ふみの世界樹 / 第49話

第四十一話 森の授業

 八月十七日、黒龍曜日。  林間学校の朝は、学院の朝とは違っていた。鐘の音ではなく、鳥の声で目が覚めた。遠くで小川の音がして、近くでは誰かが荷物を動かしている。テントの布越しに、朝の光が薄く入っていた。  体が重い。  昨日の移動とテント設営が、まだ足に残っていた。寝床はちゃんと作ったはずなのに、寄宿舎の寝台とは全然違う。起き上がるだけで、ふくらはぎと太ももが盛大に文句を言っている気がした。  外に出ると、森の朝は少し冷たかった。 「今日は、森の授業です」  オーレリアさんが、しおりを開いて言った。 「午前は行軍訓練。午後は山菜と木の実の採取、火起こしなのよぅ」 「もう全部大変そうです」 「全部大事なのよぅ」  オーレリアさんは、昨日より少しだけ楽しそうだった。記録することが多いからかもしれない。  レオナさんも、授業の場所に来ていた。昨日より顔色は良く見えたけれど、元気いっぱいというわけではない。服装は、野外用の狩猟服に替わっていた。裾は短く整えられ、腰には細い革帯が巻かれ、肩には薄い外套を掛けている。まだ、結ぶ先を決めかねているのか、小さなルナのマスコットを膝の上に置いて、こちらを見ている。ベイオベア卿とチャミーさん、護衛の兵士さん達は、学生達の輪には入らず、森の端に控えている。 「おはようございます」 「おはようございます、レオナさん」 「そういえば、ミコト様」 「はい」 「ミコト様は、ニンジャなのですか?」 「……ニンジャ?」  思わず聞き返してしまった。 「はい。和之国には、ニンジャという、壁を登ったり、姿を消したり、火を噴いたり、水の上を歩く人達がいると聞きました」 「いますね。……でも、少なくとも、わたしはニンジャではありません」 「そうなのですね。では、ニンジャに会ったことはありますか?」 「うーん、ニンジャって世を忍ぶから、たぶん会っていても分からないと思います」 「正体を知れば、殺されてしまいますか?」 「そういうことも、あるかも知れません」 「こわいですね」 「はい、ジークハルト先生よりも、こわいです」  そう言った直後、そのジークハルト先生の声が飛んだ。 「注目ッ!」  わたし達は、はっとして姿勢を正した。 「森の中では、ただ歩けばいいわけではない」  先生はそう言って、自分の背嚢《バックパック》の肩紐と腰帯を軽く叩いた。 「まず、背嚢を合わせろ。重さを肩だけで受けるな。肩で全部背負えば、すぐに潰れる。腰帯を締めて、重さの大半を骨盤で受ける」  骨盤、と聞いて、わたしは思わず自分の腰のあたりを見た。 「大半とは、どれぐらいですか?」  ハリスさんが質問した。 「理想は約八割だ」  オーレリアさんが直ぐに記録した。  「歩く時も同じだ。脚だけで前に出るな。腰を前へ運ぶ。骨盤から進むつもりで歩け」  ジークハルト先生は、数歩だけ歩いて見せた。大股ではない。けれど、迷いがない軍人特有の歩き方なのだと思う。 「ちゃんとしてる」  ヴァンさんが呟いた。いつになく真剣な表情だ。 「重い荷を背負う時は、少し前へ傾く。背嚢に後ろへ引かれるな。重心は低く、足裏全体で地面を踏め。踵だけで落ちるな。爪先だけで跳ねるな。足の裏で、地面をつかめ」  先生の靴が、土の上に静かに置かれる。ものすごく安定して見えた。 「歩幅は小さく、一定にしろ。大股で進もうとするな。最初は早く見えても、すぐに息が切れる。腕は大きく振るな。肘を軽く曲げて、体の近くで振れ。荷に体を振られるな」  ローティさんが、少しだけ自分の腕を振ってみた。 「振りすぎだ。それに脇を締めろ」  ヴァンさんとロイさんが言われた通りにしている。 「それでいい。おまえ達、スジがいいな」    ローティさんが、悔しそうな顔をしている。 「目は足元に落としすぎるな。足元ばかり見れば背が丸くなる。呼吸が浅くなる。背中と腰を痛める」  先生は、森の先を指した。 「三歩先を見る。十歩先も見る。これを交互に行え。