ふみの世界樹 / 第63話

第五十一話 戸惑い

 皇國歴1002年、覇竜11年、9月15日、白虎曜日。  新学期が始まってから、何日かが経っていた。送別会が終わり、お茶会にも参加した。だから、もう日常は戻ってきたのだと思う。  朝の教室には、いつもの音がある。椅子を引く音、教本を机に置く音、誰かが小さく笑う声、筆記具が紙を擦る音。けれど、全部が元通りになったわけではなかった。  ロイさんがいない。  あの人がいないだけで、オーレリアさんの近くが少し静かに見える。オーレリアさんはいつも通り手帳を開いているし、いつも通り何かを書いている。けれど、大きな声で彼女の名前を呼ぶ人がいない。それだけで、教室の空気が一つ抜けたみたいだった。  わたしは、そういうことを、ちゃんと考えようとしていた。でも、わたしの目は、すぐに窓際へ逃げた。  ヴァンさんが、窓の外を見ていた。いつもの席で、いつものように頬杖をついて、|水晶湖《クリスタル・レイク》の方を見ている。黒い髪が、窓から入る風で少しだけ揺れていた。  わたしは、それを見ていた。  たぶん、現実逃避だった。  教室の前では、学芸会の話が進んでいる。|陽級《ソルネ・クラス》の出し物は、もう演劇に決まっていた。学芸会まで、あと一か月しかない。ちゃんと聞いてなきゃ。そう思うのに、わたしはヴァンさんを見てしまっていた。  気になる男の子。  そう言ってしまうと、何かが決まってしまう気がして、心の中で少しだけ慌てる。でも、気になるのは本当だった。  ヴァンさんが何を見ているのか。何を考えているのか。あの時、レオナさんとした約束を、今も考えているのか。  レオナさんは、かわいい。  とてもかわいい。  儚くて、綺麗で、でもただ守られているだけの人ではなくて、ちゃんと自分の願いを持っている子だ。ヴァンさんが、レオナさんを大事にするのは分かる。レオナさんなら、ヴァンさんにお似合いだと思う。  だから、応援したい。  うん。  応援したい。  もし、そういうことなら、わたしはちゃんと身を引いて――  身を、引く?  そこで、わたしは止まった。  身を引く、とは。  わたしは今、どこから引こうとしたのだろう。そもそも、わたしは何かに立っていたのだろうか。  ヴァンさんとレオナさんを応援する。それはいい。あの二人なら、ロイさんとオーレリアさんみたいに、推せるカップルになると思う。それは、とてもいいことだと思う。なのに、胸の奥が少しだけ、きゅっとなった。  これは、もどかしい気持ちだ。ヴァンさんが何を考えているのか、ほとんど分からないから、それでもどかしい。  たぶん。  きっと。  そういうことなんだと思う。 「では、監督はオーレリアさんにお願いします」  アルフォンス先生の声で、わたしは現実に戻った。 「……え、私なのよぅ?」  オーレリアさんが、手帳を持ったまま目を瞬かせる。けれど、驚いていたのは一瞬だけだった。次の瞬間には、もう目が輝いていた。 「適任だと思う」  ハリスさんが静かに言った。 「記録も進行もできる。全体を把握するのにも向いている」 「私も、いいと思う。オーレリアなら、みんなのことをよく見てくれるから」  ハリエットさんがそう言うと、オーレリアさんは手帳を胸に抱えたまま、少しだけ頬を赤くした。 「そうですわね。粗雑に仕切られるよりは、ずっとよろしいですわ」  イネヴェアさんが扇を少しだけ開いて言う。 「粗雑って誰のこと?」  ローティさんが聞いた。 「心当たりがありますの?」 「ないけどさ」 「そこまで言われたら、仕方ないのよぅ」  仕方ない、と言いながら、オーレリアさんの声は嬉しそうだった。  アルフォンス先生が黒板の端に文字を浮かべる。  監督。  オーレリア・キルシュ。  その文字を見た瞬間、オーレリアさんの顔が変わった。