ふみの世界樹 / 第68話

第五十六話 白百合姫

 皇國歴1002年、覇竜11年、10月14日、天馬曜日。  リハーサル当日の朝、学院はいつもよりも少しだけ白く輝いて見えました。  廊下、大理石の床は丁寧に磨かれております。窓も、手すりも、講堂へ続く古びた扉も、いつもより明るい。玄関の大花瓶には新しい花が挿されていて、朝の空気の中に、少しだけよそ行きの匂いが混じっておりました。  皇帝陛下が御臨席あそばされる。  その一言で、学院はここまで変わるのだと、わたくしは感慨に耽りました。けれど、驚いてばかりもいられません。今日はリハーサルの日でございます。  本番ではない。けれど、本番ではないからといって気を抜いてよい日でもありません。リハーサルで成功しない者が、本番でも成功するはずがありませんもの。  それに、わたくしは今日、白百合姫として舞台に立ちますの。  そう思うと、背筋は自然と伸びてしまいます。 「イネヴェアさん、袖、少し見てもいいですか?」  ミコトさんが、わたくしの横から声をかけてきました。  手には針箱ではなく、布を留めるための小さな留め具がありました。先日、衣装の手伝いで針を指に刺したらしく、今日は少しだけ慎重な顔をしておりました。 「ええ。お願いしますわ」  わたくしは両腕を少し広げて差し上げます。  白百合姫の衣装は、思っていたよりも重いのです。袖も、裾も、普段着とは違います。けれど、それを重いと感じさせてはいけません。姫とは、重いものを軽やかに見せるものだと思います。  少なくとも、わたくしはそう演じるつもりでした。 「袖は大丈夫そうです。裾も、昨日より歩きやすいと思います」 「そう。ありがとう」 「でも、階段のところだけは気をつけてくださいね。少し引っかかりそうなので」 「承知しましたわ」  ミコトさんは、助監督としてずっと動き回っておりました。衣装を見て、大道具を確認して、進行表を持って、誰かに呼ばれるたびに走っていく。劇に出る役者ではないのに、誰よりも忙しそうでしたわ。  けれど、不思議と嫌そうではない。大変そうなのに、逃げませんの。そのことに、わたくしは少しだけ感心しておりました。 「先生たちが来る前に、立ち位置だけ確認しておくのよぅ」  講堂の舞台下から、オーレリアさんの声がしました。手帳と進行表を抱えたオーレリアさんは、いつもよりも少し目つきが鋭い気がしましたわ。監督という役目が、よく似合っておりますの。  今日の|陽級《ソルネ・クラス》一年のリハーサルは、午前に変更されました。本来なら、もう少し後の時間だったはずでしたわ。けれど、|月級《モント・クラス》三年の都合で、リハーサル時間が入れ替わったらしいのです。  マギ様が、もっと個人練習をしたいからだと聞きました。皇帝陛下が御観覧される舞台で、皇家の方が最後まで詰めたいと申されるのでしたら、こちらが譲るのは当然の成り行きでございましょう。  それに、時間が変わったくらいで取り乱すようでは、姫役など務まりません。わたくしは、自分にそう言い聞かせましたの。  まだアルフォンス先生たちは来ておりません。正式なリハーサルの開始前に、わたくし達は簡単な立ち位置と照明の確認だけを先に始めることに致しました。  観客席側の舞台下には、ヴァンさん、ウォールさん、いつもやかましいローティがいました。三人は自分達の出番を待ちながら、少し離れた場所から舞台を見ておりました。いいえ、それは舞台の上に立つ可憐で美しい白百合姫、つまり、イネヴェア・リンドホルムを見ておりましたの。  その一方で、ミコトさんは舞台袖におりました。進行表と小道具を確認しながら、時々こちらへと視線を投げかけておりました。 「では、白百合姫の入場から確認するのよぅ」  オーレリアさんの声で、わたくしは舞台袖に立ちましたわ。  お静かに息を整える。  お淑やかに歩く。  鏡の前で何度も練習した歩き方ですわ。