ふみの世界樹 / 第24話

第二十三話 兄貴

「おまん、一人で埋めたがか」  知らない言葉だった。爺ちゃんの言葉じゃない。前に森を通った旅人とも違うし、遠くの道を歩いていた剣持ちたちとも違う。おれは爺ちゃんの剣を抱えたまま振り返った。抜かなかった。抜くなら本気でやれ。本気でないなら絶対に抜くな。爺ちゃんに、そう言われている。だから抜かない。でも、抜かないだけだ。見ないわけじゃない。考えないわけじゃない。  目の前にいる男の手を見る。腰を見る。足を見る。肩を見る。胸は革で守っている。腕と脛には金属がついている。腰には剣がある。山を歩く格好なのに、ただ歩く格好じゃない。魔物が出ることを知っている格好だ。爺ちゃんなら、そんなに色々つけなくても山へ入った。何もないみたいに歩いて、必要な時だけ剣が出た。でも、この男は違う。守るものをつけている。だから爺ちゃんより弱いのかと思った。けれど、弱い人間の立ち方じゃなかった。重いものをつけているのに、足が死んでいない。すぐ動ける。剣までの手も遠くない。踏み込んでくるなら、右か、左か。たぶん右の足が少し先にある。肩や手が動く前に、ハラから来る。おれが下がる場所はある。けれど下がると、爺ちゃんのしるしを背中にする。家の戸口までは遠い。あっちの森まで行けば仕掛けた罠がある。そこまで誘えば倒せるかもしれない。でも、行けるか。こいつを連れて、そこまで行けるか。こいつは強い。戦いはやってみないと分からない。戦うなら逃げない。でも、殺し合って負けたら、そこで終わる。  そこで終わったら、爺ちゃんのところへ行けるかもしれない。違う。駄目だ。爺ちゃんは、死ねとは教えていない。火を起こすことも、飯を食うことも、罠を置くことも、魚を殺して食うことも、剣を抜くなら本気でやることも、ぜんぶ生きるためだった。爺ちゃんは、それを教えてくれた。だったら、おれがここで終わるのは違う。まだ誕生日も三十回来ていない。三十回来たらできると言われたことも、まだ何もできていない。  あっちの森まで行けば、仕掛けた罠がある。大きいイノシシ用のやつ。木の根のそばに隠したウサギ用のやつ。そこまで走れたら、この男でも止められるかもしれない。でも、爺ちゃんの剣を抱えたまま走れるか。走ったら背中を見せる。背中を見せたら追ってくるか。追ってこないか。鎧があるから遅いか。違う。足は死んでいない。たぶん速い。追いつかれる。それに、一人とは限らない。後ろにまだ誰かいるかもしれない。木の陰。道の方。家の裏。見えているのが一人でも、見えていないところにいるかもしれない。爺ちゃんは、見えているものだけを見るなと言った。見えないものがいると思えと言った。  分からない。狩人か。旅人か。爺ちゃんが言っていた兵士か。それとも、キシとかいうやつか。キシは強いのか。兵士より強いのか。魔物を斬れるのか。人を斬るのか。おれを斬るのか。爺ちゃんの剣を取りに来たのか。爺ちゃんを知っているのか。知らないのに、知っているふりをしているのか。名前を聞けば分かるのか。分からない。名前だけでは足りない。どこから来たかでも足りない。何をしに来たかでも足りない。ぜんぶ聞きたい。でも、ぜんぶは出ない。 「おまえ、なんだ?」  男はすぐには答えなかった。おれを笑わなかった。変な聞き方だとも言わなかった。少しだけ、おれが何を聞いたのかを測ったように見えた。それから言った。 「ヴァルク。爺さんの手紙で来たがじゃ」  爺さん。  爺ちゃんじゃない。爺さん。こいつは、爺ちゃんをそんなふうに呼ぶ。おれより遠い。なのに、知らないやつの呼び方じゃない。嫌だ。遠いのに、少しだけ近い。なんだ、それ。  手紙。爺ちゃんの手紙。どうやって。どこまで。誰が持っていった。爺ちゃんが渡したのか。爺ちゃんが書いたのか。おれに言わないで。こいつに。なんで。どこから来た。いつ来た。なんで今来た。  ヴァルクはすぐに懐へ手を入れなかった。おれを見て、腰の剣ではない方の手を少しだけ上げた。 「手紙を出す。懐に手ぇ入れるぞ」  懐。そこに武器があるかもしれない。小さい刃なら隠せる。毒でも、魔法のものでも、爺ちゃんが気をつけろと言ったものでも、知らないものなら全部そこから出るかもしれない。けれど、殺す気なら、最初に後ろから来ている。声をかけずにやればよかったはずだ。今、断った。断る必要があると思っている。なら、いま斬りかかるよりは、見た方がいい。おれは声を出さずに頷いた。  ヴァルクは懐から畳んだ紙を出した。近づかなかった。紙を見せびらかすようにも持たなかった。おれの前の地面に置き、それから一歩下がった。