いつもの記録係の顔ではなかった。もうすでに監督の顔だった。 「それでは、演目を決めるのよぅ。希望を集めるのよぅ。ただし、声の大きさで決めないのよぅ。私は監督なので、公平にいくのよぅ」 「声の大きさで決めたら、ローティになるしね」  ウォールさんが小さく言った。 「なら、俺有利じゃん」 「だから駄目なのよぅ」  オーレリアさんが即答したので、教室に笑いが起きた。けれど、すぐにあちこちから声が上がり始めた。 「宮廷劇がよろしいと思いますわ」  最初に声を通したのは、イネヴェアさんだった。 「学芸会ですもの。見栄えは大事です。姫、王宮、舞踏会、綺麗な衣装。舞台に立つ以上、華やかさは必要ですわ」  それに、女子たちの何人かが頷いた。 「姫はいいよね」 「衣装、作りがいがありそう」 「舞踏会の場面、綺麗かも」  イネヴェアさんは、当然ですわ、という顔で顎を上げた。すると、反対側でローティさんが勢いよく手を上げる。 「でもさ、劇なら戦うやつがいいだろ!」  男子たちの何人かが、すぐに反応した。 「勇者とか」 「剣士とか」 「魔物退治!」 「決闘!」 「それは、いささか乱暴ですわ」  イネヴェアさんが眉を寄せる。 「乱暴じゃなくて、派手なんだって。姫がずっと城で喋ってるだけじゃ、眠くなるだろ」 「喋っているだけとは言っていませんわ。宮廷劇にも、陰謀や恋や誇りがあります」 「剣がないじゃん」 「剣ばかり振り回して、何が楽しいのです」 「楽しいだろ!」  教室が、二つに割れた。  綺麗な衣装がいい、という声。強い剣士がいい、という声。姫がいい。勇者がいい。舞踏会。決闘。王宮。魔物。華やか。かっこいい。  わたしは、少しだけ圧倒されていた。演劇の演目を決めるだけで、こんなに皆の顔が変わるのだと思った。  イネヴェアさんは、ただ目立ちたいだけではない。綺麗な舞台を本気で作りたいのだと思う。ローティさんも、ただ騒いでいるだけではない。自分が面白いと思うものを、ちゃんと舞台に乗せたいのだと思う。どちらも楽しそうで、どちらも譲らない。  オーレリアさんは、その全部を手帳に書いていた。 「姫、王宮、舞踏会、衣装。勇者、剣士、魔物退治、決闘……」  書きながら、顔を上げる。 「ウォールさんは?」 「ぼくは、皆がやりやすい方でいいかな。商人の出世劇とか言ったら、父さんに見られた時に何か言われそうだし」 「ハリエットさんは?」 「私も、みんなが納得できるものがいいと思う。ただ、あまり怖すぎる話じゃない方がいいかな」 「ハリスさんは?」 「好みで決める気はない」  ハリスさんは短く言った。 「人数、準備期間、舞台転換、衣装、練習時間。その辺りで破綻してなければいい」 「それは後で全て検討するとして、今は演目なのよぅ」  オーレリアさんが手帳に線を引くと、また教室の声が重なった。  姫。勇者。王女。剣士。宮廷。冒険。  華やかさと、勇ましさ。  わたしは、それを聞きながら、もう一度だけ窓際を見た。  ヴァンさんは、まだ窓の外を見ていた。たぶん、半分くらい聞いていない。でも、時々、眉が少しだけ動く。聞いていないふりをしているだけなのかもしれない。  その時、ハリエットさんが小さく手を上げた。 「姫様のお話と、剣士のお話を、分けなくてもいいんじゃないかな」  声は大きくなかった。  でも、不思議と教室が少し静かになった。 「お姫様が出て、剣を持った人も出るお話なら、どちらの希望も入ると思う」  ローティさんが目を瞬かせる。 「姫と剣士?」 「うん」 「それなら戦える?」 「お話によるかな」 「衣装も綺麗にできますわね」  イネヴェアさんが少し考えるように扇を伏せた。オーレリアさんの筆記具が止まる。 「姫と剣士……」  その時、ハリスさんが口を開いた。 「それなら、近い話がある」  皆の目が、ハリスさんへ向いた。