Tihoo / 第1話

(短編)

風が、五百年前と変わらぬ冷たさで私の耳を撫でていく。 小高い丘の上に立つと、眼下には見渡す限りの巨大な都市が広がっていた。黒々とした鉄の城壁、空に向かって無遠慮に伸びる何十本もの煙突、そこから吐き出される灰色の煙。夜になれば、星空をかき消すほどの魔導燈の光が街全体を毒々しく彩る。 私がこの丘に結界を張り、たった一人で留まり始めた頃、そこはまだ木組みの家々が寄り添うように建つだけの、素朴で静かな王都だった。馬車の車輪が石畳を叩く音や、朝露に濡れた麦畑の匂いが風に乗って届くような場所だったのだ。 「……随分と、醜く太ったものだ」 誰に聞かせるでもなく独りごちた声は、酷くひび割れて、カサカサに乾燥していた。声帯を震わせたのは何年、いや、何十年ぶりだろうか。 エルフである私、フリージアにとって、五百年という時間は決して「永遠」と呼べるほどの長さではない。三千年以上を生きるハイエルフの生涯からすれば、それは季節が数回巡る程度の、ほんの一時の微睡みのようなものだ。しかし、足元で蠢く人間たちの歴史において、五百年はあまりにも多くのものを変えすぎた。 昨日、ついに私の張った「認識阻害と不可侵の結界」のすぐ外側まで、王都の都市開発を担う測量士たちが足を踏み入れた。彼らの言葉を風の魔法で拾い聞きしたところ、この丘を丸ごと切り崩し、新しい魔導列車の巨大なターミナル駅を建設する計画があるらしい。 結界を強化し、彼らを追い払うことは容易い。私の魔力をもってすれば、この丘を不可視の絶対領域に作り変えることも、彼らの記憶を操作して丘の存在自体を永遠に忘れさせることもできる。だが、ふと、ひどく深く、泥のような疲労感に見舞われたのだ。 守るべきものは、とうの昔に土に還っている。 私がこの五百年間、雨の日も風の日も、凍えるような雪の夜も守り続けてきたのは、ただの「執着」という名の抜け殻だった。だから私は今日、この墓をすべて更地にすると決めた。 ここは、かつて共に魔王を討伐した勇者アルトと、その血を引く一族が眠る墓地だ。 エルフの「墓じまい」の儀式は、ひどく静かで、残酷なまでに美しい。 土に還った遺骨に残るわずかな魔力の残滓と、その土地に染み込んだ生前の記憶の欠片を抽出し、一輪の「記憶の結晶花」へと変換する。それは、死者を完全にこの物質世界から切り離し、痕跡を消し去る行為でもある。人間たちは墓という形で石を残したがるが、私たちエルフはすべてを星の巡りに還すのだ。 私は丘の入り口付近にある、一番新しい墓標の前に立った。 杖の石突きで地面を軽く叩き、無詠唱で土壌操作の魔法を展開する。音もなく土が波打ち、石碑が脇へと避けられ、中から朽ちかけた木棺が姿を現した。 「……アルトの、玄孫の息子だったか」 顔もよく覚えていない。私がこの丘に引きこもってから四百年ほど経った頃に生まれ、一度か二度、親に連れられてこの丘に登ってきた赤ん坊だ。あっという間に成長し、顔に皺を刻み、あっという間に老いて死んだ。私の指先から放たれた淡い緑色の光が棺を包み込むと、遺骨は細かな光の粒子となって立ち昇り、宙で固まって親指ほどの小さな青い結晶花へと姿を変えた。私はそれを受け取り、腰に下げた革袋に放り込む。 ただ、淡々と作業を続けた。 墓を開け、魔力を抽出し、結晶花に変える。 一つ、また一つと墓を片付けていくうちに、次第に時代は遡り、私が直接関わり、言葉を交わした者たちの墓へと近づいていく。私の心は凪いだ湖面のように静かだった。いや、そうなるように、五百年間かけて感情を殺す訓練をしてきたのだ。 「アルトのひ孫……たしか、商会を立ち上げて成功した男だった」 立派な大理石の墓。土を退け、遺骨を光の粒子に変える。 