その一歩も見た。無駄に近づかない。遠すぎもしない。こっちが拾えるところに置いた。おれはすぐには取らなかった。魔法には気をつけろ。爺ちゃんはそう言ったことがある。見た目が紙でも、紙じゃないことがあるかもしれない。おれは指の先でつついた。何も起きない。もう一度、少しだけ強くつついた。それでも何も起きない。だから、引ったくるように取って、すぐ距離を取った。  紙を開いた。鹿の絵でもない。魚の絵でもない。罠の形でも、川の線でもない。文字だった。まだ習ったばかりで、ちゃんとは読めない。冠字は絵みたいだから少し分かる。山。人。あとは、見たことがある気がする字と、知らない字が並んでいた。爺ちゃんの字っぽかった。紙の折り方も、線の太さも、爺ちゃんのものっぽかった。でも、ぽい、だけだった。嘘か本当か分からない。本物かもしれない。偽物かもしれない。もしかしたら、おれの知らない間に、こいつが爺ちゃんの命を終わらせたのかもしれない。そうなったら、紙はもう証にならなかった。  おれは手紙を捨てた。  ヴァルクはそれを見ても、怒らなかった。怒らないのも嫌だった。怒れば、嘘だと思えた。怒らないなら、何かまだ持っているみたいに見える。 「信用できんか。俺が、おまんの兄貴だとしても」  兄貴。兄弟。爺ちゃんから聞いていない。兄弟なら、同じ巣にある卵で、一緒に育つ。生まれた時から近くにいる。飯を食う場所も、眠る場所も、喧嘩する相手も、同じはずだ。でも、こいつは知らない。おれはこの男を知らない。爺ちゃんの火のそばにもいなかった。川にもいなかった。山にもいなかった。それに、毛の色も違う。爺ちゃんは白い。おれは黒い。こいつは焦げ茶だ。白でも黒でもない。混ざった灰でもない。喋り方も変だ。おまんとか、来たがじゃとか、爺ちゃんともおれとも違う。同じ巣のやつに見えない。  分からない。何も分からない。だから。 「信用できない」  言ったら、胸の奥が少しだけ冷えた。冷えたのに、すぐまた熱くなった。信用できない。できないはずだ。でも、この男は爺ちゃんを知っているような呼び方をした。手紙を持っていた。爺ちゃんの字っぽいものを持っていた。それが嫌だった。信じられないものの中に、少しだけ信じるしかないかもしれないものが混ざっている。  ヴァルクは少し目を細めた。困ったようにも見えたし、考えているようにも見えた。 「なら、何を見せりゃ信用するがじゃ。アレを見せても、分かるとは限らんしのう」  アレ。分からない言葉がまた増えた。手紙も分からない。兄貴も分からない。ヴァルクも分からない。爺さんという呼び方も分からない。知らないことが多すぎる。爺ちゃんがいれば聞けた。爺ちゃん、アレって何だ。爺ちゃん、こいつは何だ。爺ちゃん、兄貴って何だ。そう聞けば、爺ちゃんはたぶん、すぐには教えない。でも、見ていろとか、立てとか、そういうふうに、分かるところまで連れていってくれた。けれど爺ちゃんはもう教えてくれない。だから、自分で分かるしかない。何でもいい。分かるものが欲しかった。嘘でも本当でも、少しでも掴めるものが欲しかった。 「見せろ」  ヴァルクは、そこで初めて迷った。少しだけだった。でも、迷った。見せたくないのか。見せると困るものなのか。おれに分からないと思っているのか。それとも、見せたら戻せないものなのか。 「型だけじゃ。それ以外はせん」  型。その言葉で、胸の奥が鳴った。爺ちゃんが見せたもの。家族の秘密だと言ったもの。ほかのことは忘れても、この動きだけは絶対に忘れるなと言ったもの。  おれは頷いた。  ヴァルクは、鞘のまま剣を持った。  足が沈む。膝ではなく、地面の方が少しだけ近づいたみたいに見えた。肩は上がらない。腕も先に出ない。手は鞘を持っているのに、手だけが持っているようには見えない。  ハラが先に決まる。  それから、足が前へ出た。  爺ちゃんが前に進む時と同じだった。足だけが出たんじゃない。腰も、背中も、肩も、手も、ばらばらに動かない。鞘の先まで、一本でつながっている。  けれど、爺ちゃんほどではない。  爺ちゃんの時は、もっと静かだった。山が動いたのに、音がしなかった。水が走ったのに、どこから始まったのか分からなかった。  ヴァルクには音がある。脛の金属が少し鳴る。胸の革が、ほんの少し動きを食う。  それでも、おれよりずっとできていた。  おれが何度も直されたところが、最初からそこにあった。ハラ。顎。背中。肩。肘。握り。言葉にする前に、身体が先に知っている形だった。  分かってしまった。  これは、爺ちゃんのところから来ている。爺ちゃんが教えたものだ。手紙より分かる。