三歩先で足場を見る。十歩先で地形を見る。泥、根、石、斜面、枝。先に見つけろ。見つけてから慌てずに踏み場所を選べ」  ハリスさんが、何度も頷いている。 「前の者との間隔も保て。近すぎれば、急に止まった時にぶつかる。離れすぎれば、列が切れる。自分の足元だけを見る者は、行軍では役に立たん」  その言葉は、少しだけ痛かった。わたしは、たぶん足元ばかり見てしまう。 「しいては社会でも役に立たん。自己中心的な者は視野も狭い。たかが行軍と侮るな」  つまり、自分のことで精一杯な人は、誰かの役には立てないってことなんだろう。でも、それはちょっと寂しかった。 「それから、水と塩だ」  ジークハルト先生は、今度は水筒を示した。 「喉が渇いてから飲むな。渇く前に飲め。小休止ごとに水を飲み、塩を取れ。足が重くなってからでは遅い」 「塩もですか?」  ハリエットさんが聞くと、先生は頷いた。 「汗で失う。水だけでは足りん」  それから先生は、自分の靴の踵を軽く叩いた。 「足の擦れも甘く見るな。踵、足指、靴の当たる場所。怪しいと思う者は、出発前に布を巻け。時間ならくれてやる。必要なら脂を薄く塗れ。小さな擦れを放っておけば、半日後には歩けなくなる」  歩けなくなる。その言葉で、わたしは自分の靴紐を見直した。 「森の中で強い者は、速く走る者ではない。最後まで歩ける者だ」  ジークハルト先生は、わたし達を見回した。 「今日は、それを覚えろ」 「分かった。剣と同じだ。最後まで立つ」  ヴァンさんが答えた。 「その通りだ。ヴァルクの教えか?」 「爺ちゃんだ」 「いい師に教わったな」  ヴァンさんが頷いた。心なしか微笑んでるようにも見えた。 「…では各員、準備せよ!」  号令を掛けた後、ジークハルト先生がレオナさんを見た。 「レオナ殿は、ここで待機だ。チャミー嬢達と共に、ここで帰りを待て」  冷たい言い方ではなかった。無理をさせないための判断なのだと分かる。でも、レオナさんは少しだけ俯いた。 「……みんなと、一緒にいたいです」  その声が聞こえた瞬間、ローティさんがテントの陰から何かを引っ張り出した。木材と布と縄で作った、手製の籠だった。昨日見た立派な屋根付きの籠とは違う。背中と腰を支える布が張られ、横に倒れないように簡単な囲いがある。持ち手は前後に伸びていて、二人でも担げる形になっていた。 「先生、あれが使えます」  ハリスさんが言った。 「俺とヴァンで持つ」  ローティさんも続けた。ヴァンさんも頷いた。 「駄目だ」  即答だった。空気が、すとんと沈み落ちた。  ローティさんは口を開きかけたけれど、言い返せなかった。ヴァンさんも黙っている。わたし達も、何も言えなかった。レオナさんだけが、膝の上で小さなルナのマスコットをそっと握っていた。ジークハルト先生は、籠の布を引き、結び目を確かめ、持ち手を強く揺すった。それから、支えの位置と、レオナさんの背中が当たる布を見た。それから、ヴァンさんとローティさんを見た。 「急造にしては悪くない。だが、生徒だけでは駄目だ」  先生はそう言って、後ろの持ち手を掴んだ。 「おまえ達は二人で前を持て。私が後ろを持つ」  ローティさんが、ぱっと顔を上げた。 「いいのか?」 「おまえ達、絶対に落とすな」 「はい!」 「分かった。……ハリス」 ヴァンさんは肩掛け鞄を外して、ハリスさんに差し出した。 「頼む」  ハリスさんは少しだけ中を確認してから受け取った。ルナは大人しく寝ているようだ。 「任された」  ヴァンさんとローティさんが、前の持ち手を取った。レオナさんは、少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく頷いた。 「ありがとうございます」 「礼はいい。乗って」  レオナさんは、手製の籠に乗った。先生が号令を掛ける。 「では全員、並べ。出発だ」   *  森の中へ入った。  訓練用の道は、道というより細い踏み跡だった。木の根が出ていて、落ち葉で地面が見えにくい。