ふみの世界樹 / 第33話

第二十九話 跳べ

「これ」  声が、小さく出た。 「どうやって渡るんですか?」  通路は、途中で途切れていた。こちら側の床と、向こう側の床。その間には、大きな切れ目がある。下は見える。ここまで登ってきた高さが、そのまま足元に落ちている。たぶん、四階くらい。もしも転落したら、きっと助からない。 「跳ぶしかないな」  ロイさんが言った。 「跳ぶんですか」 「他に道がない」  ロイさんは向こう側を見た。ハリスさんがロープを手繰る。ヴァンさんが後ろで弛みを取る。ロイさんが一度だけ頷いた。それだけだった。ロイさんが一歩下がる。走る。床の端を蹴る。  跳ぶ。  体が空中に出る。足元には何もない。ロープが張って、ハリスさんとヴァンさんの腕に力が入る。ロイさんの足が、向こう側の床に届いた。片膝をつく。けれど、落ちなかった。 「着いた」  ロイさんはすぐに立ち上がり、向こう側でロープを握った。壁の欠けた石にロープを回し、片手で押さえる。 「次」  ハリスさんが言った。自分のことだった。ハリスさんはロープの長さを見た。ヴァンさんが頷く。ハリスさんも頷き返す。すぐに跳んだ。ロイさんほど大きくは跳ばない。けれど、無駄がない。着く場所を決めて、そこへ体を運ぶみたいな跳び方だった。ロイさんが腕を伸ばす。ハリスさんの手を掴む。ハリスさんは向こう側へ膝をつき、そのまま床へ上がった。 「問題ない」  ハリスさんが言った。 「次、ハリエット」 「うん」  ハリエットちゃんは小さく頷いた。ロープの長さを整える。息を整える。向こう側で、ハリスさんとロイさんが手を伸ばす。ハリエットちゃんは床の端を蹴った。ふわり、と軽く見えた。それでも、下は四階分ある。ハリエットちゃんの手が、ハリスさんの手に届く。ロイさんも腕を伸ばして、肩を支える。ハリエットちゃんは向こう側へ渡った。 「大丈夫です」  次は、オーレリアちゃんだった。オーレリアちゃんは手帳を抱えたまま切れ目を見る。 「手帳は」  ロイさんが言った。 「持っていくのよぅ」 「両手を空けた方がいい」 「……分かっているのよぅ」  オーレリアちゃんは不満そうに、手帳をヴァンさんに渡した。 「ん。預かる」  頷くと、オーレリアちゃんは前に出た。一度だけ深く息を吸う。そして、跳んだ。高くはない。綺麗でもない。けれど、ちゃんと前へ跳んだ。ロープが張る。ロイさんが引く。ハリスさんが支える。オーレリアちゃんの足が向こう側の端に当たり、少し滑る。 「オリィ!」  ロイさんの腕が、オーレリアちゃんを抱き留めた。オーレリアちゃんはロイさんの服を掴んだまま、しばらく動かなかった。そっか、そういう時は、オリィって呼ぶんだ。ちょっと羨ましくなった。 「大丈夫か」 「全然平気、ロイ様は大げさなのよぅ」  次は、わたしだった。 「……はい」  誰にも呼ばれていないのに、返事をしてしまった。足が動かない。見なければいいのに、見てしまう。下がある。高さがある。落ちたら助からない。考えるほど、体が固まっていく。向こう側で、ハリスさんがロープを引いた。 「ミコトさん、少し前へ」 「はい」  声が少し裏返った。向こう側で、ハリエットちゃんが手を伸ばしている。ロイさんも、オーレリアちゃんも見ている。ハリスさんはロープを握っていた。こちら側には、ヴァンさんがいる。背中を見られている。 「ミコト」  ヴァンさんが言った。 「下を見るな」 「見てません」 「見てる」 「……はい」  見ていた。すごく見ていた。 「前だけ見ろ」  前。向こう側。ハリエットちゃんの手。そこだけを見ればいい。分かっている。分かっているのに、足が動かない。わたしは、運動が得意ではない。跳ぶのも得意ではない。体力も筋力も瞬発力もない。さっきだって、ほとんど引きずり上げてもらった。