ふみの世界樹 / 第29話

第二十五話 開かずの間

 夕方の湖は赤かった。とても赤かった。  昼間ならキレイだと思えたかもしれない。水面に夕日が広がって、風が吹くたびに細かくほどけて、赤い光がきらきら揺れている。けれど、わたしはその色を見ていると、胸の奥が少しずつ重くなっていくのが分かった。  あの日は朝だったけれど、水の中に沈んだあの日のこと、あの色を思い出してしまう。冷たい水の中で、どちらが上か分からなくなった。息をしたくても出来なくて、手を伸ばしても何にも届かなくて、自分の体が自分のものではなくなっていくような感じがした。みんなにとっては、ここは単に事故のあった場所なのだと思う。けれど、わたしには心細くなる場所、まだ水の冷たさが戻ってくる場所だった。  その桟橋の先に、フェルトンさんがいた。  湖を見ている。けれど、ただ見ているのとは少し違う気がした。眺めているのではなく、睨んでいる。怒っているようにも見える。でも、怒っているだけの人は、あんなふうに動かず立っていられるのだろうかと思った。 「最近あいつ、よくここにいる」  ローティさんが言った。  わざわざここに来ているのに、フェルトンさんは少しもここにいたそうに見えなかった。嫌なら来なければいいのに、と思いかけて、わたしは何も言わなかった。嫌なのについつい見てしまう場所は、たぶんある。  ヴァンさんとハリスさんとローティさんが先に桟橋へ進んだ。わたしは少し後ろからついていく。板がぎし、と鳴る。湖の上を渡る風が、制服の裾を揺らした。 「フェルトン」 「……何だ」  返事は早かった。でも、フェルトンさんは湖から目を離さなかった。 「聞きたいことがある」 「断る」 「まだ何も言ってねえだろ」  ローティさんが顔をしかめる。 「お前達と話すことは無い」  フェルトンさんがようやく振り返った。  口はきつい。顎も上がっている。人を見下すことに慣れている顔だった。オーレリアちゃんから、ブラスシルド家は三大貴族だと聞いたことがある。フェルトンさんは、それを傘に着ている。わたしにも分かるくらい、分かりやすく、偉そうにしている。けれど、わたしはその顔だけを見ていることが出来なかった。さっきまで湖を睨んでいた横顔が、頭の中に残っていたからだ。 「開かずの間のことだ」  ハリスさんの聞き方は冷静だった。 「知らん」  早すぎる、と思った。  本当に知らない人の早さじゃない気がした。知らないなら、何の話だと聞き返してもいい。何故そんなことを聞くのかと怒ってもいい。けれど、フェルトンさんは、まるでその言葉を聞きたくなかったみたいに、すぐに切った。 「前、扉の前にいたろ。それに、ここも気にしてる」  ローティさんが言った。 「何かあるのか? 知ってることがあるなら教えろ」  ローティさんは悪気なく踏み込む。たぶん、本当に知りたいだけなのだと思う。でも、その言い方を聞いた瞬間、フェルトンさんの目つきが変わった。 「命令するな」  声が低い。 「誰にものを言っている」 「そういう話じゃない」  ハリスさんが言う。 「お前が何か知ってるなら、聞きたいだけだ」 「知っている? 僕が? お前達ごときに話すことを?」  フェルトンさんは鼻で笑った。  けれど、見ているうちに、少し変な感じがした。フェルトンさんは、扉みたいだった。開けてはいけないと自分で決めて、鍵を掛けて、その前に立っている。外から叩くと、余計に閉まる。  偉そうにしている時の方が、むしろ安心しているように見える。  家の名前を出せる時、人を見下せる時、誰かを遠ざけられる時、フェルトンさんは形を保っている。でも、湖や開かずの間の話になると、その形が少し崩れる。言葉より先に、目が揺れる。肩が固くなる。袖を掴む指に力が入る。  怒っているだけじゃない。  何かを怖がっているように見えた。 「フェルトンさん」  気付いたら、わたしは声を出していた。  フェルトンさんがこちらを見る。 「……何だ。和之国の留学生」  わたしは、うまく言えなかった。  わたしも怖かったです、と言えばいいのかもしれない。でも、それでは軽すぎる気がした。わたしの怖さと、フェルトンさんの嫌悪感を、同じものだと決め付けてしまうみたいだった。けれど何も言わなければ、この人はずっと閉じたままなのだと思った。 「わたし、ここで溺れました」 「知っている」 「だから、ここを見ると、少し苦しくなります」 「一緒にするな」  すぐに返ってきた。  でも、その声はさっきより小さかった。怒らせたのか、届いたのか、わたしには分からなかった。