ふみの世界樹 / 第7話

第六話 御令嬢

 授業は、歴史だった。  アルフォンス先生が指先を軽く振るたび、黒板には光の細い文字が浮かび上がる。  歴代皇帝の名と皇國暦、帝国歴の年号が、整然と並んでいった。  生徒達の写し方は、それぞれ違っていた。  同じような術で帳面に文字を浮かべる者。  小さな魔導具を机に置き、光の筋を紙へ走らせる者。  何も使わず、インクとペンで一文字ずつ書き取る者。  オーレリアは、魔法も使える。  高価な魔法の道具を買う家の余裕もある。  それでも彼女は、インクで書くのが好きだった。  ヴァンも、インクとペンで写していた。  隣のミコトも、魔法が使えないのか、魔導筆《ルーンペロー》を買う余裕がないのか知らないが、慣れない手つきでペンを握っている。  光る文字を追うだけで精一杯らしく、何度も黒板と帳面を見比べていた。  鐘が鳴る頃、彼女の帳面には、たどたどしい文字がいくつか並んでいた。  鐘の音が止むと、教室の空気がほどけた。  椅子を引く音。  教本を閉じる音。  小さな話し声。  その中で、真っ先に動いたのはハリエットだった。 「ミコトさん」  ハリエットは、少しだけ急いで最後尾まで来た。  けれど、机のすぐ傍まで来ると、急に歩みを緩める。 「大丈夫だった? 授業、難しくなかった?」 「えっと……」  ミコトは、教本の上に置いた手を少しだけ動かした。 「難しかった、です」  正直だった。  ハリエットは困ったように笑った。 「だよね。最初はそうだよね」 「板書、写せた?」  オーレリアが横から覗き込む。  手帳はもう開かれていた。  授業が終わったばかりだというのに、そこにはミコトの自己紹介らしき記録まで増えている。 「少しだけ」  ミコトが答える。 「見せて」 「オーレリア」  ハリエットが軽く窘めた。 「いきなりは駄目だよ」 「写し間違いがあるかもしれないでしょう」 「それはそうだけど」  二人のやり取りを、ヴァンは隣で聞いていた。  関わるつもりはない。  机の上の教本を閉じ、窓の外へ視線を逃がす。  水晶湖の水面は、朝よりも少し明るくなっていた。  その時、教室の前の方で椅子が鳴った。  話し声が、少しだけ細くなる。  ヴァンは振り向かなかった。  誰が立ったのかは、見なくても分かった。 「ごきげんよう、ハリエットさん」  澄ました声がした。 「少し、道を空けてくださる?」  ハリエットの肩が、ほんの少し揺れた。  ヴァンは目だけを動かす。  イネヴェアが立っていた。  同じ制服を着ているはずなのに、彼女だけは少し違って見えた。  襟元には、学院指定のものよりも薄く艶のあるスカーフが結ばれている。  淡い金糸の縁取りが、首元で小さく光った。  袖口の白い布は乱れなく整えられ、指先の動きまで計算しているように見える。  オレンジ掛かった豊かで濃い色の金髪は後ろでゆるく巻かれ、歩くたびに細いリボンが揺れた。  背筋はまっすぐで、顎はほんの少しだけ高い。  その後ろに、三人の少女が控えている。  並び方だけで、彼女が中心なのだと分かった。  ハリスが、面倒そうに息を吐いた。  オーレリアは手帳を閉じなかった。  むしろ、筆記具を持つ指に力を入れている。 「イネヴェアさん」  ハリエットが言う。 「ミコトさんは、まだ来たばかりで――」 「存じていますわ」  イネヴェアは、そこで初めてミコトへ視線を移した。 「ミコト・サトーさん、和之国からいらしたって、どの地域ですの?」  ミコトは椅子から少し立ち上がった。  慌てた動きではない。  けれど、緊張しているのは分かる。 「地域、ですか」 「ええ」  イネヴェアの眉がわずかに動く。  ハリエットが何か言いかけた。  その前に、ミコトが頭を下げた。 「まだ分からないことが多くて。