琥珀 / 第2話

2 困惑

「ねえ、お母さん。なんであの子は耳が生えてるの?」 「あの子?何処のこと言ってるの?」 「ほら、見て。あそこ」 「ブランコで遊んでる子?」 「ううん、その横にいる子」 「雪音、ブランコで遊んでいる子が2人いるわよね。その子のことを言ってるの?」 わたしは首を横に振った。「違うよ、その横でジャンプしてる子。耳が生えてる子だよ」 母親は、わたしが指を差す方向を目を細めて見た。1度ギュッと目を閉じ、また確認する。 「・・・誰もいないじゃない。なんのこと言ってるの?」 「ほら、あそこだよ!」母親の腕を引っ張り訴えたが、反応は同じだ。 「あー、雪音、幽霊が見えてるのね?きゃー!お母さん怖い〜」 「あっ、待ってお母さん!」ふざけて逃げる真似をする母親を、わたしは追った。 シッカリと手を掴み、後ろを振り返る。 公園のブランコでは2人の女の子が遊んでいる。その横の支柱には、2人を見ながら楽しそうに飛び跳ねている子が"1人"。ピンと立った大きな耳が可愛いなぁと思った。 なんでお母さんには見えないんだろう。歩きながら母親を見上げ、口を開きかけたが、とどまった。その時は、子供ながらに察していたのかもしれない。 これ以上、何か言ってはイケナイということを。 それが、小学1年生の時、母親とスーパーの帰り道に通り掛かった公園で見た、"最初"だった。 それからは、しばらく見ることもなかった。 子供の良いところは、物事に対して純粋なところだ。忘れられる純粋さ。 頭の片隅に残っていたその日の記憶も、時間と共に忘れていった。 "次"の時は、決して忘れられない。 あれはわたしにとって、人生で1番最悪な出来事だったといっても過言ではない。 小学2年生になった夏休みのある日、わたしは入学した時から仲良しの未来(みらい)ちゃんと、未来ちゃんの家で宿題をやっていた。 7歳やそこらのやんちゃ盛りの子供に集中力なんてものがあるわけもなく、わたし達は早々に切り上げて、近所の公園に向かうことにした。 わたし達の通う学校には遊具が少ないせいもあって、その公園にはいつも近所の子供達が集っていたが、その日は誰もいなかった。 ちょうどお昼時というのもあったのか、わたしと未来ちゃんは貸切状態の公園をここぞとばかりに堪能した。 シーソーから始まり、ブランコのジャンプ競争。鉄棒では、どっちが長くぶら下がっていられるかの勝負。滑り台は、登っては滑るの繰り返しで、追いつかれたほうの負けだ。 最終的に、全部わたしの勝ちだった。 正直言うと、力の半分ほどしか出していなかった。 小学校に入学してからの体育の授業や、運動テストは、人に負けたことがない。 足の速さに関しては、男女問わず学年1位だ。 未来ちゃんもそれはわかっていて、それでも、負けたら悔しいのが子供だ。 未来ちゃんの提案で、最後はジャングルジムのてっぺんに最初に登ったほうが勝ち競争が開催された。 スタート地点は、ジャングルジムから1番離れた砂場。 よーいドンでスタートを切ったたわたし達は、ほぼ同時にジャングルジムに辿り着いた。 ─── あれ・・・? わたしのほうが早いのに? 1段2段と、リズミカルにかけ登る。5段目に足を乗せ、頂上に手をかけたのは、ギリギリわたしだった。 「あともうちょっとだったのにぃ〜〜」悔しそうな未来ちゃんは息絶え絶えだ。 「やった〜」喜んで、自分も相当息が切れていることに気づいた。 ── おかしいな、いつもこれくらいじゃあ何ともないのに。 「あ〜あ、やっぱ雪音ちゃんには勝てないなぁ・・・」未来ちゃんは向き直り、頂上の鉄パイプに腰掛けた。わたしも真似をする。 そして── 気づいた。 足に"いる"、何か。人間、あまりに驚くと声って出ないんだ。 「だれ?」その時のわたしは、意外と冷静だった。いや、わかっていなかったからか。 「ん?だれ?なにが?」 わたしは、わたしの左足にしがみついている子を指差した。「この子」 未来ちゃんはわたしの足を見て、首を傾げた。