ただ、まったく届かなかった声ではない気がした。 「フェルトン君」  ハリエットちゃんの声がした。その声で、空気が少し変わった。わたしでは開かなかったところに、手が掛かった気がした。フェルトンさんの目が、ハリエットちゃんを見る。わたしを見る目とも、男子達を見る目とも違う。そこに線があるのが分かった。ハリエットちゃんが九大貴族の家名を持つ女の子だからなのだと、たぶんそういうことなのだと思う。 「……お前まで来たのか」 「はい。少しだけ、お話を聞かせてください」 「別に、何も知らん」 「知っていることではなくてもいいです」  ハリエットちゃんは責めなかった。無理に扉を開けようとしていない。ただ、扉の前に立っている。 「嫌なら、嫌でいいんです。どう嫌なのかを、教えてほしいんです」  フェルトンさんは黙った。  風が吹いて、湖の赤が揺れる。桟橋の板が小さく鳴った。 「……開かずの間」  フェルトンさんが低く言った。 「あそこは嫌だ」  ほんの少しだ。  でも、閉じていたものが少しだけ動いた感じがした。 「何があるんだ?」  ハリスさんが聞く。 「知らん。答えを知っていたら、とっくに言っている」  フェルトンさんは苛立っていた。けれど、その苛立ちは、わたし達だけに向いているようには見えなかった。説明できない自分にも腹を立てているように見える。 「ただ、嫌なんだ」  嫌。  その言葉だけが本当っぽかった。他の言葉より、ずっと裸に聞こえた。 「湖も同じだ」  背中が冷える。  わたしが怖いのは、溺れたからだ。でも、フェルトンさんの嫌悪は、それだけではない。 「事故があったからじゃない。そんなのは誰でも知っている」  フェルトンさんは湖を睨んだ。 「残ってるんだよ」  残っている。  その言葉が、胸の奥に引っかかった。水の底に、まだ何かが沈んでいるみたいだった。沈んだものが、ずっとそこにあって、見えないだけで、消えてはいないみたいだった。  わたしも、何かを残してきたのだろうか。  考えかけて、胸の奥が嫌なふうに縮んだ。フェルトンさんの言った「残ってる」は、たぶん、わたしのそれとは違う。違うはずだ。それなのに、嫌な場所を、ついつい見てしまう感じだけは、少しだけ分かってしまう気がした。  けれど、分かった気になってはいけない。この場所で何が残っているのか、フェルトンさんも知らない。わたしも知らない。急いだ方がいい。前にも、そう思った。でも、急いでいるからこそ、間違えられなかった。怖いから走るのと、必要だから急ぐのは違う。何かがあると思うだけで扉を開けて、もし違っていたら。もし、もっと悪いことになったら。 「何が?」  ローティさんが聞いた。 「知らんと言っているだろ」  フェルトンさんは吐き捨てた。 「だが、碌なものじゃない」  言ってから、フェルトンさんはすぐに後悔したような顔になった。自分で開けた扉を、自分で閉め直すみたいだった。フェルトンさんは歩き出した。去り際、ローティさんの肩にぶつかる。 「うおっ」 「邪魔だ。どけ」  フェルトンさんは振り返らなかった。  残されたわたし達の間に、しばらく水の音だけが残った。 「湖と開かずの間」  ハリスさんが言った。 「同じ種類の何かがある、ってことか?」  ローティさんが肩をさすりながら言う。  開かずの間が怪しいと思う。けれど、それはわたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれない。フェルトンさんの言葉に引っ張られて、あの日の湖を思い出して、怖い方へ考えているだけなのかもしれない。だから、わたしは心の中で女神様に尋ねた。  開かずの間が怪しいと思うのです。  でも、答えはなかった。風が吹く。湖が揺れる。わたしの胸の奥で、何かが焦れていく。  教えて。 『……開けて』  聞こえた。  耳ではない。けれど、確かに聞こえた。  息を吸う。 「開かずの間」  声が震えないようにした。でも、自分でも驚くくらい、はっきり出た。 「多分、あそこに何かあります」  ハリスさんが頷いた。 「本格的に調べるか」 「でも、入れねえぞ」  ローティさんが言う。 「鍵、掛かってるし」 「鍵がいる」  ハリスさんが言った。  少し、沈黙が落ちた。  わたしはヴァンさんを見た。みんなが逡巡して、迷う中で、ヴァンさんの目には何も迷いがないように見えた。 「おれが取ってくる」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