そんなわたしが、四階分の高さの上で、通路の切れ目を跳ぼうとしている。どう考えても向いていない。 「ミコト」  ヴァンさんの声は短かった。 「跳べ」  それだけだった。大丈夫だとも、怖くないとも言わなかった。跳べるとも言ってくれなかった。  跳べ。  ただ、それだけ。わたしは、ハリエットちゃんの手を見た。落ちたら助からない。でも、落ちないようにしてくれている人達がいる。跳べる跳べないじゃない。跳ぶしかない。当たり前の事だ。ヴァンさんは、いつも当たり前のことを、当然のように言う。それがすごい。やっぱり跳ぶしかない。跳ぶしかないかぁ。わたしは覚悟を決めた。 「……ミコト、行きます」  床を蹴る。跳んだ。下が、視界の端に入った。でも見ない。見たくない。足が空中に浮く。体が前へ進む。届かないかもしれないと思った。次の瞬間、腰のロープが引かれる。 「ミコトさん!」  ハリエットちゃんの手が、わたしの手を掴んだ。ロイさんの腕が、わたしの肩を支える。膝が向こう側の床にぶつかった。 「っ」  痛い。でも、床だった。わたしは床にしがみついた。相当みっともない気がした。 「着いた……」  それだけ言うと、力が抜けた。 「大丈夫?」  ハリエットちゃんが聞く。 「はい。たぶん。膝は、あとで痛くなると思います」 「今は痛くないの?」 「今は、怖い方が勝ってます」  ハリエットちゃんが小さく笑った。最後に、ヴァンさんが残った。オーレリアちゃんの大きな手帳を抱えている。ヴァンさんは、切れ目の手前に立つ。距離を見る。足場を見る。下も見る。上も見る。きっと色々と何かわたしの分からないところまで見て、考えている。 「ヴァンさ…」  わたしが呼び終える前に、ヴァンさんは跳んでいた。速かった。一歩で床を蹴って、体が空中を渡る。ロープが張るより先に、ヴァンさんの足は、こちら側の床を捉えていた。片手を床につき、そのまま立ち上がる。 「……すごい」  思わず言ってしまった。ヴァンさんは少しだけ首をかしげた。 「跳んだ。それだけ」  それがすごいのだと思ったけれど、言ってもたぶん伝わらない。ヴァンさんは、預かっていた手帳をオーレリアちゃんへ返した。オーレリアちゃんはそれを受け取ると、すぐ胸元へ抱えた。  全員が、切れ目を渡った。でも、通路はまだ続いていた。古い石の壁。細い床。低い天井。窓はない。空気は重い。石の匂いに、何か古い紙の匂いが混ざっている。わたし達は、ロープを結んだまま進んだ。誰も、もう軽口を叩かなかった。また、先頭のロイさんが止まった。 「またか」  前を見る。通路が、また途切れていた。今度は、さっきよりずっと長い。向こう側の床は見える。けれど、遠い。勢いをつければ届くかもしれない、という距離ではなかった。人が跳んで渡れる距離ではない。 「無理だ。オレでも届かない」  ロイさんが言った。ヴァンさんも、無言で切れ目を見ていた。 「ヴァンさんは」  聞きかけて、途中で止まった。ヴァンさんは首を横に振った。 「これは無理だ」  ハリスさんがしゃがんで、切れ目を睨む。ロイさんでも無理。ヴァンさんでも無理。なら、誰にも跳んで渡るのは無理だ。ハリエットちゃんは黙ってロープを握り直した。オーレリアちゃんは、手帳に何か書き込んでいる。  皆が沈黙している中で、ハリスさんが、床の端を指先でこすった。古い石の欠けたところから、白っぽい粉が少し落ちる。  落ちるはずだった。  けれど、その一部が、何もない空中で止まった。 「あれ? 今……」  わたしが言うと、ハリスさんがすぐにその場所を見た。ヴァンさんも目を細める。白い粒が、何もないはずの空中に乗っている。 「ロイ、石を少し削れるか」 「できる」  ロイさんが壁の欠けたところを刃で削った。白い粉が落ちる。ハリスさんはそれを受け取ると、切れ目の上へそっと撒いた。粉のいくつかが、空中で止まった。点々と、何もない場所に並んでいる。 