背筋を伸ばし、視線を落としすぎず、けれど高く上げすぎない絶妙の加減を維持しますの。袖を引きずらないように、裾を蹴らないように、姫として舞台の中央へ進みましてよ。  講堂は、いつもの教室とはまったく違いました。  声が響く。足音も響く。照明が当たると、立っているだけで見られていることが分かります。  それが少し怖くて、少し気持ちよかったと申し上げれば、不謹慎かもしれませんわね。でも今は、白百合姫が一人で舞台中央へ進む場面。わたくしの独壇場ですわ。  ここは、継母妃に追い詰められる前。黒騎士が現れる前。白百合姫が、まだ一人で立っていなければならない孤独な場面。  だから、ヴァンさんの黒騎士は舞台上にはいませんの。彼の出番は、もう少し後になります。わたくしは一人で舞台の中央へ進み、決められた位置で足を止めましたわ。 「そこで一度止まって、照明を合わせるのよぅ」 「はい」  舞台袖で、アディが譜面と照明の合図を書き留めた紙を見比べておりました。わたくしが最も美しく華やかに、そして印象的に見えるよう最善を尽くしてくれました。 「音、入ります」  低い音が、講堂の端から入りました。それに合わせて、照明が少し変わります。白い光がわたくしの上へ落ちて、舞台の床に淡い影が伸びてゆきます。音と光が合うと、場面が変わります。アディが悩んでいた理由が、少し分かった気がしましたわ。  わたくしはそこで、白百合姫として顔を上げます。恐ろしくても、逃げたくても、それでも自分で、自分の足と心で、きちんと立っている人。白百合姫とは、そういう人なのだと思います。  そう見せたい。  そう見せなければならない。その時でした。  きし、と。  何かが鳴った気がしました。最初は、床の音かと思いました。けれど違います。  上でした。  舞台の上ではなく、もっと高いところ。わたくしは台詞を言いかけたまま、ほんの少しだけ顔を上げました。  照明が、揺れていました。ほんの少し。けれど、確かに揺れておりました。  おかしい。  そう思った瞬間、舞台袖から声が飛んできました。ミコトさんの声でしたわ。 「イネヴェアさん!」  次の瞬間、光が落ちて来ました。いいえ、光だけではありませんでした。咄嗟のことです。長い詠唱など、している時間はありません。逃げるには時すでに遅く、避けるには近すぎました。でもこの時、世界の全てが、ゆっくりと動いているように感じましてよ。これはきっと、極限状態になったから起きている現象ですわね。ともかく大丈夫。  防御魔法は、展開速度が命ですわ。  わたくしは左手を跳ね上げ、ただ一語だけを叩きつけましてよ。ただし、タイミングは大切ですわ。ギリギリまで引き付けて、発動直後の最も|力場《クラフトフェルト》の反発力が強い瞬間を当てるようにしますの。焦ってはだめ。いかなる時も、淑女は落ち着いて……。 「|魔力盾《マギー・シルト》!」  下腹部の底から魔力が走ります。胸へ。肩へ。腕へ。そして指先へ。わたくしの頭上で、薄い光の膜が、弾けるように広がって、盾の形を成しますわ。  視界の端では、ミコトさんが舞台袖から飛び出してくるのが見えました。淑女たるもの、そんなに取り乱してはなりませんわ。そもそも、心配など無用。  わたくしの華麗な術式魔法であれば、この程度の落下物など──。  光と盾がぶつかった。  衝撃。轟音。重量。圧力。  これ、わたくしの予想を超えましてよ。流石に立つのも難しく、わたくしは床へと倒れ込んでしまいました。それでも何とか直撃は避けましたわ。  落ちて来たものは、ただの灯りではありません。金具と硝子と枠を抱えた、舞台の上から吊られていたもの、照明器具が取り付けられた|吊り架《バトン》でしたわ。まともに受ければ、頭も、首も、背骨も、無事では済まなかったでしょう。  わたくしでなければ、死んでいましたわ。  流石はわたくし、イネヴェア・リンドホルム、七聖学院で一番の淑女ですわ。  だけれど、このままでは、負けて押し潰されてしまいます。