「この子?」 「うん、ほら、見て」 「え?誰もいないよ?何言ってるの?」 その時ふと、お母さんを思い出した。 "誰もいないじゃない。何言ってるの?"あの時と同じだ。お母さんと同じで、未来ちゃんにも見えていない。 それと同時に気づいた。——この子、あの時の子だ。膝丈の赤い着物に、大きな耳。近くで見ると、とても身体が小さい。 「ねえねえ、名前は?」わたしの問いかけに、反応はない。こちらも見ない。 「雪音ちゃん、誰と話してるの?」 その時のわたしには、素直に答えること以外出来なかった。「この子だよ」また指を差すが、未来ちゃんの反応は同じだ。 「変なの。誰もいないのに」 「いるよ。雪音の足にぶら下がってる」 さすがの未来ちゃんも怖くなったのか、顔が少し強張った。「・・・未来、帰るね」未来ちゃんがジャングルジムから降りようとする。 「あっ、待って!雪音も帰る!」わたしが足を動かすと、その子はわたしを掴む手にギュッと力を入れた。「離して!」引き剥がそうと手を伸ばした瞬間、その子はわたしを見た。目が赤く光る。そして次の瞬間、わたしの足からジャンプした。 「キャッ!!」叫んだのは、未来ちゃんだ。 その子は、未来ちゃんの背中に飛び移ったのだ。「えっ!なに!?」 未来ちゃんの首にぶら下がり、ケラケラ笑いながら、足をジタバタさせている。── 落とそうとしているんだ。 未来ちゃんは後ろの違和感を拭おうと、鉄パイプを掴んでいた両手を離した。 そこからは、スローモーションのように見えた。 背中から、落ちていく未来ちゃん。 わたしは手を伸ばし、未来ちゃんの手を掴もうとする。 手が触れそうになり、よし!掴・・・・・ 鈍いと音と共に、響き渡る悲鳴。 握り締めたわたしの手には、何も無い。 しばらく、動けなかった。仰向けに横たわる未来ちゃんを、見下ろすわたし。 笑い声で、我に返った。その子は、未来ちゃんの頭の上から、わたしの反応を楽しむかのようにケラケラと笑っている。 一気に、怒りが込み上げてきた。ジャンプして飛び降りる。わたしが未来ちゃんに駆け寄ると、その子は走って林のほうへ逃げていった。 笑いながら。 追いかけようとしてグッと留まる。 未来ちゃん。 「未来ちゃん!大丈夫!?」未来ちゃんは後頭部を押さえながら、泣き叫んでいる。「頭が痛いの!?」ソッと頭に触れると、違和感を感じた。 「あ・・・あっ・・・」手の平が赤く染まる。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。 ─── 誰か・・・。 周りを見渡すが、誰もいない。 誰か、助けて。 このままじゃ、未来ちゃんが死んでしまう。 わたしは公園の入り口まで走った。誰でもいい、会った人に助けを求めれば──。 入口の柵を跳び箱のように飛び越え、歩道に飛び出した。そして、見つけた。1人、2人、3人。わたしは1番近くにいる人に駆け寄った。 「助けてください!!」 ネクタイをしてる、おじさんだった。 電話をしていた相手に、かけ直すと言って切る。 「どうしたの?」 「未来ちゃんが、ジャングルジムから落ちて・・・血が・・・」わたしの手の血を見て、おじさんは顔をしかめた。辺りを見渡す。「ジャングルジムって、この公園のことかな?」 うんうんと頷き、未来ちゃんの元へ案内する。おじさんはわたしのあとをついてきた。 遠目で未来ちゃんを確認したおじさんはわたしを追い越し、走った。わたしも必死で追いかける。 未来ちゃんの横に膝をつき、顔にソッと手を当てる。「大丈夫?頭打ったんだね。動いちゃ駄目だよ」 未来ちゃんはさっきより落ち着いていたけど、声を出さずに泣いている。 おじさんは上着のポケットから先程の携帯を取り出し、電話をかけた。 未来ちゃんの状態と、場所の説明をして終わらせる。 「キミはこの子の友達だよね?」 わたしは頷いた。おじさんにハンカチを渡され、初めて自分が泣いていることに気づいた。