ふみの世界樹 / 第56話

第四十八話 湖に映るもの

 森と空。  水と風。  月と湖。  そのすべてが、今、ひとつとなった。  月が、|石の背《ディオス》山脈の稜線に触れた。  夜へ広がっていた月光が、山の背に遮られ、細く、細く絞られていく。空から降り注ぐ光ではない。山の端から低く差し込む、一本の白い糸のような光だった。  その光が、湖面に届いた。  黒く沈んでいた|水晶湖《クリスタル・レイク》の上に、まず一筋、白い線が走る。細く、頼りなく、けれど迷わず伸びた光は、波に触れた瞬間、ほどけるように広がっていった。  線が、面になる。  低く差した月光を、澄み切った水が受け止める。  沈めないで。  汚さないで。  そっと、抱くみたいに。  湖は、光を飲み込まなかった。濁らせもしなかった。ただ静かに受け止めて、月の白を、夜の底から柔らかく返していく。  湖は、内側から光ったのではなかった。  月の白を、湖そのものが抱いたのだ。  山の稜線が、夜の中に白く浮かび上がる。まるで、巨大な石の獣が、遠い昔からそこに背を横たえていたかのように。  その背の下で、湖は少しずつ夜の色を失っていった。  白い。  それは、雪の白ではなかった。霧の白でも、花の白でもない。色というより、夜がほんの束の間だけ許した、もう一つの顔だった。  長くは続かない。  月は沈み続けている。山も、湖も、風も、誰かの願いのために歩みを止めることはない。  けれど、その夜、その場所に、レオナはいた。  間に合ったのだ。   束の間の白が、今、ここにある。    ──────────。  暗闇。  |月女神《ルナエ》の時は過ぎ去った。 「……あ」  レオナの声は、湖へ届く前に消えた。   *  ドルガン・ベイオベアは、絶句した。  目の前に立つ侍女は、いつもと同じ顔をしていた。  背筋を伸ばし、両手を前で重ね、少しも取り乱していない。だが、その口から告げられた言葉は、老練な親衛騎士の肝を冷やした。 「……今、何と言った」  低い声で、ドルガンが問い返す。チャミーは、深く頭を下げた。 「ですから、申し上げました通りでごぜえます。レオナ様は、ただいま、この小屋にはいらっしゃいませんだ」  控えていた兵達が、息を止めた。  天蓋付きの寝台。整えられた毛布。閉ざされた窓。見張りの兵。|結界小屋《バリアヒュッテ》。  そのすべてが、レオナ皇妹姫を守るために置かれていたはずだった。  ドルガンは、寝台へ歩み寄り、毛布をめくる。  そこに、レオナはいなかった。ドルガンは、その空白を見下ろしたまま、低く息を吐いた。静かに周囲を見回す。暖炉の中、灰に残された小さな靴跡を見つけた。  次の瞬間だった。 「……は」  喉の奥で、笑った。 「大したものだ」  チャミーは、頭を下げたまま動かなかった。 「レオナ様が、自らの足でか」 「はい」 「行きたいと、仰ったのだな」 「はい」  ドルガンは、窓の外へと視線を向けた。  病に細り、寝台の上で守られるばかりだった少女が、自ら小屋を出た。  夜の森へ。仲間達と共に。 「本当に、大したものだ」  今度の声には、隠しきれない笑みが混じっていた。それから、ドルガンは顔を上げる。 「目的地は」 「|水晶湖《クリスタル・レイク》南岸、少し突き出た崖の上でございます」 「護衛を集めろ」 「はい」 「叱るのは後だ」  ドルガンは、扉を開いた。 「まずは、お迎えだ」  チャミーが、一歩前へ出た。 「その前に、ご覧に入れたいものがありますだ」   *  野営地。  並んだテントの中では、もう眠った生徒もいれば、まだ起きている生徒もいる。 「っ⁉ しまった。つい寝ちゃった」  マリアンナは飛び起きた。  すぐに手帳とペンを握って外に出る。 「っと、すまない」  そこで誰かにぶつかりそうになった。  ロイ。  例の怪しい計画。その実行メンバーだと疑わしき少年。 「ドゥフテヴァルト公爵の息子が、ここで何を?」 「ロイだ。ロイ・アッシュフィールド。それより、今すぐ皆を叩き起こせ。大至急!」 「はっ、はい!」  下級生であっても、領主の息子は人に命令すること、指示することに慣れていた。マリアンナは反射的に返事をしてしまってから、少し後悔した。 「ウォール、フェルトン、君達もだ。急いで」 「僕に命令するな。ウルフはどこだ?」  この耳障りな声はフェルトンね。  マリアンナは、この状況は未だに理解できないが、すべきことは理解できた。あのロイが、フェルトンを使ってまで皆を起こそうとしている。どう考えても、ただごとじゃない。 「……だ、ダイア・ウルフが出たって言うの?」  また怪物なの? 「いや。ムダに怖がるといけない。ただ、起こして回れ」  つまり怪物じゃない。それじゃ、なに?  マリアンナは、他に思い付く答えがなかった。ロイの前に立つ。見上げる。目を逸らさず。 「待って、ロイ・アッシュフィールド。みんなを起こすの手伝ってあげるから、後で事情を全て教えてね。あの計画なんだよね?」  一瞬、ロイは目を見張った。 「そうだ。その計画だ。全て話す」 「契約成立」  何の話だか分からないウォールとフェルトンを尻目に、マリアンナはテントに入って荷物を開いた。何かを手に持って戻る。 「それは?」 「これからの未来、女性の必需品になるものよ」  そこへ、ジークハルト先生がやって来た。 「ロイ。貴様、何を考えている!」 「これからお見せします」 「なに?」  ロイは、マリアンナを見るとうなずいた。 「先生、ごめんね」  手にした小さな筒状の何かから、差し込まれていた金属ピンを、マリアンナは勢いよく抜いた。  夜空を切り裂くような|警戒術《アラルム》の音が響き渡る。   *  山を越えた先、湖の沖。  水面に浮かべた小舟までは、その警戒音も届きはしなかった。 「オーレリア、準備は?」 「大丈夫なのよぅ」  ハリスの問いに、オーレリアは自信満々の声を返した。 「俺は何をすれば?」 「後始末があるから、それまで待機」  ローティの問いに答えると、ハリスは親指を立てて合図した。 「それじゃ、行くのよぅ」   *  白き輝きの時が終わった。  一瞬で過ぎ去った情景が、レオナの胸に、静かな寂しさを残した。  終わってしまった。  そう思って俯いた時だった。 「レオナさん」  ミコトが、そっと言った。 「顔を上げてください」  レオナは、暗くなった湖へと、ゆっくりと視線を上げた。  一粒の光。  湖の黒い水面のただ中で、ぽつんと灯った。  小さな、小さな光だった。  けれど、それは消えなかった。  闇を押し分けるように、まっすぐ空へ昇っていく。  そして。  ─────────────光。  遅れて、音が来た。  湖を渡り、崖を震わせ、森の奥へ消えていく。  赤が咲いた。  青がほどけた。  金が尾を引いた。  すぐに別の光、音。また光、音。  光、音。光、光、音。  夜空に生まれた花々は、すぐ下の湖にも映っていた。  レオナは、満面の笑みで空を見上げていた。  空と水。  天と地。  そして、そのすべてが、レオナの瞳にも映っていた。

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