ふみの世界樹 / 第5話

第四話 ミコト・サトー

「……はい?」  ミコトは、顔を上げた。  アルフォンスは穏やかに微笑んでいる。  片眼鏡の奥の目は、細く、柔らかい。  けれど今、その柔らかさよりも、呼ばれた名前の方が大きかった。  ミコト・サトー。  ミコトは、自分の名前しか言っていない。  少なくとも、桟橋でも、この医務室でも、そこまでは口にしていない。 「どうして……」  声が、思ったより小さく出た。 「どうして、それを知っているんですか」 「神のお告げです」  アルフォンスは、少しも困った様子なく言った。  ミコトは返事に詰まった。  神のお告げ。  知らない場所で、知らない学院にいて、知らない文字と知らない言葉を聞いたあとでは、何を言われてもおかしくない気がした。  それでも、目の前の男があまりに自然に言うので、逆に困った。  つばめが、横で小さく息を吐いた。 「……また心を読んだのね?」 「いえいえ、読んでいませんし、読めませんよ」  アルフォンスは、さらりと返した。  ミコトは思わず肩を強張らせた。  心を読んだ。  その言葉だけが、妙にはっきり耳に残る。  けれどアルフォンスは、ミコトの方を見て微笑んだだけだった。  胸の内を言い当てることもない。  こちらが今、何を怖がったのかに踏み込んでくる気配もない。  どうやら、本当に心を読んでいるわけではないらしい。  それなら、ただ、とても洞察力が高い人なのだろうか。  それとも。  神のお告げというのは、本当なのだろうか。 「さて」  アルフォンスは、帽子を片手に持ったまま、寝台の側へ椅子を寄せた。 「いくつか確認させてください。答えられないことは、答えなくて構いません」  その声は柔らかい。  けれど、どこか手順が決まっているようでもあった。 「あなたは和語を話せる。けれど、和之国の地理や歴史は分からない。そうですね?」  ミコトは、少しだけ迷ってから頷いた。 「和之国という場所を、私は知りません」 「でしょうね」  アルフォンスが頷く。  つばめが何か言いかけた。  だが、その前にアルフォンスが続ける。 「つばめさん。同じ和之国の者かもしれない子なら、できるだけ助けてあげたい。あなたはそう考えるでしょう」  つばめの口が、そこで止まった。  少しだけ、目が細くなる。 「……本当に、心を読んでいないのよね?」 「読めませんとも」  アルフォンスは涼しい顔で言った。 「ただ、あなたがそういう人だと知っているだけです」  つばめは、呆れたように眉を下げた。  けれど、それ以上は言わなかった。  アルフォンスはミコトへ視線を戻す。 「まず、安心してよいことから伝えましょう。あなたに邪性はありません」 「じゃせい」 「ここに害をなすものではない、という意味です」  それだけ言うと、アルフォンスは深く説明しなかった。  ミコトには、その言葉の全部は分からない。  けれど、少なくとも自分が敵のように見られているわけではないのだと、それだけは分かった。 「ですが、困ったこともあります」  アルフォンスは、少しだけ声を落とした。 「あなたには、身元を証明するものがない。帰る先も、こちらでは確認できない。だから、このままでは学院に置くことも、外へ出すことも難しい」  ミコトは膝の上で手を握った。  言われて、初めて分かる。  ここにいることにも、きっと理由が要る。  助けてもらうことにも、何かの形が要る。 「ミコトさん」  アルフォンスの声は、急がせなかった。 「行く所はありますか?」  ミコトは、答えようとして、止まった。  帰らなければならない場所は、ある気がする。  けれど、それをここでどう示せばいいのか分からなかった。  ここから行ける場所としては、何もない。 「……ない、です」 「助けてくれる人はいますか?」  ミコトはまた、少し黙った。  水の中。  強く掴まれた手首。  誰かが、確かに引いてくれた。 「落ちた時に……助けてくれた人は、いた気がします」 「はい」 「でも、誰かは分かりません。今、どこにいるのかも」 「では、今すぐ頼れる人はいない」  ミコトは小さく頷いた。 「いません」  アルフォンスは、それを責めなかった。 「やりたいことはありますか?」 「やりたいこと……」  ミコトは言葉を繰り返した。  帰りたい。  そう言うべきなのだと思った。  でも、帰り方が分からない。  そもそも、何が起きたのかも分からない。  泣きたいのか、怖いのか、眠いのかも、うまく分からない。 「……分かりません」 「では」  アルフォンスは、少しだけ間を置いた。 「ここで学んでみますか?」  ミコトは顔を上げた。 「いいの?」  敬語が抜けた。  自分でも気付いて、少しだけ口を閉じる。  アルフォンスは気にしなかった。 「はい」  その返事は、静かだった。 「少なくとも、今のあなたには、休む場所と、言葉を学ぶ場所と、自分がどこにいるのかを知る時間が必要です」  つばめが、今度は何も言わなかった。  ただ、ミコトの側に立っている。 「では、この学院に入学しましょう。いいですか?」  ミコトはすぐには返事をしなかった。  学院。  まだ、ほとんど何も知らない場所だ。  知らない部屋。  知らない文字。  知らない先生。  知らない子供達。  それでも、ここには白いシーツがあった。  濡れた服を乾かしてくれる人がいた。  体操服を貸してくれる子がいた。  怖がらなくていいと言ってくれる人がいた。  ほかに行く所はない。  助けてくれる人も、今はここにしかいない。  ミコトは、ゆっくり頷いた。 「……は、はい」  アルフォンスは、穏やかに頷き返した。 「分かりました。では、そのように」  それから、まるで明日の天気を決めるような声で言った。 「明日の朝までに、必要な文書を整えておきます」 「文書……?」 「和之国から来た、貴族階級の留学生。学院への入学予定者。到着早々に湖で事故に遭い、少し混乱している」  アルフォンスは、一つずつ並べた。 「あなたは、そういうことになります」  そういうこと。  ミコトは、その言葉を胸の中で繰り返した。  本当ではない。  たぶん、今聞かされたものの多くは、本当ではない。  けれど、その嘘がなければ、ここにいることもできないのだろう。 「名前は、ミコト・サトー」  アルフォンスは帽子を持つ手を軽く胸に添えた。 「今から、あなたは学院生徒です」

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