汗と共に涙を拭う。そのあと、血も。 「この子の家の電話番号はわかるかい?」 ぶんぶんと首を横に振る。 「そうか、じゃあ家は?」頷くと、おじさんは良かったと言い、また上着から何か取り出した。四角い紙をわたしに持たせる。「いいかい?今からこの子の家に行って、お母さんにこの事を言うんだ。そして、この紙に書いてある携帯番号に電話するように伝えてくれるかな」 わたしは頷き、すぐ走り出した。 幸い、未来ちゃんの家はすぐそこだ。死に物狂いで、向かう。 チャイムも鳴らさず、玄関のドアを開けて靴を脱ぎ捨て、リビングへ駆け込む。 未来ちゃんのお母さんは、ソファーでコーヒーカップを片手にテレビを見ていた。わたしの登場にギョッとする。 「わっ、ビックリした。雪音ちゃん?どうしたの?」 息が切れていて、うまく喋れない。そんなわたしを見て、ただ事ではないと察知した未来ちゃんのお母さんが、私の元に駆け寄る。 「ちょっと・・・泣いてるの?どうしたの!?」 「未来ちゃんが・・・」 未来ちゃんのお母さんは、わたしが持っているハンカチを見ると、みるみると顔が蒼くなった。私の腕をグッと掴む。 「未来に、何があったの?」 「ジャングルジムから落ちて・・・血が出て・・・」 「どこから血が出てるの?」 「あたま・・・」 未来ちゃんのお母さんの行動は早かった。テーブルから携帯を取り、そのまま玄関へと走る。 「あっ、待って!これっ・・・」おじさんから頼まれた紙を渡そうと追いかけるが、もう家を出ていた。わたしも後を追いかける。 玄関前の段差で1度派手に転んだが、痛みは感じなかった。すぐ立ち上がり、走った。 公園に着くと、入り口に救急車が停まっていた。未来ちゃんの周りを数名の救急隊員が囲んでいるのが見える。 わたしが近づくと、さっきのおじさんに肩を掴まれた。 「大丈夫だよ、今診てもらってるから。ここで待とう」 その様子を、未来ちゃんのお母さんが隊員の後ろから心配そうに見ている。 しばらくして、未来ちゃんはタンカーに乗せられた。頭には包帯が巻かれ、もう泣き止んでいる。ゆっくりと、救急車へ運ばれていった。 未来ちゃんのお母さんはおじさんの元へ来ると、何度も何度も頭を下げて、お礼を言っていた。 「雪音ちゃん、あなたはお家に帰りなさい。いいわね?」 わたしは、頷くしか出来なかった。 サイレントと共に去っていく救急車を、見えなくなるまで目で追いかけた。 頭に何かが触れ、見上げると、おじさんがわたしに微笑んでいた。「大丈夫だよ。おじさんの友達はね、子供の頃、もっといっぱい血が出たんだけど、ちゃんと元気になったから。キミの友達も元気になるよ」 その言葉を聞いて、凄く安心した。 「それより・・・」そう言うと、おじさんはわたしの手からハンカチを抜き取り、近くの水道へ向かう。戻ってくると、濡れたハンカチでわたしの手を拭いてくれた。そして、ある事に気づく。「膝から血が出てる。転んだのかい?」 「あっ・・・」必死で、忘れていた。傷を見て、今更痛みが湧いてくる。 おじさんはそのハンカチを傷のところに優しく巻いてくれた。「キミは勇敢な子だね。このまま帰りなさい」 言葉の意味はわからなかったけど、おじさんの優しい笑顔に、ちょっと泣きそうになった。「・・・ありがとう」 家に帰ってからお母さんに事情を話すと、すぐ未来ちゃんのお母さんに電話をかけてくれた。 しばらくして折り返しかかってきた電話によると、未来ちゃんは後頭部を数針縫ったが、入院はせず、翌日から通常通りの生活に戻れるとのことだった。 未来ちゃんのお母さんは電話の最後でわたしに代わり、お礼を言った。 雪音ちゃんのおかげで早く救急車を呼ぶことが出来たと。 でも、わたしはそれを素直に受け入れられなかった。むしろ、罪悪感でいっぱいだった。 あの子が、未来ちゃんを落とした。 あの子は、わたしにしか見えない。だからわたしのせいだ。そう思えてしょうがなかった。 その日の夜、仕事から帰ってきたばかりのお父さんに、お母さんは今日の事を"熱弁"していた。 