ジークハルト先生は時々足を止め、足の置き方や、斜面の下り方を短く教えた。レオナさんを乗せた籠は、列の先頭をゆっくり進んだ。ローティさんとヴァンさんは、思っていたより慎重だった。根の前で止まり、石を避け、曲がる時は声を掛け合う。ルートは先生が、その都度に指示してくれた。 「二時の方向へ進め」 「分かった」 「ヴァン、ここ少し登り坂」 「ああ」  レオナさんは、籠の中から真剣に森を見ていた。 「足元を見るだけでは遅い。先に見る。三歩先、十歩先、三歩先……」  レオナさんが小さく繰り返した。ジークハルト先生が少しだけそちらを見る。 「歩けない者も、見て覚えることはできる。それに、その位置だとより遠くまで見える」 「遠くまで……、何を見たらよいでしょうか?」 「イノシシが出没するかも知れないから、早期警戒を頼む」  レオナさんは、静かに頷いた。ちょっと嬉しそうだった。  途中で、ハリエットさんが何度か列の端に寄った。最初は、足元の草を見ているだけかと思った。けれど、ハリエットさんは湿った石のそばでしゃがみ込み、小さな苔をそっと置いていた。目立つ場所ではない。道の真ん中でもない。木の根の横や、石の影や、少しだけ土が盛り上がった場所。  それを、ひとつ。また、ひとつ。誰かに説明するでもなく、ハリエットさんは列が止まるたびに、同じようなことをしていた。森を歩く授業の中に、別の準備が少しずつ混ざっていた。  午前の訓練が終わる頃には、足がかなり重くなっていた。イノシシは出なかったけれど、ずっと緊張していたからか、レオナさんも少し疲れた顔をしていた。けれど、ただ見学している時より、ずっと満足そうだった。  昼食は軍隊の戦闘糧食《コンバット・レーション》だった。硬い保存パン、塩気の強い干し肉、乾燥野菜を固めたスープの素、それから小さな塩包み。おいしいかと聞かれると困る。でも、歩いた後の体には、妙にありがたかった。    *  午後は、採取実習から始まった。  ハリエットさんは、集めたものを食べられるもの、火を通せば食べられるもの、触らない方がいいものに分けていた。葉の形、茎の色、匂い、実の付き方。わたしにはほとんど同じに見えるものでも、ハリエットさんは迷わず選んでいく。  レオナさんは、座ったまま小さな籠を前に置いていた。ハリエットさんが持ってきた山菜や木の実を受け取り、教えられた通りに別々の籠へ移していく。 「これは、こちらですか?」 「はい。そちらは火を通せば食べられます。こちらの若葉は、そのままでも少しなら大丈夫です」 「では、この赤い実は?」 「それは食べません。色は綺麗ですけれど、お腹を壊します」  レオナさんは真剣に頷いて、赤い実を食べないものの籠へ移した。  周りでも、それぞれに森のものを集めていた。  イネヴェアさんは服の裾を気にしながらも、葉の形を一枚ずつ見比べ、食べられるものだけを小さな布に包んでいた。  クリスさんは採った実をすぐ籠に入れず、匂いを確かめ、葉と見比べ、それから慎重に分けていた。  アディさんは草むらの奥から戻ってきて、食べられる虫もあります、と小さく教えてくれた。エルフの森知識、奥が深い。わたしは、今は聞くだけにしておいた。  エインさんは、倒木の下や乾いた根元を覗き込んで、細い枯れ枝と火口に使えそうな乾いた樹皮を、大量に集めて持って来た。  ウォールさんはあまり喋らず、エインさんから受け取った大量の小枝や樹皮を黙々と束ねていた。細い枝、少し太い枝、湿っていて使えない枝を分けているらしく、言葉は少ないのに手元だけが妙に手際よく動いている。   フェルトンさんは色とりどりのキノコを両手いっぱいに抱えて戻ってきて、その半分ほどをハリエットさんに戻すよう言われて、悪態を吐いていた。  マリアンナさんは、採取しているというより、採取している人を見ていた。片手に取材帳を持ち、誰が何を拾ったか、誰が何を間違えたかを、楽しそうに書きつけている。  ロイさんは、かなり立派な枝を持って戻ってきた。 