わたくしは咄嗟に、盾の角度を斜めにずらして、吊り架を横へと逸らしました。  成功。  そう思ったのも束の間でした。わたくしは次の瞬間、脚に強烈な痛みを覚えました。声にならない息が漏れました。 「っ……!」  正直に申し上げますと、死ぬかと思いました。こんなに痛い経験は、生まれて初めてのことですから、泣き喚いても許されると思いますわ。ですが、わたくしは声一つ上げませんでした。みっともない真似など、できませんことよ。  痛い。  それから、血の匂いがしましたわ。 「イネヴェア!」  オーレリアさんの声が聞こえました。いつもの語尾が消えていましたわ。  ミコトさんは、こちらへ向かおうとして、転んでしまっていましたわ。それでも、ミコトさんの手は、わたくしの方へと伸びていました。  痛い。  わたくしは、自分の脚を見てしまいました。衣装の白い布が、赤く染まってゆきました。思っていたよりも、ずっと早く。思っていたよりも、ずっと多く。これは、多分ちょっと、もしかしても、もしかしなくても、かなり危険な状況ではなくって?  その赤を見た瞬間、オーレリアさんが止まったのも分かりました。監督として、誰よりも動かなければならない人が、血を見て、固まって、何も言えなくなっていましたわ。  わたくしは、こんな非常事態であるにも関わらず、せっかくハリエットさんが作って下さった衣装なのですから、血で汚れてしまっては大変、後で身滓清掃《ライプケーア》で綺麗にしなくては、なんてことを、ただぼんやりと考えておりました。 「オーレリア!」  その時、ハリスさんの声が、舞台の上に響きましたわ。わたくしの朦朧としてゆく意識の中でも、その声は、はっきりと聞こえました。 「しっかりしろ。今すぐ機材の撤去。誰か先生を呼びに走らせて、そして、先ず君から落ち着け」  ハリスさんの言うことは、至極ごもっともでしたわ。 「大丈夫、イネヴェアは死んじゃいない。見事な防御術だった」  その言葉で、わたくしは、自分がまだ生きているのだと、少し安心しましたわ。ちゃんと、わたくしの防御術を賞賛している点も、評価に値しましてよ。 「……分かったのよぅ」  オーレリアさんが息を吸う音が聞こえました。その声は震えていましたわ。けれど、次の瞬間には監督の声に戻っておりました。彼女もまた、評価に値しましてよ。 「ヴァンさん、ローティさん、ウォールさん! 落ちた機材をどけるのよぅ! ただし、無理に引きずらないで、イネヴェアの脚に触れないように!」  観客席側から、三人が駆け上がってくる足音がしました。ヴァンさんが一番早かった。けれど、ローティも、ほとんど転びそうな勢いで舞台へ上がって来ましたわ。 「イネヴェア!」  ローティの声は、いつもみたいに大きかったわ。でも、いつもの軽さはなかった。顔色が悪い。目が見開かれている。落ちた照明器具へ手をかける指が、ほんの少し震えていましたわ。こんな必死なローティ、初めて見ましたわ。 「そこを持て」  ヴァンさんが短く言いましたわ。 「分かった!」 「こっちは僕が支える」  ウォールさんも、顔を青くしながら器具の端へ回ったようですわ。三人が力を合わせて、重い照明器具を少しずつ持ち上げていくのが、感じられましたわ。金具が床を擦る音も聞こえました。ローティは何度も息を詰めながら、それでも手を離しませんでしたわ。 「ハリエット、先生を呼んで! つばめ先生、アルフォンス先生、誰でもいいから早く!」 「はい!」 「アディさん、音と照明を止めるのよぅ! 他の機材には触らないで。落ちたところは後で確認するのよぅ!」 「は、はい! 分かりました」 「舞台の上にいる人は落下地点から下がるのよぅ! 入口と通路を空けて! 先生が来たらすぐ通せるようにして!」  オーレリアさんの声が、次々に飛ぶのが聞こえました。なんて頼もしいこと。ひとつずつ、現場が形を取り戻していくのが分かります。 