光る黄色の結晶花を握りしめると、彼が自慢げに金貨の詰まった袋を見せびらかしに来た日の記憶が脳裏にフラッシュバックした。『フリージアさん! 見てくれよ、親父の代の借金を全部返して、おまけに王都で一番の店を持てたんだ!』。鼻息を荒くして笑う顔は、どこかアルトの面影があった。彼はその後、商敵の裏切りに遭い、失意の中で病に倒れ、この丘に運ばれてきた。 「アルトの孫娘……」 小さな、可愛らしい丸みを帯びた墓石。土を退けると、色褪せてボロボロになった布切れが土に混じって見えた。 彼女はよく、私の長い金糸の髪を梳いては、不格好な花の冠を編んで乗せてくれた。『フリージアおばあちゃん、ずっといっしょにいようね!』。あの無邪気で高めの声が、鼓膜の奥をチリチリと焼く。彼女は流行り病にかかり、わずか十歳でこの世を去った。泣き叫ぶ両親の傍らで、私はただ静かに彼女の冷たくなった頬を撫でた。「人間は脆い。だから関わるべきではないのだ」と、自分に言い聞かせるように。手の中に残ったのは、淡い桃色の結晶花だった。 「アルトの息子……」 一際大きな墓石。剣の才能は欠片もなかったが、不器用な笑い方は父親そっくりだった男。彼は「勇者の息子」という重圧に押し潰されそうになりながらも、必死に剣を振り続け、泥臭く足掻き、結局は辺境の魔物討伐であっけなく命を落とした。 『フリージアさん、親父のこと、よろしくお願いします。俺は、親父みたいにはなれなかった……ごめんなさい』 最後に出陣する前夜、彼が私に向けた自嘲気味な笑顔を思い出し、胸の奥が微かにざわめいた。私は彼から抽出した赤い結晶花を、少しだけ強く握りしめ、革袋に納めた。 人間の命は、瞬きのようなものだ。 花が咲き、散るよりも早い。彼らの人生に寄り添うことは、絶え間ない喪失を経験することと同義だった。火の粉のように一瞬で燃え上がり、消えていく彼らに、いちいち心を痛めていては、三千年を生きるエルフの精神はあっという間に崩壊してしまう。だから私は、彼らの死を看取るたびに、心を分厚い氷で覆い隠す術を覚えた。悲しむことなどない。ただの自然現象だ。命が巡っただけだ。そう、呪文のように自分に言い聞かせ続けてきた。 気がつけば、太陽はとうの昔に沈み、王都の毒々しい光を跳ね返すように、冷ややかな月明かりが丘を照らしていた。 私の革袋には、数十個の結晶花が擦れ合い、チリン、チリンと硬く冷たい音を立てている。 そして残るは、丘の一番高い場所にぽつんと建つ、ひどく古びた、しかし誰の墓よりも手入れが行き届いている墓石だけとなった。 勇者アルトの墓。 彼が、穏やかに笑いながら寿命でこの世を去ってから、五百年。 私が長い生涯の中で、ただ一人、魂の底から愛した人間。 墓石の前に立った瞬間、私の足が縫い止められたように動かなくなった。 右手で杖を握り直そうとしたが、指先が微かに震え、杖がカツンと乾いた音を立てて墓石にぶつかった。 おかしい。私は合理的で、冷酷なまでに冷静なハイエルフのはずだ。人間の死など、自然の摂理の一つに過ぎない。この五百年間、私は彼のために一度たりとも涙を流したことはない。彼が息を引き取ったその瞬間でさえ、私はただ静かに彼の手を握り、「おやすみ、アルト」と告げただけだった。泣き喚く子供たちを尻目に、私は完璧な「長寿の賢者」として振る舞ったのだ。 「ただの土塊だ。……終わらせるんだ、フリージア」 自分自身を叱咤し、震える手を無理やり前に突き出す。 魔力を流し込むと、五百年の風雪に耐え抜いた墓石が、重々しい音を立てて脇へとスライドした。 土の匂いがふわりと舞い上がる。この五百年前の土は、他の墓よりも深く、硬く締まっていた。結界によって風雨から守られていたとはいえ、彼を包んでいたはずの棺はとうの昔に腐葉土と同化し、骨すらも脆く崩れ去っているはずだった。 土をかき分けると、真っ白な骨の一部が見えた。 