遥 / 第171話

125話 みんなの思い

 俺――橙真は、左耳のイヤホンに触れた。  もう、これしかない。  そう思っていた。  目の前では、巨大な邪神体が咆哮している。  その周囲には、無数の眷属。  氷が大地を覆い、雷が空を走り、強烈な風が瓦礫を巻き上げていた。 「橙真先輩!」  咲の声が響く。 「どうした、咲?」 「私も戦います!」  咲が一歩前へ出る。 「駄目だ!」 「どうしてですか!」 「ここは危険すぎる!」 「でも、橙真先輩だって戦ってるじゃないですか!」  言い返されて、俺は言葉に詰まった。 「私だけ安全なところにいるなんて、できません!」  咲は拳を握りしめる。 「私にも、できることがあります!」  その目には、怯えがあった。  それでも、逃げようとはしていない。 「……分かった」  俺は頷いた。 「でも、無茶はするな」 「橙真先輩もですよ」 「え?」 「無理してるの、分かります」  咲が俺の顔を見る。 「顔色も悪そうですし……身体も、前に一緒に外に出たときよりも、ずっと辛そうです」  俺は何も答えられなかった。 「だから、約束してください」 「何を?」 「絶対に、一人で無茶しないって」  咲は真っ直ぐ俺を見る。 「私たちがいるんですから」  その言葉が、胸に刺さった。 「……うん」  俺は小さく頷いた。  けれど――だぶん、その約束を守れないことを、俺はもう分かっていた。 「来るぞ!」  風宮さんの声が響く。  巨大な邪神体がヒレを振り下ろした。  俺たちは一斉に散った。  蒼太が氷を放つ。  碧羽の矢が風を切る。  風宮さんの雷が地面を走る。  花江さんが光の壁を展開する。  俺も炎を広げ、迫ってくる眷属を押し返した。 「咲!」  俺が叫ぶ。 「今だ! あいつの身体を見てくれ」 「はい!」  咲は攻撃には向かわなかった。  巨大な邪神体を、じっと見つめている。  その瞳に、赤い光が映る。  一つ、二つ、三つ。  巨大な身体の奥に、いくつもの赤い光が浮かんでいた。 「見えました! あの中に、赤い光があります!」 「どこだ!」  蒼太が叫び返す。 「右ヒレと左ヒレの付け根です!」  咲の視線が動く。 「まだあります!」  赤い光が、次々と姿を現していく。 「それと頭の中にも……!」 「分かった!」  俺は炎を飛ばした。  巨大な邪神体の身体を炎が走る。  しかし――炎が核の位置に到達する前に、黒い鱗が噴き出した。  それによって、炎が消されてしまった。  無数の眷属が現れる。 「またかよ!」  蒼太が氷を放つ。  碧羽が矢を撃つ。  風宮さんが雷を走らせる。  花江さんが光の壁で仲間を守る。  それでも、敵は減らない。  倒しても、倒しても。  次の眷属が生まれる。 「くそっ……!」  蒼太が息を切らす。 「これじゃ、いくら倒しても、きりがない」 「みんな、下がって!」  俺は炎を広げた。  迫りくる眷属をまとめて押し返す。  けれど、身体の奥が痛い。  呼吸が苦しい。  力を使うたびに、身体そのものが少しずつ壊れていくような感覚がある。  俺は、左耳のイヤホンに触れた。 「……橙真先輩?」  咲が気づいた。  俺は答えない。  指先がイヤホンに触れる。 「まさか……」  花江さんの顔が青ざめた。 「橙真くん、やめてください!」  風宮さんもこっちを向いた。 「日向! それを外すな!」 「橙真!」  蒼太もこちらへ駆けてくる。 「前に外したとき、どうなったか忘れたのか!」 「分かってる」 「だったら、やめろ!」 「それは、無理かな」 「なんでだよ」  蒼太の声が震える。 「まだ俺たちがいるだろ!」  碧羽も叫ぶ。 「橙真、私たちまだ、戦えるよ!」  花江さんが俺を見る。 「橙真くん。お願いだから……一人でこれ以上背負わないで」  咲が俺の腕を掴んだ。 「橙真先輩!」 「……咲」 「絶対に駄目です!」  涙が浮かんでいる。 「前に外したときだって、橙真先輩は倒れたじゃないですか!」 「今回は違うさ」 「違いません!」  咲の声が震える。 「大丈夫な人の顔じゃありません!」  俺は何も言えなかった。 「私、嫌です……」  咲の手に力が入る。 「橙真先輩がいなくなるのは……絶対に嫌です」 「……」 「みんなを守りたいなら、橙真先輩自身も守ってください!」  その言葉に、胸が締め付けられた。  俺は周囲を見る。  蒼太。  碧羽。  風宮さん。  花江さん。  そして、咲。  全員が俺を止めようとしている。  誰も、俺に死んでほしいなんて思っていない。  分かっている。  分かっている。けれど――。  巨大な邪神体が咆哮する。  地面が大きく揺れた。  眷属がさらに生まれる。  このままでは、全員が危ない。 「……ごめん、咲。多分、これしかもう方法がないんだ」  俺は、咲の手をゆっくりと離した。 「橙真先輩! 待ってください!」  背後から声が飛ぶ。  俺は左耳のイヤホンに指をかけた。 「俺は、みんなを守りたい!」 「だったら!」  咲が叫ぶ。 「一緒に――!」 「だからこそ、俺がやる!」  イヤホンを引き抜いた。 「橙真先輩!」  ――カチッ。  小さな音がした。  その瞬間。  世界から、音が消えた。  風の音も、雷鳴も、邪神体の咆哮も、仲間たちの声も、咲の声も。  何も聞こえない。  静かだった。  あまりにも、静かだった。  そして――身体の奥で、何かが弾けた。  次の瞬間、赤い炎が、俺の身体から一気に噴き出した。  炎が地面を走る。  周囲の氷が一瞬で溶けていく。  風に触れた炎が、さらに大きく燃え上がる。  俺には、もう何も聞こえない。  ただ、目の前にいる巨大な邪神体だけが見えていた。  その身体の奥には――いくつもの赤い光が浮かんでいる。  俺は拳を握る。  身体が熱い。  痛い。  それでも――俺は、前へ進んだ。  みんなを守るために。  赤い炎を全身に纏いながら、俺は巨大な邪神体へ向かって走り出した。
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