「ミコトも、今は動かないで! あなたも転んだのよぅ! 眼鏡は後で探すのよぅ!」  ミコトさんは、舞台の床に座り込んだまま、泣いておりました。大声で泣いているわけではない。けれど、涙が止まっていなかった。眼鏡はなく、髪は乱れ、手のひらも擦りむいておりました。それでも、ミコトさんは、わたくしを見ておりました。  泣きながら、ずっと。  やがて、エイデン神父様と、つばめ先生が駆け込んで来ましたわ。 「何があった!」  エイデン神父様の声が講堂に響きました。 「照明が落ちました! イネヴェアが負傷しています!」  オーレリアさんが答え、つばめ先生が直ぐにわたくしのそばに膝をつきました。いつもの柔らかい顔ではなく、目が、とても真剣でしたわ。 「動かさないでください。脚を見ます」  先生の手がわたくしの脚へ触れました。  痛い。すごく痛い。  痛みが跳ねた。息が詰まる。つばめ先生の顔が、ほんの少し強張っておりました。 「出血が多いですね」  エイデン神父様が落ちた機材と、わたくしの脚を見て、低い声で言うのが聞こえました。 「このままでは失血死します。すぐに処置を」 「もう圧迫してる。けど、これだけじゃ足りない!」  つばめ先生の声にも焦りがありましたわ。その焦りが、とても怖かった。先生たちは、慌てる人ではないと思っていましたわ。それなのに、その二人が焦っている。  それだけで、自分の怪我がただの怪我ではないのだと分かりました。  わたくし、このまま死んでしまうのかしら。  ミコトさんの泣く声が、小さく聞こえて来ました。 「わ、わたし……」  ミコトさんが何か言おうとして、言葉になっておりませんでした。ただ、泣いておりました。ずっと泣いておりました。自分が転んだことも、手を擦りむいたことも、眼鏡がないことも忘れたみたいに、わたくしだけを見て泣いておりました。  痛い。  意識が途切れそうなその時、アルフォンス先生の声が聞こえてきましたわ。 「状況は?」 「出血が多い。脚の損傷が深い。このままでは危険だ」  エイデン神父様が即座に答えました。わたくしは、目を閉じ、後はお任せ致しました。 「|中傷治癒《キュア・ミットラー》を使います」  静かな声でしたわ。けれど、その声が聞こえた瞬間、周りの空気が少しだけ変わったような気がしました。  温かい。  痛みが、完全に消えたわけではないけれど、焼けるようだった熱が少しずつ遠のいていきました。血の流れる感覚が弱くなる。ばらばらになりかけていたものが、どうにか形を取り戻していくような、不思議な感覚がありましたわ。  わたくしは、深く息を吸いました。ようやく、少しだけ深く。 「……止まりました」  つばめ先生の声には、安堵が混じっておりました。 「命に別状は?」  オーレリアさんの声。 「ありません」  アルフォンス先生の声と、皆様が安堵する声と気配。 「ただし、これで全て治ったわけではありません」  わたくしが目を開くと、アルフォンス先生と目が合いました。 「イネヴェアさん。聞こえますか」 「……はい」 「あなたの防御術がなければ、即死していました。よく防ぎました」  褒められた。けれど、嬉しさは湧いてきませんでしたわ。わたくしの視線は、自分の脚に落ちておりました。 「先生」  わたくしの声は、かすれておりました。 「本番は」  誰も、すぐには答えてくれませんでしたわ。その沈黙だけで、答えの半分は分かってしまったようなものです。アルフォンス先生は、言葉を選ぶように少しだけ間を置いてくれました。 「今使った治癒魔法では、出血を止め、命を繋ぐことはできます。ですが、損傷の深さを考えると、骨と脚を、明日の舞台に立てる状態まで戻すには至りません」  折れた骨。骨折。  ああ、やっぱり折れていましたのね。  「この傷も治せる|重傷治癒《キュア・シュヴェラー》、あれを使える高位の神聖術士を、今すぐ学院で用意することはできません。