その瞬間、私の心臓が痛いほど脈打ち、肺が空気を拒絶したように呼吸が浅くなった。 ……その時だった。 頭蓋骨の傍らに、周囲の土とは明らかに異質な、まったく腐敗していない小さな木箱が埋まっているのに気づいた。 「なんだ、これは……?」 木箱には、幾重にも複雑な術式が刻み込まれていた。エルフの洗練された美しい魔法陣ではない。力任せで、不格好で、緻密さに欠ける。しかし、呆れるほどに膨大で、底抜けに温かい魔力を注ぎ込んで無理やり構築された、防腐と時間停止の魔法。 この雑で、馬鹿げた魔力の波長は、間違いなくアルトのものだった。 彼は死の直前、私に内緒でこんなものを自身の傍らに埋葬させていたのか。 震える両手で木箱を拾い上げ、表面の術式にそっと私の魔力を流し込む。 『解錠(アンロック)』 カチリ、と小さな音がして、五百年の封印が解け、木箱の蓋が開いた。 中に入っていたのは、一枚の古びた羊皮紙だった。 五百年の時を完全に止めたまま、折り目すら真新しいその手紙を、私はひび割れた指先でそっと開いた。 そこに書かれていたのは、見間違うはずもない、力強くも癖のある、アルトの汚い字だった。 『フリージアへ。 これを見つけているということは、君はついに俺たちの墓を片付ける決心をしたんだな。 よくやった、フリージア。偉いぞ』 一行目を読んだ瞬間、頭の中でアルトのあの朗らかな、少しからかうような声が、鮮明に再生された。心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。 『俺にはわかる。不器用で、意地っ張りで、本当は誰よりも寂しがり屋の君のことだ。 俺が死んだ後、君はきっと誰にも心を開かず、ずっとこの丘に縛り付けられてしまうんじゃないかと心配だった。 人間の俺にとっての五百年と、エルフの君にとっての五百年は違う。君にとっては一呼吸みたいなものかもしれない。でも、俺にとっては永遠と同じだ。』 息が、詰まった。 五百年前の彼に、すべてを見透かされていた。私がこの丘から一歩も動けなくなる呪いにかかることを、彼は死の淵で悟っていたのだ。 『君は強い魔法使いだが、心はガラスみたいに脆い。 俺の子供や孫たちが死んでいくのを、君はどんな顔で見送ったんだろうな。 泣きもしないで、冷たいエルフのふりをして、全部一人で抱え込んでしまったんじゃないか?』 手紙を持つ両手が激しく震え、羊皮紙がカサカサと鳴った。 違う、私は冷たいエルフだ。何も感じていない。そう思い込もうとしたのに、視界がぐにゃりと歪み始めた。 『墓なんて、ただの石っころだ。俺の魂はもうそこにはない。 だから、どうかもう前を向いてくれ。君の長く美しい時間を、死んだ人間を守るためだけに使わないでくれ。 君の途方もない長さの人生の中で、ほんの一瞬でも、俺たちと一緒に生きてくれてありがとう。 俺は、君と出会えて、君と一緒に笑えて、最高に幸せな人生だった。 さあ、広い世界へ行きなさい。 愛してるよ、俺の可愛いフリージア』 最後の文字をなぞった瞬間、私の中で五百年間、分厚い氷に閉ざされ、張り詰めていた何かが、けたたましい音を立てて粉々に砕け散った。 「……あ、あぁ……」 喉の奥から、自分でも聞いたことのないような、獣の喘ぎ声のような音が漏れた。 熱い滴が次々と手紙の上にポタポタと落ちていく。それが自分の目から流れている涙だと気づくのに、数秒の時間を要した。 「ばか……っ、馬鹿野郎……! なにが、偉いぞ、よ……っ!」 私は手紙を胸に掻き抱き、五百年前の土の上に無様に這いつくばった。 枯れ果てたと思っていた涙腺から、堰を切ったようにとめどなく涙が溢れ出し、嗚咽が止まらなくなった。 「わかって、たなら……っ! 置いていかないでよ……っ! 私だけを残して、勝手に死なないでよ……っ!」 