まるで、わたしが未来ちゃんを助けたように。 雪音、凄いなぁと鼻高々しく頭を撫でられた時は、逃げ出したい気持ちになった。 この日、何度、口に出しかけただろう。 わたしが見たモノ。わたしにしか見えないモノ。それが、何をしたか──。 でも、やっぱり、わたしには言えなかった。 言ったところで、わかっている反応。 言ったことで、悪い事が起こってしまうかもしれないという恐怖。 わたしは、全てに蓋をした。 それでいい。それがいいんだ。そうするしか、ないんだ。 それから夏休みの間、未来ちゃんと会うことはなかった。 怪我をした翌日、わたしは未来ちゃんの家まで訪ねたが、今は寝ているからと面会を断られた。それは次の日も、その次の日も、ずっと続いた。 そんな"苦痛"の夏休みも終わりを告げ、久しぶりに学校へ登校する日。普段なら憂鬱に感じる休み明けも、わたしは楽しみでしょうがなかった。 やっと、未来ちゃんに会える。傷は治ったかな。病院で頭を縫った時、痛かった?家に帰ってから、何をしてたの? 聞きたいことが、いっぱいあった。 いつもより早く家を出たから、朝の教室は人もまばらだった。男子が数名、パンチやキックをしてふざけている。 それから10分程して、未来ちゃんはやってきた。 「未来ちゃん」目が合い、手をあげたが、すぐ逸らされた。 ── ・・・ん? 未来ちゃんの席は斜め2つ前だ。席に着いた未来ちゃんの元へ向かう。「おはよう未来ちゃん」 「おはよう」未来ちゃんは教科書を机にしまいながら返事をするが、こちらを見ない。 「未来ちゃん、元気だった?怪我はもう大丈夫?」 未来ちゃんは何も応えず、やはり、こちらを見ない。明らかにいつもと違う様子なのがわかった。 わたしの頭にはクエスチョンマークが浮かんでいた。 「おはよー!」そこで、もう1人の仲良くしている友達、桃華(ももか)ちゃんが教室にやってきた。 「おはよー」言ったのは、未来ちゃんだ。 桃華ちゃんの席は入り口側の1番前で、未来ちゃんは足早に桃華ちゃんの元へ向かった。まるで、わたしから逃げるかのように。 徐々に、鼓動が早くなるのを感じた。 わたし、無視されてる? ──なんで? 思い浮かぶ、全てのことを考えた。わたし、未来ちゃんに何かした? それはその日、ずっと続いた。 数人で話したり、教室を移動することはあったけど、未来ちゃんだけは、わたしを見なかった。まるで、わたしがそこに居ないかのように。 それでも、わたしはずっと未来ちゃんを目で追っていた。なんで?と心で問いかけながら。 そして、それは次の日も続いた。その次の日も──。 デジャヴを覚えた。それと共に納得した。 ああ、未来ちゃんはわたしに会いたくなかったんだ。毎日未来ちゃんの家に行っては、具合が悪い、今ちょうど寝たところだ。 その意味が、やっとわかった。 日に日にモヤモヤが募っていき、わたしの精神状態も不安定になっていく。 未来ちゃんに聞きたい。でも、聞くのがこわい気持ちもある。なにより、2人きりになるのを避けられてる為、そのタイミングがない。 そんな状況が続けば、一緒にいる子達も何かおかしいと気づくものだ。 「どおして未来ちゃんと雪音ちゃんは話さないの?」ある日の昼休み、それは唐突だった。 わたしが返答に困っていると、未来ちゃんが言った。「話してるよ」一言で終わった。 ── ウソつき。 哀しみ、虚しさを通り越して、憤りを感じた。その憤りが、わたしを動かす。 わたしは未来ちゃんの手を掴み、教室を出た。 「ちょっ・・・離して!」力は、わたしのほうが強い。抵抗する未来ちゃんを、力尽くで引っ張っていく。「やだ・・・雪音ちゃん!」 未来ちゃんを掴む手が、少し緩んだ。名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。こんな状況でも、嬉しいと思う自分がいた。 そのまま女子トイレへと連れて行く。