ハリスさんは少しだけ考えてから、静かに言う。 「姫と黒騎士の物語だ」 「黒騎士?」  ローティさんが身を乗り出した。 「勇者じゃなくて?」 「勇者ではない」 「剣士?」 「騎士だ。古い話で、実話が元になっているとも言われている」  それ以上、ハリスさんは語らなかった。  オーレリアさんが、すぐに聞く。 「どんなお話なのよぅ?」 「詳しくは知らない。題名と、大まかな流れだけだ」 「流れ?」 「姫と、黒い騎士が出る。戦いもあって、王宮の陰謀もある。それだけでも、今の条件には近い」  ハリスさんがそう言った時、アルフォンス先生が少しだけ笑った。 「ああ、その話なら、私も知っています」  教室の空気が、また少し変わる。 「先生も知っているんですの?」  イネヴェアさんが顔を上げた。 「ええ。かなり古い物語ですね。一般には、『黒騎士アルブレヒトと白百合姫の悲話』として知られています。地方によって細部は違いますが、五百年前、農園都市ノイエラグーネで起きた実話をもとにした話です」 「実話なの?」  ローティさんの声が少し明るくなる。 「もとは実話です。ただ、現在知られている物語には、後の時代に宮廷劇として創作された部分も多いですね」  アルフォンス先生は、穏やかに訂正した。 「ですが、姫君、騎士、宮廷、剣戟。舞台向きの要素は揃っています。|陽級《ソルネ・クラス》で扱うには、悪くない題材でしょう」  オーレリアさんの目が光った。 「……それなのよぅ」  その声は、さっきより低かった。監督の声だった。 「姫と黒騎士。宮廷もある。衣装も映える。剣の場面も入れられる。役も増やせるのよぅ」 「黒騎士なら、かっこいいじゃん!」  ローティさんが言う。 「姫が中心なら、舞台としても美しいですわ」  イネヴェアさんも、今度は反対しなかった。女子たちも、男子たちも、少しずつ頷き始める。わたしは、その言葉を心の中で繰り返した。  白百合姫と黒騎士。悲話。  何だか、少しだけ胸に引っかかる題目だった。綺麗で、怖くて、寂しい感じがする。  オーレリアさんは手帳を閉じ、黒板に大きく題名を書いた。  黒騎士アルブレヒトと白百合姫の悲話。  けれど、全部書いてみると、さすがに長かった。オーレリアさんは少し考えてから、独断で削った。  姫と黒騎士。 「では、演目はこれで決まりなのよぅ」  反対の声は出なかった。  決まった。  |陽級《ソルネ・クラス》は、学芸会で『姫と黒騎士』を演じることになった。  その瞬間、教室の空気が少しだけ浮いた。まだ何も始まっていないのに、何かが始まったような感じがした。  アルフォンス先生が、大まかなストーリーを紙に書いてオーレリアさんに渡した。 「それで」  それを読んだ後、オーレリアさんが、改めて手帳を開いた。 「まず、黒騎士役は誰がやるのよぅ?」 「俺!」  ローティさんが、ほとんど同時に手を上げた。何も考えてない。脊髄反射だと思う。 「俺やりたい! 黒騎士だろ? 剣で戦うんだろ? 絶対俺向きじゃん!」 「いや。ヴァンが適任だと思う」  ハリスさんが、静かに言った。  教室の空気が、一拍止まった。  それから、あちこちで声が上がる。 「たしかに」 「ヴァンだな」 「黒騎士なら、ヴァンさんなのよぅ」 「似合いますわね」 「うん、似合うと思う」 「えーー⁉」  ローティさんが椅子から半分立ち上がった。 「なんで⁉ 俺、今、立候補したじゃん!」 「立候補と適任は別だ」  ハリスさんが言った。 「ひどくない⁉」  わたしは、思わず窓際を見た。  ヴァンさんは、まだ窓の外を見ていた。たぶん、話を半分も聞いていなかったのだと思う。  けれど、教室中の視線が集まったことで、ようやくこちらを向いた。 「……は?」

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