遥 / 第1話

01話 何気ないいつもの放課後

 新学期が始まってから数週間が過ぎた、四月下旬。  桜の季節はとうに過ぎ、街には少しずつ初夏の陽気が混じり始めている。  東高校2年A組、帰りのホームルーム。  教壇の前に立つ担任の、声が静かな教室に響いていた。  俺――日向橙真(ひなたとうま)は頬杖をついたまま、右耳にだけ入れた小さな白いイヤホンを指先で軽くいじっていた。  ホームルーム中に堂々とイヤホンをつけていて、何も言われない生徒なんて、この学校で俺くらいだろう。 「音楽は流していません。ただ、静かになるからつけているだけです」  以前そう理由を告げて以来、授業の邪魔をしていないこともあって、担任は何も言ってこなくなった。  音楽を聴きたいわけじゃない。  ただ、片耳だけでも外の世界から少しだけ切り離しておくと、なんとなく心が落ち着くような感じがするのだ。  完全に自分だけの世界へ閉じこもりたいというわけではない。  外の音がすべて消えてしまうと、かえって自分自身の輪郭まで、あやふやになる気がする。  片耳だけを静寂に浸し、もう片方の耳で世界の雑音を拾う。  その不均等なバランスこそが、俺には一番心地よいと思っている。  窓の外へ視線を向ける。  グラウンドでは運動部が練習の準備を始めており、校舎の奥からは吹奏楽部が奏でる金管楽器の音がかすかに聞こえていた。  いつも通りの平和な放課後。  そんなことを思っているうちに、担任が出席簿をパタンと閉じた。 「――以上だ。これで、ホームルームを終了する」  その瞬間、静まり返っていた教室が一気に活気づく。  椅子を引く重い音。  友人同士の楽しげな会話。  一刻も早く帰ろうと、素早くカバンに教科書を詰め込む生徒たち。  窓から差し込む夕方の光が、舞い上がる小さなホコリをキラキラと光らせていた。 「橙真、帰るぞー!」  聞き慣れた声に振り返ると、いたずらっぽく口元を緩めた蒼太が立っていた。  カバンを肩に掛け、歩き出そうとしたその時――。 「ちょっと待って、二人とも」  落ち着いた声とともに、長い髪を揺らした碧羽が歩み寄ってくる。 「碧羽、準備終わったのか?」 「うん。二人が先に行っちゃうかと思って、ちょっと焦っちゃった」 「そんな薄情なことしないだろ」 「ふふ、冗談。止まってくれてありがとう」  柔らかな笑みを浮かべる碧羽を見て、蒼太が肩をすくめて苦笑する。 「相変わらず碧羽は大人っぽいなぁ。俺たちと同い年とは思えないぜ」 「それって、蒼太が賑やかすぎるだけじゃないか?」 「そうかもね」  俺がすかさず突っ込むと、碧羽はくすっと口元を緩めて頷いた。 「おい、どういう意味だよ、それ!」  そんな他愛もない会話を交わしながら、俺たち三人は並んで夕刻の廊下を歩く。 「そういえば、もうすぐゴールデンウィークだよね。橙真と蒼太は何か予定あるの?」  碧羽が隣に並び、こちらの表情を窺いながら尋ねてくる。  彼女はいつもこうやって自然に話を振り、相手の言葉に優しく耳を傾けてくれた。 「俺は陸上部の練習でほとんど潰れるわ。連日走り込みだしなぁ。それに比べると弓道部は、静かに構えているだけで楽そうでいいよな」 「ふふ、確かに外から見たらそう見えるかもね。でも、姿勢を維持するのに結構体幹を使うし、弓を引く腕の筋肉だって相当鍛えられるんだよ? 意外とハードなんだから」  責めるでもなく、穏やかな口調で返す碧羽に、蒼太は一瞬で申し訳なさそうな顔になった。 「うわっ、ごめん! 悪気はなかったんだって!」 「分かってるよ。陸上部も走り込みが大変そうだけど、無理しすぎないでね」 「碧羽、優しすぎる! 橙真、お前も見習えよな!」 「なんで俺に流れ弾が飛んでくるんだよ。俺は帰宅部だからノーコメントだ」  楽しそうに目を細める碧羽の横で、俺たちは昇降口へと到着した。  下駄箱からスニーカーを取り出し、蒼太が履き替えながら時計に目をやる。  その瞬間、彼の表情が凍りついた。 「あ……やばいかも」 「どうしたの?」 「今日の陸上部の集合時間、いつもより十分早かったんだ……あと三分くらいしかない!」 「集合時間、昨日確認しておけばよかったのに」 「返す言葉もございません!」  あまりの即答ぶりに、俺と碧羽は思わず吹き出してしまう。 「じゃあ本当にそろそろ行かないと首が飛ぶから、先に行くわ! また明日!」  叫ぶなり、蒼太は猛スピードでグラウンドへ向かって走り去っていった。  遠ざかっていく背中を見送りながら、碧羽が微笑ましそうに笑う。 「あんなに慌てるなら最初から走ればいいのに……でも、あのアクティブさが蒼太の良いところでもあるんだけどね」 「まあな。ギリギリにならないとエンジンがかからないのも含めて蒼太だし」 「ふふ、そうだね」  碧羽は納得したように頷き、自分の靴に履き替えると俺を振り返った。 「それじゃ、私もそろそろ行くね。今日、弓道場の当番なんだ」 「おう、気をつけてな。あんまり無理すんなよ」 「うん、ありがとう。橙真も気をつけて帰ってね。また明日」 「また明日」  碧羽は穏やかに微笑んで軽く手を振ると、弓道場のある校舎の裏手へ歩を進めた。 ***  碧羽も当番で大変なはずなのに、そういう苦労を決して口に出さない。  そんな彼女の気遣い深さを思いながら、俺は軽く息を吐いた。  さっきまで賑やかだった昇降口から人の気配が減り、急に静まり返っていく。  残された俺は、自分の外履きに足を滑り込ませると、制服のポケットから小さな白い充電ケースを取り出し、左耳にもイヤホンを入れる。  ――耳が塞がれる、小さな感触。  音楽は流さない。  ただ、両耳を塞ぐだけで、校舎を包んでいた放課後の喧騒も、遠くから聞こえる部活動の叫び声も、すっと遠ざかっていく。  世界の音量が少しだけ下がったような、不思議な静けさが胸に広がった。  両耳が遮断されたこの静けさこそが、俺にとっての『安全地帯』だった。  夕日に照らされた校庭をぼんやりと眺めながら、俺はアスファルトの上に伸びる自分の影を見つめる。  変わり映えのしない日常。  けれど、この静寂があるからこそ、俺は明日もまた、賑やかな世界へ戻っていけると思う。  俺は一人、自分の歩幅で校門へ向かって静かに歩き出した。  ――この平穏な日常が、まさかあんな形で崩れ去るなんて、このときの俺は、まだ思いもしなかった。

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