失礼があったら、ごめんなさい」  イネヴェアは、一瞬だけ返答を失ったようだった。  攻める隙を探していたのかもしれない。  けれど、先に謝られると、その形が少し崩れる。 「……まあ、よろしいですわ」  イネヴェアは顎を少し上げた。 「それにしても、ずいぶんと控えめな御姿ですのね。和之国の方は、皆さんそうなのかしら?」  言葉は丁寧だった。  だが、褒めてはいなかった。  ハリエットの表情が曇る。  オーレリアの目が細くなる。  後ろの少女達は、イネヴェアの反応を待っていた。  ミコトは、自分の袖口を見た。  借り物の学院服。  まだ馴染んでいない布。  机の下で揃えた靴先も、少し余っているように見えた。  それから、イネヴェアを見た。 「イネヴェアさんは、とても華やかですね」  教室の空気が、少し止まった。  イネヴェアも止まった。 「……え?」 「立っているだけで、目が行きます」  ミコトは真面目な顔で言った。 「私、まだこの学院のことをよく知らないので。そういう振る舞いができる方を見ると、すごいなと思います」  ヴァンは、窓の外へ向けていた視線を、少しだけ戻した。  イネヴェアは、今度こそはっきりと言葉を失っていた。  馬鹿にされたわけではない。  へりくだられすぎたわけでもない。  ただ、正面から褒められた。  それも、外見だけではなく、振る舞いを。  取り巻きの少女達が、互いに目を合わせた。  一人が、口元を小さく隠す。  もう一人は、少しだけ嬉しそうにした。  最後の一人は、ミコトを見る目を変えた。 「……当然ですわ」  イネヴェアは、ほんの少しだけ遅れて答えた。 「私、イネヴェア・リンドホルムですもの」 「イネヴェアさん」  ミコトはその名を繰り返した。 「覚えました。よろしくお願いいたします」  そして、もう一度、きちんと頭を下げる。  深すぎず、浅すぎない礼。  教壇の前でしたものと、よく似ていた。  イネヴェアは、用意していた言葉をどこかへ置き忘れたような顔をした。  それから、少しだけ胸を張る。 「あなた、和之国人にしては見所がありますわね」 「ありがとうございます」 「よろしいですわ。ヨロシクして差し上げても構いませんことよ」 「はい」  ミコトは頷いた。 「こちらこそ。皆さん、綺麗な方ばかりで素敵です」  取り巻きの少女達が、今度は分かりやすく反応した。  一人が目を丸くし、  一人が頬を緩め、  もう一人が、少しだけ姿勢を正す。  イネヴェアは、それを横目で見た。  自分の取り巻きが褒められたことを、不快とは取らなかったらしい。  むしろ、当然でしょう、とでも言いたげに顎を上げる。 「行きますわよ、皆さん」 「はい、イネヴェア様」 「それでは、ごきげんよう」 「また、お話ししましょうね」  少女達は、来た時よりも少しだけ柔らかい空気を残して去っていった。  ハリエットが、息を吐いた。 「ミコトさん……」  オーレリアが手帳を見下ろす。 「今の、すごいのね」 「そう、ですか?」  ミコトは首を傾げた。  本当に分かっていないようにも見えた。  分かっていて、そう見せているようにも見えた。  ハリスが、短く言った。 「上手いな」  それだけだった。  ヴァンは何も言わなかった。  昨日、湖から上がった娘。  今日、和之国から来た留学生として立った娘。  今、イネヴェアを怒らせずに帰した娘。  その三つは、まだ綺麗には重ならない。  けれど、ひとつだけ分かった。  隣の席の少女は、ただ流されるだけではないらしい。  関わるつもりはない。  それは、変わらない。  黒髪の少年は、窓からの風に目を細めた。  ただ、名前は覚えた。

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