つばめ先生も、エイデン神父も、魔法は使えませんし、その高位の呪文は、私にも発動は無理です。恐らくラヴェニカまで専門家を呼びに行かなければ……」  つばめ先生が、悔しそうに唇を引き結んでいるのが見えました。 「連絡を取り、|都市間転移陣《タウン・ペレホート・ヴラター》を使い、金を積んで割り込みをかければ、呼べる可能性はあります」  アルフォンス先生は続けました。でも、皆まで言う必要はありません。本番は明日です。手配が間に合う保証はありません。仮に間に合ったとしても、非常に高額になりますわ。確かに、金を積めば、方法はあるのかもしれない。家に頼めば、無理を通せるのかもしれない。  でもそれは、わたくし一人の舞台のために、お父様とお母様に迷惑をかけること。家へ大金を使わせるということですわ。また、他の誰かの治療の順番を押しのけるということですわ。  そんなことは、できない。  したくない。  してはいけない。  白百合姫でありたい。  そのわたくしが、自分自身のためにそんな真似をしてよいはずがない。  わたくしは、白百合姫だ。  今日まで、そう思って歩いてきましたわ。袖の長さを気にして、背筋を伸ばして、クリスの用意してくれた台詞を、何度も確かめてきました。鏡の前では、幾度も歩いた。ミコトさんに何回も読み合わせを手伝ってもらった。ハリエットさんに裾を直してもらった。オーレリアさんに立ち位置を確認してもらった。わたくしは、白百合姫になるつもりだった。  だけど、本番には、間に合わない。  嫌ですわ。  声に出せば、きっと泣いてしまう。だから、譲りたくない。譲りたくなどない。わたくしの役だ。これは、わたくしが選ばれて、わたくしが練習して、わたくしが立つはずだった舞台ですわ。  悔しい。  悔しい。  悔しくて、たまらない。  けれど、わたくしが立てないのなら、舞台は止まってしまいます。わたくし一人の悔しさで、皆の準備を無駄にしていいはずがない。白百合姫は、舞台に立たなければならない。  それが、わたくしでなくても。  白百合姫は、消えてはいけない。  そう思った時、わたくしはミコトさんを見ておりました。ミコトさんは、オーレリアさんに支えられるようにして、わたくしのそばまで来て、まだ泣いておりました。わたくしは、ようやく思い出しました。ずっと前に、身を呈してレオナ様をかばったことを。そして今も、照明が落ちる直前、舞台袖から飛び出してきたミコトさんの姿を。あれは間に合わない距離だった。たとえ間に合ったとしても、自分が大怪我をしてしまう可能性の方が大きかった。魔法だって使えないのに。  それでも、この子は走った。  転んで、眼鏡が飛んで、それでも手を伸ばした。白百合姫に必要なのは、綺麗に歩くことだけではない。美しく礼をすることだけでもない。  恐くても、誰かのために飛び出せること。  その性根こそが、白百合姫に相応しい。そう思ってしまったことが、悔しかった。誰よりも練習に付き合って下さったから、台詞も多分ちゃんと覚えていますでしょう。つまり、わたくしではなくても、白百合姫を舞台に立たせられる人がいる。それが分かってしまったことが、とても悔しかった。  わたくしは、そばに落ちてしまった小道具の冠へと手を伸ばしました。  白百合姫が戴くための、小さな冠。  大丈夫、さっきの事故でも壊れていませんわ。きちんとした品質のものを、エインが用意して下さいましたもの。わたくしの頭から外れて落ちた。それだけですわ。  指先が震える。  痛みのせいだけではない。  悔しさのせいだ。 「イネヴェアさん?」  ミコトさんが、戸惑ったように、涙で濡れた顔のまま、わたくしを見ておりました。わたくしは何も言いません。ええ、言いませんとも。  ただ、その冠を持ち上げました。  そして、ミコトさんの頭へ、そっと被せて差し上げました。

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