「道、なのよぅ?」  オーレリアちゃんが小さく言った。 「たぶん」  ハリスさんはそれ以上、説明しなかった。見えない道がある。今は、それで十分だった。 「先頭はそのままロイ。粉を撒きながら進め」 「分かった」  ロイさんは粉を受け取ると、切れ目の前に立った。少しずつ粉を撒く。白い点が空中に止まる。その上へ足を置く。落ちなかった。小さく、床を踏む音がした。ロイさんはそのまま、一歩ずつ進んだ。粉を撒き、点を見て、足を置く。見えないだけで、そこには道があった。ロイさんが向こう側へ着くと、ロープを引いた。 「来い」  次にハリスさんが渡った。続いて、ハリエットちゃん、オーレリアちゃん。みんな、粉の点だけを見て進んだ。わたしの番になった。下は見ない。粉だけを見る。  そう決めたのに、足はなかなか前に出なかった。何もない空中に足を出すようにしか見えない。でも、白い点はそこにある。そこに道がある。 「ミコトさん、大丈夫です」  向こう側から、ハリエットちゃんが手を伸ばした。 「粉だけ見てください」 「はい」  白い点を見る。その下は見えていても意識しない。足を出す。床があった。ちょっと安心する。次の点を見る。また足を出す。床があった。ちょっと安心する。それだけを繰り返した。最後の一歩で、ハリエットちゃんの手を掴んだ。引かれて、見える床の上に立つ。 「渡れた……」 「はい。渡れました」  ハリエットちゃんが小さく頷いた。最後に、ヴァンさんが渡った。粉の跡を確かめるように、一歩ずつ、音も立てずに進んでくる。全員が、二つ目の切れ目を越えた。  そこから先は、空気が変わった。通路は少し広くなり、壁の石も古くなったように見えた。ところどころに、削れた模様がある。星の形にも見えるし、ただの傷にも見える。階段と通路、そしてまた階段と通路を奥へ進む。ロープはまだ外さない。  いくつかの短い通路と階段を越えた先、最後の階段を登りきると、扉のない部屋に出た。塔の最上階にある、広い部屋だった。周囲の壁に窓は無かった。天井は高く、硝子張りの天窓があった。太い梁が渡っている。その間に、大きな円形の枠があった。たぶん、開く仕組みになっている。けれど今は、ぴったりと閉じていた。金具も、硬く噛み合ったまま動きそうにない。雨が漏れてきた様子はなかった。  そこから星明かりが差し込んでいて、部屋の中はぼんやりと明るかった。部屋の中央には、梯子のような、柱のような、二本の高い支え台が残っていた。ただの台座ではなかった。床から高く立ち上がり、上の方には太い梁が渡っている。ところどころに古い金具の跡があった。昔は、そこに何か長くて大きなものが斜めに置かれていたのだと思う。 「望遠鏡か」  ハリスさんが小さく言いながら、ロープを外す。皆も続いた。 「大型のものだったみたいなのよぅ」  オーレリアちゃんが周りを見た。肝心の望遠鏡は、どこにもなかった。壁際には棚があった。けれど、中は全て空っぽだった。昔は記録や星図のようなものが収められていたのかもしれない。でも、今は何も残っていない。    床に染みはない。埃は、古いまま静かに積もっている。長い間、誰も来ていない場所に見えた。けれど、部屋の奥だけが違った。二本の支え台から少し外れた、傍らの床。そこに、一冊の本が置かれていた。床に、直接。古い本だった。表紙は黒ずんでいて、題名は読めない。金具は錆び、角は擦り切れている。けれど、その本だけ、埃をかぶっていなかった。まるで、誰かがさっきそこに置いたみたいに。でも、そんなはずはない。ここまでの道は、誰かが簡単に来られる場所ではなかった。  ヴァンさんが、皆より一歩前に出る。ハリエットちゃんが、すぐに言った。 「それに触らないで」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