誰もいないのを確認して、手を離した。 「なんで無視するの?」逃げられる前に先手を打った。 「・・・してないよ」未来ちゃんは下を向いたまま目を合わせない。 「してるよ。ずっと」 「っ・・・してない!」 「してる。じゃあ、なんで雪音のこと見ない   の」 未来ちゃんは目を泳がせ、言葉を詰まらせた。「・・・雪音ちゃんが・・・」やっと聞き取れる、小さな声だった。 「雪音がなに?」 「雪音ちゃんが、未来のこと引っ張ったから!」 「・・・え?」言葉の意味を、理解できなかった。「未来ちゃんを引っ張った?」 「引っ張ったじゃん!あの時・・・公園で」 "あの時"の場面が、頭に浮かぶ。あの子が未来ちゃんの首にぶら下がり、一緒に落ちていく姿を──。 「違うよ・・・雪音はそんなことしてない!」 「じゃあ誰がやったの!?」ここで未来ちゃんがわたしを見る。「あの時、誰もいなかったじゃん。未来、引っ張られたもん!」 言葉が、出なかった。 ──そういうことか。未来ちゃんはあの時、わたしのせいで落ちたと思ってるんだ。わたしがやったと。 「違う・・・雪音じゃない・・・」 「うそつき!」 「うそじゃないよ!だって、だって雪音、上に 居たんだよ!未来ちゃん助けようとしたんだよ!」 思い当たる節があるのか、未来ちゃんは少し考え込んだ。「でも、引っ張られたもん」 「あれは・・・」なんて言えばいい?未来ちゃんには見えない子がそこには居て、その子がやったと?それを口に出せるほど、わたしは"バカ"じゃない。「ほんとに、違うの・・・雪音じゃないんだよ・・・」 未来ちゃんは、キッとわたしを睨んだ。涙目になりながら。「もう知らない!雪音ちゃんなんかきらい!」ドアが勢いよく開き、気づけばわたしは1人、トイレに佇んでいた。 シーンとする中、徐々に絶望感が襲ってくる。 わたしは、どうすればいいんだろう。どうすれば、未来ちゃんと仲直り出来る? 誰か、教えて──。 それから、その日は何も手につかなかった。 授業も、友達との会話も、何もかも耳に入ってこなかった。 頭の中で繰り返されるのは、雪音ちゃんなんかきらいという言葉。 明日になったら全部、無かったことになってればいいのに。本気でそう思った。 でも、そんなことがあるはずはなく、本当に最悪なのは、それからだった──。 次の日、学校に行ってからすぐに気づいた違和感。 未来ちゃん以外の子も、わたしと目を合わせない。近くに寄ると、一瞬ピリッとする空気。そして、わたしの存在を無視して話し出す。 ああ、そういうことか。その時のわたしは、何処か冷静だった。そうなるかもという予感があったのかもしれない。 そしてその日の放課後、わたしは職員室に呼び出された。経験上、担任に個人で呼び出されるのは、あまり良い事ではない。 前に見たのは、クラスの男の子が裏庭の窓をサッカーボールで割った時だっけ。 ノックをして職員室のドアを開けると、担任がこちらに気づき、手招きをする。 わたしは少し緊張しながら窓際にいる先生の席へ向かった。 先生は後ろで1つに結んでいる長い髪を手で梳かすと、わたしに言った。「雪音ちゃん、ちょっとお話があるんだけど」 「はい」 少し躊躇い、「あのね、夏休み中、未来ちゃんが公園で怪我したよね?その時、雪音ちゃんも一緒にいたんだよね」 心臓がドキリと跳ねる。返事はせずに頷いた。 「うん、それでね・・・その時未来ちゃんが怪我をしたのは、雪音ちゃんが、未来ちゃんを引っ張ったからだっていう話を聞いたの」先生の声は優しく、慎重に言葉を選んでいるのがわかった。 「引っ張ってません」冷静に言ったが、内心は自分の声が聞こえにくいほど、心臓が鳴っていた。未来ちゃんが言ったの・・・? 「うん、そっか。でもね、未来ちゃんがそう言っているのを聞いた子がいるのよ」 それを聞いて、少し安心した。未来ちゃんが言ったんじゃないんだ。 たぶん、昨日のトイレでの会話を誰かが聞いていたのかもしれない。 「雪音"は"、引っ張ってません」事実を言ってるのに、なぜか罪悪感が拭えない。 