遥 / 第32話

32話 新しい日常

 六月初め、水曜日の朝。  二年A組には、初夏らしい爽やかな朝の光が窓から差し込み、室内を照らしていた。  碧羽は自分の席に座り、静かに本を読んでいる。  そこへ、朝練を終えて汗を拭きながら蒼太が教室に入ってきた。  そのすぐ後に、俺――橙真も教室へ入る。  蒼太は自分の席につくと、大きく腕を伸ばして深呼吸をした。 「……今日からついに始まるんだな」  碧羽が読んでいた本を閉じ、カバンにしまう。 「そうだね……少しだけ緊張するかも」  蒼太が苦笑いを浮かべる。 「今日から特訓が始まるんだよなー。でも、まだ実感が湧かないんだよな」  俺は窓の外の校庭を眺めながら答えた。 「俺も……まだ実感が湧かないな」  碧羽がクスクスと小さく笑う。 「あの時、一応、特訓内容は教えてもらったけど、実際にやってみるまで、具体的な内容は分からないよね」  蒼太が肩をすくめる。 「今はとりあえず、特訓が厳しくないことを祈るだけだな!」 「たしかにそうだな」 「うん、そうだね」  三人の間に、小さな笑い声が漏れた。  その時、予鈴のチャイムが校内に鳴り響く。  同時に担任の先生が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。  続いて、いつものように授業が始まっていく。  それはどこにでもある、いつも通りの穏やかな学校の光景だった。  だが――今日の放課後から。  俺たち三人の新しい日常が始まろうとしていた。 ***  少し時間が経ち、昼休み。  賑わう食堂で、俺たち三人はいつものテーブル席についていた。  蒼太の前にはボリューム満点の大盛り定食が、碧羽の前には温かいうどんが、そして俺の前には普通の量の定食が、それぞれ並べられている。  蒼太がふと食堂の入口へ視線を向けた。  そこに、手作りの弁当を持った咲の姿が見えた。  蒼太は大きく手を振る。 「咲――! こっちこっち!」  気づいた咲が、パッと表情を明るくしてこちらへ歩いてくる。 「蒼太先輩、ありがとうございます」  碧羽が自分の隣の椅子を引いた。 「咲、こっち座って」 「はい、碧羽先輩。お邪魔します」  咲は小さく頭を下げて、行儀よく腰掛けた。  蒼太が俺のトレーを覗き込んで、ニシシと笑う。 「橙真は今日もまた定食かよ」 「そういう蒼太こそ、また大盛りか」  碧羽が少しだけ呆れたように言う。 「二人とも、メニュー自体はそんなに変わらないよね」  咲も口元に手を当てて楽しそうに笑った。 「確かに、変わっているのってご飯の量だけですよね」  俺は苦笑いを浮かべる。 「まあ、確かに言われてみればそうだな」  蒼太も豪快に笑った。 「なんだよ、俺たち量しか違わないのか!」  テーブルに四人の楽しげな笑い声が響いた。  それから、午前の授業のことや蒼太と碧羽の部活動のこと、もうすぐやってくるテストの話などをした。  いつもと変わらない、昼休みの時間。  やがて食事を終え、俺は静かに席を立った。 「咲、この後、少し時間をもらえるか?」  咲は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに頷く。 「はい、大丈夫です」  俺は二人に向き直った。 「蒼太、碧羽」 「分かってるぜ!」 「五時間目には戻ってきてね」 ***  校舎の裏手には、初夏の心地よい昼下がりの風が静かに吹き抜けていた。  咲が俺をまっすぐに見つめる。 「橙真先輩、話って、なんですか?」  俺は少し言葉を選び、思案してから口を開いた。 「咲はさ、気にしていないって言ってくれたけど……日曜日、怪物を倒した後、俺たちは防災対策課に仮所属することになったんだ」  咲の瞳が大きく揺れた。 「防災対策課に仮所属ですか?」 「うん」  咲は少しだけ視線を落とし、悲しそうに呟いた。 「……それって、すごく……危険なことなんですよね」  俺は静かに頷いた。 「そうだと思う。でも、俺たちが今までやってきたことと、本質的には、変わらないさ」  しばらくの間、静かな沈黙が流れた。  初夏の風が、二人の間を吹き抜けていく。  やがて、咲がゆっくりと顔を上げた。 「……心配です。でも、橙真先輩たちが決めたことなら、私は全力で応援します」 「いいのか?」 「はい」  咲は小さく笑った。 「その代わりに、無茶や無理だけは絶対にしないでくださいね」  その言葉に、俺の胸の奥が少しだけ温かくなった。  俺も固さがほぐれ、少しだけ笑う。 「ああ。できる限り、な」  昼休みの終了を告げるチャイムが、学校中に響き渡った。  咲は少し名残惜しそうに、それでも笑顔を浮かべる。 「それじゃあ、次に会うのはまた明日ですね」  俺は軽く手を上げた。 「そうだな。じゃあ、また明日」  俺たちはそれぞれ、自分の教室がある校舎へと戻っていった。 ***  そして――放課後。  午後四時を過ぎ、終業のチャイムが校内に鳴り響いた。  蒼太がガタッと勢いよく立ち上がる。 「……ついに、だな」  碧羽も静かにカバンを手にした。 「うん。少し緊張するね」  俺も席を立ち、二人を見つめた。  三人は並んで教室を出る。  部活に向かう生徒たちで賑わう廊下を通り、階段を一段ずつ下りていく。  昇降口へ着くと、六月初めらしい青空から降り注ぐ午後の日差しが、俺たちの足元を照らしていた。  まだ日は高く、外は汗ばむような温かさに包まれている。  蒼太が照れくさそうに笑う。 「なんか不思議な感じだな。この時間に校門出るの」  碧羽も穏やかに微笑んだ。 「たしかに、そうだね」  俺は校門の先に広がる、明るい街並みを見据えた。 「よし、行くか」  三人は慣れ親しんだ学校を後にした。  向かう先は、あの建物――防災対策課。  覚醒者としての俺たちの新しい日常が、静かに始まろうとしていた。

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