは、|単《たん》なる|朗読《ろうどく》の|集《つど》いではなく、|謎解《なぞと》きの|夜《よる》へと|姿《すがた》を|変《か》えていた。  もんもんと|悩《なや》みながらも、ぐんぐんと|頁《ページ》をめくる|手《て》は|止《と》まることはない。そこには、|不思議《ふしぎ》な|高揚《こうよう》があった。ルビという|杖《つえ》に|頼《たよ》らず、|己《おの》が|力《ちから》のみで|物語《ものがたり》という|山脈《さんみゃく》を|登《のぼ》り|詰《つ》めていく|感覚《かんかく》。これまで|幾百《いくひゃく》の|宵《よい》にも、|覚《おぼ》えのなかった|手応《てごた》えであった。  |最後《さいご》の|頁《ページ》。|物語《ものがたり》を|締《し》めくくる|一節《いっせつ》に、また|難解《なんかい》な|文字《もじ》が|待《ま》ち|構《かま》えていた。しかし、もはや|迷《まよ》いはなかった。ここまでの|積《つ》み|重《かさ》ねが、|確信《かくしん》という|名《な》の|灯《あか》りを|私《わたし》に|授《さず》けてくれていたから。 「——|二人《ふたり》は、”永遠”に、この|街《まち》で|生《い》きていく」  |読《よ》み|終《お》えたその|瞬間《しゅんかん》、|客間《きゃくま》は|拍手《はくしゅ》に|包《つつ》まれた。|曲《まがり》は「ルビなしの|遊戯《ゆうぎ》、|実《じつ》に|見事《みごと》でございました」と|声《こえ》を|上《あ》げる。|私《わたし》は|苦笑《くしょう》を|浮《う》かべながら、|小《ちい》さく|頭《こうべ》を|垂《た》れた。|次《つぎ》はいかなる|投稿者《とうこうしゃ》が、いかなる|悪戯《いたずら》を|仕込《しこ》んでくるのであろうか。  |朗読《ろうどく》とは、げに|麗《うるわ》しきものである。もんもんとした|憂《うれ》いは、いつの|間《ま》にか、ぐんぐんと|進《すす》む|冒険《ぼうけん》の|詩《うた》へと|姿《すがた》を|変《か》え、|永遠《とわ》に|響《ひび》き|続《つづ》ける。  それを|思《おも》うと、ほんの|少《すこ》しだけ、|心《こころ》が|浮《う》き|立《た》っている|己《おのれ》を|見出《みいだ》していた。

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