誰もいない夜の丘で、私は声を上げて泣き叫んだ。 五百年間、見ないふりをしてきた途方もない孤独。 平然を装ってやり過ごしてきた、愛する者たちを次々と喪う、身を引き裂かれるような痛み。 それらすべてが、彼からのたった一枚の手紙によって決壊したのだ。 私は、ずっと泣きたかった。 アルトが死んだあの日、本当は彼にしがみついて、行かないでくれと子供のように泣き喚きたかった。 彼と同じように老いて、彼と同じように死んでいけない自分の呪われた運命を憎みたかった。 強くて冷淡なエルフの魔法使いを演じ続けることでしか、壊れてしまいそうな自分を保つことができなかったのだ。 「アルト……アルト……っ! 会いたい、会いたいよ……っ!」 土を掻き毟り、名前を呼んでも、応える声はない。ただ冷たい夜風が丘を吹き抜けるだけだ。 しかし、胸に強く抱きしめた手紙からは、彼の手のひらのような温もりが確かに伝わってくる気がした。彼はずっと、この土の下から私を見守り、私が自分の足で歩き出すのを待っていてくれたのだ。 私は泥に塗れるのも構わず、ただひたすらに、五百年分の涙を流し続けた。 嗚咽が枯れ、涙が涸れ果てるまで、子供のように泣き続けた。 やがて、冷たかった夜風が生温かくなり、東の空が白み始めた。 夜の帳が引き剥がされ、真新しい朝の光が、更地となった丘を照らし出す。 私はゆっくりと、よろめきながら立ち上がった。 目は酷く泣き腫らして痛く、声は完全に枯れ果てていた。全身は泥だらけで、伝説のハイエルフとは呼べないほど無様な姿だった。 しかし、不思議と心の中を満たしていた重く冷たい泥のような執着は、綺麗に消え去っていた。 まるで、長い長い憑き物が落ちたように、体が羽根のように軽い。 腰の革袋から、一族全員の「記憶の結晶花」を取り出す。 色とりどりの数十の結晶が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。 私はそれらを両手で包み込み、そして最後に、アルトの骨から抽出した眩いほどに純白な結晶花を添えた。 深く深呼吸をして、天地の魔力を一身に集め、極大の魔力を練り上げる。 「……永遠の別れだ。愛しき我が家族たち。そして、愛する人」 両手の中で強烈な光が瞬き、すべての結晶花が一つに溶け合う。 光が収まると、そこには虹色に輝く、美しい一粒の「種」が残されていた。彼らの生きた証、彼らの記憶が凝縮された、温かい命の結晶。 私はその種を、相棒である古い杖の先端、魔石を嵌める窪みへとカチリとはめ込んだ。 杖を振ると、種は脈打つように淡い光を放ち、まるで心臓の鼓動のように温かな魔力を私の手に伝えてきた。 「まったく……どこまでもお見通しとは、死んでなお、本当に腹の立つ男だ」 五百年ぶりに、私の口元に、無理して作ったものではない自然な笑みが浮かんだ。 丘を見渡す。そこにはもう、墓石も、私が守り続けた過去の縛りもない。 ただの風通しの良い、何もない土の丘があるだけだった。 「さて、と」 私は、眼下に広がる巨大な都市へと目を向けた。 見たこともない魔導機械が動き、けたたましい音を立て、私の知らない新しい人間たちが生きる騒がしい世界。 五百年前とはすっかり変わってしまったけれど、彼が愛し、守り抜いた、愛おしい世界だ。 「これからは、お前たちと一緒に、この新しい世界を見て回ることにするよ」 杖の先端で光る種にそう語りかけ、私は踵を返した。 もう、この丘を振り返ることはない。 朝の清々しい風が、私の泥に汚れた長い金髪を揺らす。 一人きりで、しかし決して孤独ではない確かな足取りで、私は五百年ぶりに、止まっていた時間を歩み始めた。

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