NAWOMIDOU / 第17話

最終話(第22話):千日前、また新しい頁を捲るために

 翌日。正午過ぎの大阪・千日前。  道具屋筋の喧騒を一本折れた先にある、小さな古書店。  カビと古い紙の匂いが満ちる店内で、私は脚立に登り、黙々と文庫本の背表紙の埃を払っていた。  首元には、蓮見の噛み跡を隠すための、ファンデーションと薄手のスカーフ。 「おーい、シィカちゃん。無事に戻ったか」  帳場の奥から、源さんが老眼鏡を外して顔を出した。 「はい、源さん。昨日、最終で戻ってきました」  私は脚立から降り、お淑やかに会釈した。声は、清楚で丁寧な標準語。 「えらい遠くまで行ってたみたいやけど、どうやった? 面白い『本』は読めたんかいな」 「ええ、とても」  私はエプロンのポケットから、ボロボロになった一枚の青いきっぷを取り出した。  五つのスタンプが、乱暴に、けれど誇らしげに並んでいる。  リクルートスーツの就活生。  砂丘の漁師青年。  宍道湖の元教師。  尾道の冷徹なカメラマン。  そして、播州赤穂の無垢な少年。 「全部、最後まで綺麗に読み終えましたよ。……でも、どれも読み捨てのペーパーバックみたいなものでしたから」 「なんや、贅沢なこっちゃな」  源さんが笑いながら、新しい古書の山を指差した。 「ほなら、また日常の仕事に戻ってもらおか。新しく買い取った文学全集、値付け頼むわ」 「はい、分かりました」  源さんが奥の茶の間に引っ込むのを見届け、私は店のガラス戸へと歩み寄った。  外のミナミの街は、今日も茹だるような熱気に満ちている。  すれ違う男たち。スーツの男、学生、観光客。  彼らは誰も知らない。  このガラス戸の向こうにいる、清楚な文学少女が、五人の男の人生をめちゃくちゃに乱読し、その体液と執着を背負ったまま、平然と笑っていることを。  今頃、あの男たちはどうしているだろう。  就活生は面接の最中に私の太ももを思い出しているだろうか。  漁師は海を見るたびに解けたビキニの紐を探しているだろうか。  元教師はあの栞を抱いて、一生私の亡霊に苛まれるのだろうか。  透は、二度と戻らない私の温もりを探して、街行く女の中に私の面影を追い続けるのだろうか。 (……ほんま、男って哀れで、可愛らしい生き物やわ)  五つのスタンプが押された『青春18きっぷ』を、ゴミ箱の上にかざす。  躊躇いなく指を離すと、それは丸められたレシートの山の中へと、音もなく落ちていった。  利用価値のなくなったテキストは、古紙回収に出すのが礼儀。  ガラス戸に映る自分の顔を見る。  唇を紅く塗り直し、私は心の中で、誰に向けてでもなく呟いた。 「読後感、最悪。……でも、やめられないでしょ?」  夏の終わりを告げる風が、道頓堀のネオンを揺らしていた。  次は、冬の18きっぷ。  雪の降る北国で、どんな男(テキスト)を凍えさせ、溶かしてやろうか。 「……知らんけど」  少女は静かに本を開き、新しい獲物が迷い込んでくるのを、天使のような笑みで待ち続けた。 (了)
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