「これは使えるか?」 「今すぐ火を育てるには少し太すぎます。でも、あとで薪にできます」  ハリスさんがそう言うと、ロイさんは真面目な顔で頷き、その枝を薪の山へ置いた。  ローティさんは、細い蔓を何本も引きずって戻ってきた。結べそうなもの、すぐ切れそうなもの、乾かせば使えそうなものを、ハリスさんが横から見分けていく。オーレリアさんは記録しようとしていたけれど、採ったものを持つ手と、しおりに書く手が足りなくなって、途中からロイさんに持って貰っていた。  少し離れた木の上では、ヴァンさんが枝に足を掛けていた。いつ登ったのか分からないくらい静かで、幹に手を添え、鳥の巣のある枝まで身軽に移動している。巣の中を覗いたヴァンさんは、全部は取らず、卵を二つだけ布に包んで降りてきた。 「残したのですね」  ハリエットさんが言った。 「ああ。全部取ると、次がない」  ヴァンさんはそう答えて、卵を潰れないように小さな籠へ置いた。ちょっとした歓声が上がった。  レオナさんの前には、森のものが少しずつ集まっていった。山菜、若葉、木の実、キノコ、食用の花、細い根、乾いた樹皮、火口に使う綿毛のようなもの、薪にする枝、蔓、鳥の卵、アディさんが捕まえた甲虫と芋虫。食べるもの、火に使うもの、結ぶもの、触らない方がいいものが、同じ森の中から次々に出てくる。 「森には、こんなにたくさんのものがあるのですね」  レオナさんが目を輝かせながら言った。   *  小休止を終えると、次は火起こしの実習だった。ジークハルト先生は、乾いた木片、細い枝、火口、火打ち石を地面に置いた。 「先ずは小さい火種から作れ。いきなり太い薪を燃やそうとするな」  わたしも火打ち石を持ってみたけれど、うまくいかなかった。火花は出る。でも、火口につかない。ついたと思ったら消える。息を吹くと、今度は強すぎて消える。 「難しいです」 「火は難しいのよぅ」  オーレリアさんも、火打ち石を握ったまま困った顔をしていた。ロイさんは力を入れすぎて木片を割り、ローティさんは勢いよく火花を散らしていた。みんなが失敗する中で、ハリスさんは、わりと早く火種を作っていた。ヴァンさんはもっと早い。乾いた木を削って細い木屑を作り、火口を寄せる手つきに迷いがなかった。まるで生活の一部だったように、手慣れていた。  わたしは、火打ち石を持ったまま、自分の眼鏡に触れた。ふと前に旧塔で聞いた話を思い出した。 「これが老眼鏡だったら、点火に使えたのですが」 「ああ、ミコトさんの眼鏡では無理でしたね」  ハリスさんが言った。 「それは凹レンズですから、光を集めるのではなく、広げる方のレンズなので……」 「はい。ですから、やっぱり無理ですね」  わたしが肩を落とすと、レオナさんが遠慮がちに、そっと口を開いた。 「あの……、水を、使えばよいのではありませんか」 「水、ですか?」 「はい。錬金術の家庭教師から教わりました。硝子の上に小さな水滴を置けば、その水滴が、膨らんだ小さなレンズのようになる、と」  ハリスさんは、少し考えてから頷いた。 「なるほど。理屈は通りますね」 「どういう理屈ですか?」  わたしは思わず尋ねた。 「はい。眼鏡そのものは光を広げます。でも、水滴だけを見れば、小さな凸レンズになります。焦点距離は短いでしょうが、火口に近づけて試す価値はあります」  それで、試してみることになった。ハリエットさんが乾いた火口を寄せ、ハリスさんが日差しの当たる位置を見た。わたしは眼鏡を外し、片方のレンズに水筒から垂らした水を、一滴だけ乗せる。眼鏡を太陽に向けると、火口の上に小さな光が落ちた。 「もう少し右です」 「はい」 「そこで止めてください」  水滴が揺れる。手も揺れそうになる。焦点が定まらない。 「じっとして」  わたしの手に、ヴァンさんの手が重なった。正直、どきっとした。 「は、はい……」  どうせ、いつも優しいヴァンさんの、いつもの何気ない行動なんだと分かっているのに、わたしの乙女心は暴走気味になる。