遥 / 第64話

64話 最後の仕事

 防災対策課の会議室。  風宮さんは静かに、自分の手の中にある黒く小さなUSBメモリを凝視していた。  その瞳には、これから起こる事態への深い警戒の色が宿っている。 「……確かに、このUSBは俺が責任を持って預かっておく」  低く重みのある風宮さんの声を聞き、私ーー月影は小さく頷いた。  この人になら、命懸けで手に入れた情報を託しても大丈夫だ。  そう確信していた。 「……それじゃあ風宮さん。そのUSBの件、よろしくお願いします」  それだけを短く言い残すと、私は足元に伸びる薄暗い影の中へ、静かに身体を沈めていく。  ――スッ。  影の中へ潜り込み、空間を滑るように移動する。  暗闇の通路をすり抜け、自分の部署の前まで来ると、私は再び静かに姿を現した。  廊下には、誰の気配もない。  私はそっと胸を撫で下ろし、安堵の息を吐いた。 「ふう……やっぱり、この影移動は、本当に便利だな」  緊張を少しだけ解きほぐしながら、私はドアノブへ手を掛ける。  ――カチャリ。  金属音が静かに響いた。  自室へ足を踏み入れた私は、背後で音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉めた。 ***  ――だが、その瞬間だった。  部屋の奥。  暗がりの中で、異質な黒い光の粒子がちらちらと舞っている。  それが視界に飛び込んできた瞬間、私の表情が強張った。 「……ここで一体、何が起きているんだ?」  重苦しく冷ややかな静寂が、部屋全体を支配している。  問いかけに、返事はない。  宙を漂う漆黒の光の粒子が、まるで意思を持つ生き物のように、ゆっくりと渦を巻き始めた。  そして――。  粒子が、一つの人影を形作っていった。  背中には、禍々しくも美しい漆黒の翼。  身に纏っているのは、深紅と漆黒が混ざり合った異形の装束。  そして、すべてを呑み込みそうなほどの深い漆黒の髪。  右手には、怪しい鈍い光を放つ短剣が握られていた。  私は息を殺し、全身の神経を研ぎ澄ませながら、目の前に現れた謎の刺客を見据える。 (……なるほど)  相手から放たれる、異様な気配。  そして、あまりにも自然な出現。  私は瞬時に状況を理解した。 (……これは、私を狙ってきている)  ほんの少しだけ、口元に笑みが浮かぶ。 (これが……今の私に課せられた仕事ってことか)  私は身体の重心を深く落とし、全身の筋肉へ力を込めた。  そして、静かに拳を構える。 「だがな……そう簡単に殺されるつもりは、ないがな!!」  ピンと張り詰めた糸のような緊張感が、部屋を完全に支配する。  次の瞬間――私と謎の刺客は、同時に床を蹴った。  ――ドンッ!!  漆黒の翼を持つ刺客が、短剣を一直線に突き出してくる。  迷いのない動き。  殺意だけを乗せた、鋭い突き。  私は迫り来る刃を、服の布で滑らせるように受け流した。  ――キィン!  刃が空を切る。  そのまま懐へ踏み込み、無防備になった相手の顔面へ拳を叩き込む。  しかし――刺客は、ほんのわずかに身体を後方へ滑らせた。  私の拳が、髪先を掠める。 (速い……!)  次の瞬間には、再び短剣が迫っていた。  右、左、胸元、喉元。  連続して繰り出される突きを、私は紙一重でかわし続ける。  こちらが踏み込めば、相手は後方へ下がる。  拳を振れば、最小限の動きでかわされる。  狭い室内で、一瞬ごとに生死を分ける攻防が繰り返されていく。 (何なんだ、こいつ……!)  呼吸の気配すら感じさせない。  動作に無駄が一切ない。  まるで、人間の限界そのものを無視しているかのような戦い方だった。 (……本当に、人間なのか!?)  額に汗が滲む。  しかし、互角に見えた攻防は、ほんの一瞬の隙によって崩れ去った。  ――トントン。  廊下の向こうから、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。 (……誰か来る!?)  私は咄嗟に、その音へ意識を向けてしまった。  ほんの一瞬。  たった、それだけだった。  だが――刺客は、その隙を見逃さなかった。  ――シュッ!!  最短の軌道で、短剣が突き出される。  私の反応が、ほんのわずかに遅れた。  ――ただ、それだけだった。  ――グサッ!! 「……ガハッ!!」  刃が、胸を深々と貫いた。  血が、一気に溢れ出す。  刺客は何も言わない。  ゆっくりと短剣を引き抜くと、その身体を暗い光が包み込んだ。  そして――漆黒の光の粒子となり、消え去っていった。 ***  静まり返った室内。  私は膝から崩れ落ち、冷たい床へ倒れ込んだ。  視界が急速に狭まっていく。  世界が、暗闇へ沈んでいく。  冷たくなっていく指先を、最後の力を振り絞って伸ばした。  胸から流れ出した血に指を浸す。  そして、震える指先で床に文字を刻んだ。 「……風宮さん」  声が、掠れる。 「私は……どうやら……ここまでみたいです」  残された意識と命のすべてを振り絞り、血に濡れた指を動かす。  一文字。  たった一文字だけ、床へ刻み込んだ。 『天』  その文字を書き終えた瞬間――指先から、力が抜け落ちた。  私は静かにまぶたを閉じる。  そして――ひっそりと、息を引き取った。  窓から差し込む夕暮れの光が、冷たくなった身体と、床に残された血文字を赤く染めていた――。

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