Tihoo / 第86話

第八十六話 「パウリの排他原理と嵐の肩透かし。観測不能な閉鎖系へと、一番弟子と恩師は出かけていった」

翌朝。 俺は、まるで断頭台へ向かう死刑囚のような重い足取りで、ダイニングルームの扉を開けた。 隣には、俺のシャツを羽織っただけの姿で、俺の魔力と「昨夜の濃密な事象の痕跡」を全身からぷんぷんと漂わせているミリムが、上機嫌で鼻歌を歌いながらくっついている。 リビングでは、すでにアリアとクロエが優雅に朝の紅茶を楽しんでいた。 終わった。アリアの【絶対零度】で屋敷ごと凍結されるか、クロエの【事象改変】で昨夜の出来事ごと俺の存在を消し去られるか。俺は咄嗟に物理防壁を展開する準備をした。 「……おはよう、アリア、クロエ。その、昨夜のことは――」 「おはようございます、師匠」 アリアはティーカップを優雅に傾けながら、ふわりと穏やかに微笑んだ。 「あら、おはようボウヤ。ミリムちゃん、随分と艶っぽくなったわね。ようやくボウヤも男としての『機能』を果たしたようで、恩師としては安心したわ」 クロエもまた、クスクスと笑うだけで、魔力を一切放つ気配がない。 「……は?」 俺は完全に拍子抜けして、間の抜けた声を漏らした。 「がおー! アリア、クロエ、おはよう! ミリムね、ししょーとすっごく熱いことしていっぱい繋がったの!」 ミリムが無邪気に爆弾発言を投下するが、二人の反応は極めて薄い。嫉妬の炎はおろか、静かな怒りのエントロピーすら微塵も観測されない。 「おかしい……。お前たち、怒っていないのか?」 俺が困惑していると、アリアがカチャリとカップをソーサーに置き、静かに立ち上がった。 そして、隣に座る『俺の恩師』であるはずのクロエを見下ろし、普段の彼女からは想像もつかないような、ひどく自然で、どこかたしなめるような口調で口を開いた。 「お茶はここまでね。クロエ、そろそろ行くわよ。例の件、今日中に終わらせないと」 「ええ、わかってるわ」 クロエは、いつも俺をからかう時の傲慢な態度はどこへやら、ひどく素直に――まるで聞き分けの良い妹のように頷き、立ち上がった。 俺は一瞬、自分の耳を疑った。 アリアは俺の『弟子』であり、クロエは俺の『恩師』だ。本来ならクロエの方が圧倒的に上の立場であるはずなのに、今の短いやり取りには、明らかにアリアの方が主導権を握っているような奇妙な響きがあった。 「それじゃあボウヤ、私たちは夕方まで出かけるから、せいぜいその子と物理法則の検証でも続けてなさい。行きましょう、アリア」 「ええ。……師匠、お留守番をお願いしますね」 二人が並んで歩き出す。 その時、俺の魔力探知が微かな『異常』を捉えた。 並んで歩く二人の魔力波長が、まるで一つの存在であるかのように完全に同期(シンクロ)しているのだ。 ――量子もつれ(クァンタム・エンタングルメント)。 二つの粒子が、どれほど離れていても互いの状態を即座に決定づける、不可分な結びつき。単なる恩師と弟子という関係性だけで、これほどまでに魔力の波長が混ざり合い、同調するものだろうか? 彼女たちの間には、俺の知らない何か決定的な「共通の基盤」が存在しているように思えてならない。 パタン、と。 二人だけで完結した空気を纏ったまま、扉が閉められた。 「……パウリの排他原理か」 俺はポツリと呟いた。 同一の軌道に、三つ目の電子は入ることができない。彼女たち二人が、すでに完全に満たされた一つのペア(閉鎖系)を形成しているかのようなあの空気感。そこには、俺という第三の観測者が入り込む隙間など、最初から存在しなかったのだ。 「ししょー? アリアたち、どこか行っちゃったね」 ミリムが不思議そうに首を傾げ、俺の腕に柔らかい胸を押し付けてくる。 「……ああ、そうだな」 命の危機を回避できた安堵感よりも、自分の知らないところで一番弟子と恩師が強固な結びつきを見せている事実に、俺は物理学者として妙な敗北感を味わいながら、ミリムの温もりにそっと縋り付くのだった。
「修羅場回避したけど、逆に怖いw」「二人の関係が気になる!」 と思っていただけたら、 【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】評価をお願いします!

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