名前より分かる。兄貴という言葉より分かる。髪の色が違っても、喋り方が違っても、鎧が物々しくても、この型は爺ちゃんのところから来ている。爺ちゃんほどじゃない。全然、爺ちゃんほどじゃない。でも、おれより上手い。さっきまで、戦いはやってみないと分からないと思っていた。罠まで誘えば倒せるかもしれないと思っていた。でも、今は違う。勝てない。絶対に勝てない。こいつは、おれより先に生まれて、おれより強くて、おれより爺ちゃんと長くいて、おれより爺ちゃんを知っている。  それなら、なんで今来た。  それが、胸の中で膨らんだ。信じたくなかったのに、型は信じるしかなかった。信じるしかないから、余計に腹が立った。爺ちゃんを知っているなら、爺ちゃんが生きている時に来ればよかった。おれより強いなら、爺ちゃんが死ぬ前に来ればよかった。おれより爺ちゃんと長くいたなら、爺ちゃんがそうかと言える時に来ればよかった。手紙を持っているなら、もっと早く来ればよかった。  ヴァルクは鞘の剣を下ろした。 「これで、兄弟と認めるか」  認める。そんな言葉が入る場所はなかった。型は本物だった。爺ちゃんから来たものだった。だから、こいつは爺ちゃんを知っている。知っているのに、今来た。爺ちゃんはもういない。手紙も、型も、兄貴も、全部、爺ちゃんが死んだあとに来た。 「認めない。なんで今きた。爺ちゃんは、もう死んだ」  ヴァルクは目を逸らさなかった。 「すまん」  その一言で、怒りが行く場所をなくした。言い訳すればよかった。仕方なかったと言えばよかった。間に合わなかった理由を並べればよかった。そうしたら、そこへ怒れた。でも、ヴァルクはただ謝った。爺ちゃんを返せないことを知っているみたいに、遅く来たことを消せないと知っているみたいに、短く謝った。怒りを向けた先が、そこで急に柔らかくなって、でも消えなくて、胸の中に戻ってきた。爺ちゃんが死んだ時の悲しいより、もっと底の方にあるものが動いた。悲しいだけじゃない。嫌だだけでもない。寂しいだけでも、怖いだけでもない。名前がない。爺ちゃんに聞きたくても、もう聞けない。 「認めない。絶対に認めない。もう、帰れ!」  言ったのに、胸の中はちっとも軽くならなかった。帰れと言えば終わるはずだった。知らない男なら、それでいいはずだった。けれど、ヴァルクは知らない男ではなくなっていた。手紙は読めなかった。兄貴なんて分からなかった。それでも、型は爺ちゃんのところから来ていた。だから余計に嫌だった。帰れ。帰れ。帰れ。そう思うほど、帰ったら困るものまで一緒に出てくる。爺ちゃんを知っている男。おれの知らない爺ちゃんを持っている男。遅すぎる男。今さら来た男。全部いらない。全部いる。いらない。いる。分からない。熱いものが胸の奥で暴れて、喉まで上がって、でも言葉にならない。 「そうはいかん。爺さんに頼まれちゅう」  爺さん。その呼び方が、また胸を刺した。頼まれた。爺ちゃんは頼んだ。おれには言わなかったことを、この男には頼んだ。それも嫌だった。嫌なのに、型を見た後では、全部を嘘にできなかった。 「なら、こうしよう。俺と勝負せえ。おまんが勝てたら、俺は引き下がる。だが俺が勝ったら、今日から兄貴と呼べ」  勝てない。もう分かっている。さっき見た。型を見た。足を見た。腰を見た。鞘の先まで身体が通るのを見た。罠まで行けない。逃げてもたぶん追いつかれる。爺ちゃんの剣を抜いても勝てるか分からない。いや、分からないじゃない。勝てない。それでも、認めることはできなかった。帰れと言っても帰らない。手紙を捨てても帰らない。信用できないと言っても退かない。あいつの型なんか見たって、兄貴なんかじゃない。爺ちゃんは死んだ。爺ちゃんは戻らない。こいつは遅い。遅いのに、爺ちゃんから来ている。おれより強い。おれより知っている。おれより先にいた。そんな男を、兄貴と呼べと言う。  おれはヴァルクをにらんだ。息を吸った。 「本気で来い」  ヴァルクが言った。  おれの中で何かがはじけた。本気って何だ。本気になっていいのか。おれはこいつを殺したいわけじゃない。どうせこいつは殺せない。強い。爺ちゃんが死んで悲しい。ううん、悲しいより重い。こいつは遅れて来た。兄弟だ。兄貴だと言う。帰れ。帰らない。爺ちゃん、おれは。爺ちゃん、おれは。  手の中で、まだ息をしている爺ちゃんの剣が、やたら重かった。  爺ちゃん、おれは。  本気で、やる。 「うああああああああああああああああっ!」

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