ふみの世界樹 / 第10話

第九話 月

 放課後の中庭は、少し静かだった。  昼間の賑やかさが校舎の中へ引いて、風だけが残っている。  ミコトは、石畳の端をゆっくり歩いていた。  特に目的があったわけではない。  教室に戻るには少し早く、寄宿区画へ行くには少しもったいない。  そんな時間だった。  中庭の隅で、黒い髪が見えた。  ヴァンだった。  植え込みの陰にしゃがみ、何かをしている。  いつもの窓際の横顔とは違う。  背中が、少しだけ忙しない。  ミコトが足を止めると、ヴァンもこちらに気付いた。  肩が、わずかに跳ねる。  次の瞬間、彼は何事もなかったように背を向けた。 「ヴァンさん」  ミコトは、とことこと近付いた。 「何をしてるんですか?」 「な、なんでもない」  声が少しだけ上擦っていた。  ミコトは首を傾げる。 「……特訓?」 「違う」  即答だった。  その時、植え込みの奥から、小さな声がした。 「みー」  ヴァンの顔が固まった。 「こら。おまえは出て来るな」  黒い小さなものが、葉の陰から顔を出した。  ミコトの目が輝く。 「にゃんこ……!」 「声が大きい」  ヴァンは低く言った。  黒い子猫だった。  まだ小さい。  毛並みは少し乱れていて、身体も細い。  けれど、こちらを見上げる目だけは妙に明るかった。 「誰にも言うなよ」  ヴァンは、観念したように言った。  ミコトはすぐに頷いた。 「はいっ。猫好きです」 「返事になってない」 「ヴァンさんも猫好きなんですか? 内緒で飼ってるんですか?」 「飼い猫じゃ、ない」  ヴァンは子猫を見た。 「こいつは、自由だ」  そう言ってから、少しだけ言葉を足す。 「でも、まだ弱いから、手助けしてる。……だけ」  気恥ずかしそうに、ヴァンはそっぽを向いた。  ミコトは子猫を見た。  それから、ヴァンを見た。 「ヴァンさん。助けてあげたんですね」  ヴァンの目元が、少しだけ動く。 「優しいですね」 「……や、優しくなんか」 「でも、隠してるんだから、そんなことだろうなって思ってました。はい。誰にも言いません」  ヴァンは何か言い返そうとして、やめた。 「学院は、ペット禁止だ。校長に見つかると厄介なんだ」 「そうなんですね」  ミコトは子猫の前にしゃがんだ。 「子猫、構ってもいいですか?」  ヴァンはすぐには答えなかった。  子猫を見る。  そして、短く言った。 「……こいつが、いいって言うなら」  ミコトは顔を上げる。 「決めるのは、こいつだ」  子猫が首を傾げるように鳴いた。 「みー?」  ミコトは、ぱっと顔を明るくした。 「わぁーい」 「まだ、いいとは言ってない」 「そうでした」  ミコトは真面目に頷いた。  その時、後ろから足音がした。 「ミコトさん?」  ハリエットだった。  中庭の入口で、少し不思議そうにこちらを見ている。  ミコトとヴァンが、植え込みの前でしゃがんでいる。  その間に黒い子猫がいる。  見れば、だいたい分かる光景だった。 「……猫?」  ハリエットが近付いてくる。  ヴァンは小さく舌打ちしかけて、やめた。 「ハリエット。誰にも言うな」 「うん。言わない」  ハリエットはすぐに答えた。  それから、子猫の前で膝を折る。 「この子、弱ってるの?」 「少し」  ヴァンが答える。 「食べ物は持ってきてる。でも、飼ってるわけじゃない」 「うん」  ハリエットは、子猫に向けて手を低く差し出した。 「怖くないよ」  ミコトが小声で言う。 「ハリエットさん、この子が撫でてもいいか、分かりますか?」  ハリエットは少し迷ってから、頷いた。 「聞いてみる」  彼女の声が、少しだけ柔らかくなった。  言葉というより、息の置き方が変わる。  葉の揺れる音と、子猫の小さな呼吸の間に、細い糸を通すようだった。  子猫が瞬きをする。  ミコトは、そっと顔を近付けた。 「にゃー。こんにちは」  子猫が鳴いた。 「みー」  ハリエットが小さく笑う。 「こんにちは、って」 「……分かるんですか?」  ミコトが目を丸くする。  ハリエットは、少し照れたように頷いた。 「少しだけ。こういうのは、得意だから」  子猫は、ミコトを見た。  次にヴァンを見る。  また鳴いた。 「みー」  ハリエットが聞き取るように目を伏せる。 「ヴァンさんに、いつもありがとうって言ってる」  ミコトは振り返った。 「ヴァンさん。この子が、いつもありがとうって言ってます」  ヴァンは子猫を見た。 「そう?」  本気にしていない声だった。 「……どういたしまして」  ミコトは少しだけ口を尖らせた。 「とても感謝してますよ、この子」 「まぁ、しょっちゅう猫はすり寄って来るしな」  子猫が、ヴァンの足元へ寄った。  黒い小さな頭が、ヴァンの足首に擦り寄る。  ヴァンが固まった。 「ほら」  ミコトが言う。 「嘘じゃないです」  ヴァンは目を逸らした。 「たまたまだ」  子猫が、前足を上げた。  軽く、ぺしり。  ヴァンの靴先に猫パンチが入る。 「……!」  ミコトは思わず笑いそうになって、口元を押さえた。  ハリエットも肩を震わせている。 「違う、って言ってるみたい」 「……猫が?」  ヴァンが子猫を見る。  子猫は、澄ました顔で座っていた。 「ミコト、動物使いなの?」 「違います」 「サーカス団にいた?」 「いません」  ハリエットがくすりと笑った。 「この子、ちゃんと伝えたかったんだと思う」  ヴァンは返事をしなかった。  ただ、子猫の頭に指を伸ばす。  子猫は逃げなかった。  指先が、黒い毛を少しだけ撫でる。  ミコトは、その様子を見ていた。 「名前は、あるんですか?」  ヴァンの手が止まる。 「まだ」 「じゃあ、名前、何にしましょう?」 「……女の子らしい、可愛い名前がいい」  少しだけ考えてから、ヴァンはそう言った。  ミコトは子猫を見る。  黒い毛。  細い身体。  それから、明るい目。 「ルナ」  口に出すと、思ったよりも柔らかく響いた。 「ルナ、はどうでしょう」  ヴァンは子猫の目を見た。 「月の色だな」  子猫が鳴く。 「みー」  ハリエットが微笑んだ。 「嫌じゃないみたい」  ヴァンは小さく頷いた。 「じゃあ、ルナだ」  子猫は、もう一度鳴いた。  ヴァンは指先を、そっと黒い頭に置いた。 「月女神《ルナエ》様の加護があるように」  ルナは、目を細めた。  ヴァンはすぐに真顔へ戻った。 「いいか。誰にも言うなよ」 「はい」  ミコトは頷いた。  ハリエットも頷く。 「言わない」  ルナは、ヴァンの足元で丸くなりかけて、また顔を上げた。  中庭の隅に、風が通る。  黒い子猫の目だけが、夕方前の光の中で、少しだけ月のように見えた。 「みー」

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