これはまずい。悟られまいて、光の焦点に意識を集中する。精神集中だ。そうこうしながら頑張っていても、しばらく何も起きなかった。けれど、やがて火口の端が少しだけ茶色くなった。 「あ」  細い煙が上がる。 「そのまま」  ヴァンさんが言った。わたしが動かずにいると、ヴァンさんが火口を取り、木屑を寄せて、そっと息を吹いた。赤い点が生まれ、すぐに小さな火になった。 「つきました」 「ついたな」  ヴァンさんが短く言った。わたしは眼鏡を掛け直した。ぼやけていた森の輪郭が戻る。レオナさんとハリエットさんが、小さく拍手をしていた。オーレリアさんは、すでにしおりへ書き込んでいた。 「眼鏡と水滴で、着火に成功。ちゃんと記録するのよぅ」 「そんなことまで、全部書くんですか」 「もちろん書くのよぅ。そんなことが、大切なことなのよぅ」   *  火起こしの実習が終わって、少し休憩になった。  ハリスさんのそばに置かれていたヴァンさんの肩掛け鞄が、もぞりと動いた。そういえば、行軍訓練の間からずっと、ルナは鞄ごとハリスさんに預けられていたのだった。鞄の口から、黒い耳が出た。 「ルナ」  わたしが小さく呼ぶと、ルナは耳を動かした。それから、鞄の中からするりと出て、地面へ降りた。ルナは地面に降りると、前足を伸ばして、ゆっくり背中を反らした。それから落ち葉の匂いを嗅ぎ、火起こしの場所から少し離れるように歩き出す。  ヴァンさんは、何も言わずにその後ろ姿を見ていた。追いかけるわけではないけれど、目は離していない。ハリスさんも、預かっていた鞄の口を整えながら、ルナがどちらへ行くのかを見ていた。  ルナは、わたし達の足元を少し歩いてから、不意に立ち止まった。その先に、レオナさんがいた。レオナさんは籠の椅子に座ったまま、小さなルナのマスコットを膝の上に置いていた。さっきまで火の方を見ていたはずなのに、今は本物のルナから目を離せなくなっている。 「ルナさん……」  レオナさんが、小さく呼んだ。ルナは返事をしなかった。ただ、黒い耳を少し動かして、じっとレオナさんを見ている。 「触っても、大丈夫でしょうか」  レオナさんが、ヴァンさんに聞いた。ヴァンさんは、ルナを見たまま答えた。 「ルナが決める」 「ルナさんが?」 「ああ。嫌なら逃げる」  レオナさんは、すぐに手を伸ばさなかった。膝の上に置いていた小さなルナのマスコットをそっと横に寄せ、両手を膝の上で重ねる。そのまま、ルナが来るのを待った。ルナは少しだけ首を傾けた。  一歩、近づく。そこで止まる。  また一歩、近づく。またそこで止まる。  レオナさんは息を止めているようだった。わたし達も、誰も声を出さなかった。森の中の鳥の声と、少し離れた場所で誰かが小枝を片づける音だけが聞こえていた。ルナは、レオナさんの靴の近くで匂いを嗅いだ。それから椅子の脚に、すり、と体を寄せた。 「来ました……」  レオナさんの声は、本当に小さかった。 「手」  ヴァンさんが言った。 「下から」  レオナさんは頷いた。ゆっくりと手を下げる。上から覆うようにではなく、ルナの顔の近くへ、そっと指先を差し出した。  ルナは、その指先を嗅いだ。くん、と小さく鼻を鳴らす。そして、逃げなかった。レオナさんの指先が、ルナの頭に触れた。 「……ふわふわです」  レオナさんが言った。ルナは目を細めて、もう一度、レオナさんの足元に体を寄せた。レオナさんは、壊れやすいものに触れるみたいに、そっとルナの頭を撫でる。 「あたたかいです」    ヴァンさんは何も言わなかった。ただ、ルナとレオナを見ていた。 「ルナさん」  レオナさんが、もう一度名前を呼んだ。 「みー」  ルナが、短く鳴いた。レオナさんは、ぱっと顔を上げた。 「お返事、してくれました」 「したな」  ヴァンさんが言った。  レオナさんが微笑んだ。 「はい。お返事、してくれました」

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