「未来ちゃんにも確認したらね、そうだって言ってた」顔を上げれず、わたしの反応は肯定しているようなものだ。 「・・・違います」 先生がわたしの手に触れた。両手で優しく包み込む。「雪音ちゃん、そのあと近くの人に助けを求めたんでしょ。凄く立派なことよ。でもね、本当のことを言わないのは、立派とはいえないんじゃないかな?」 再び押し寄せてくる、絶望感。 本当のことって何?何が本当で、何が本当じゃないの。頭がグルグルする。吐き気がする。 わたしは、何? ─── 悪いのは、わたし? 足が、勝手に動いていた。 お母さん。お母さん。助けて。 どうやって、家まで辿り着いたのか覚えていない。どの道を通って、誰と会って、何を思いながらここまで来たのか。 お母さんは、キッチンに立っていた。 その後ろ姿を見て、涙が溢れた。 助けて── 「お母さん・・・」 振り返ったお母さんは、すぐに異変に気づいた。「雪音?」わたしの元に駆け寄り、膝をつく。「どうしたの?」 涙なのか汗なのか、お母さんはわたしの顔をエプロンで拭いた。「どうしたの?何かあった?」 「お母さん・・・雪音、何もしてないよ」 「・・・どういうこと?なんのこと言ってるの?」 涙が止まらなかった。全ての感情が涙と共に溢れ出た。お母さんはわたしを抱きしめ、よしよしと頭を撫でた。お母さんの匂いに包まれ、気持ちが安らいでいく。 わたしが泣き止むのを待って、お母さんが言った。「雪音、何があったの?」 全部、言ってしまおうと思った。わたしが知る真実を。お母さんなら信じてくれる。 お母さんはわたしの返答を、辛抱強く待っている。 「おか・・・」言いかけた時、家の電話が鳴った。 「ちょっと待ってなさい」わたしの頭にポンと手を置き、電話を受ける。 「あ、いつも雪音がお世話になっております」その言葉を聞いて、すぐに誰かわかった。先生との電話で、お母さんが必ず言う言葉だ。 はい、はいと頷き、お母さんは静かに受話器を置いた。「今から、先生が来るって」 走って逃げてきた。わかってる。家に来た先生は、さっきと同じことをお母さんに言うんでしょ。 お母さんに駆け寄り、エプロンをギュッと掴んだ。「お母さん、雪音ね、雪音ね・・・」 お母さんは次にくる言葉を待ってる。 どう伝えればいいのか、何から言えばいいのか、わからない。だから、本能に従った。 「幽霊が見えるの」 お母さんの反応は想定内だった。「幽霊?何が?なんのこと?」 「本当だよ!未来ちゃんには見えなくて、その子が未来ちゃんを引っ張って、怪我させたんだよ!」 お母さんはキョトンとしている。「ちょっと待って雪音、何言ってるかわからないんだけど。その子?」 「耳が生えた子!前に公園で見た子と同じだった!」 お母さんは眉間に皺を寄せ、わたしを凝視した。「お母さんには見えなかったでしょ!?未来ちゃんにも見えないの。雪音にしか見えないんだよ!」 冷たい手が、額に触れる。「熱・・・ないわね」 「お母さん本当だよ!未来ちゃんの首にこうぶら下がって」ジェスチャーであの子の動きを真似る。「雪音は助けようとしたんだけど、未来ちゃんはそのまま落ちちゃって」 「ストップストップ!」大きな声に、ビクッと肩が動いた。「雪音、さっきから何言ってるの?お母さん、全然わからない」 「だから、未来ちゃんが怪我したのは雪音のせいじゃないんだよ!でも、未来ちゃんはそう思ってて・・・」 お母さんの顔が険しくなる。「先生が電話で話があるって言ってたけど、そのこと?」 「・・・たぶん」 お母さんはわたしに目線を合わせた。「未来ちゃんが言ってるの?雪音が怪我をさせたって?」 正確には、ちょっと違うが──「雪音が引っ張ったって思ってる」 お母さんはふうと息を吐きながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。 沈黙が怖かった。お母さんは、どう思ってるの? 「お母さんも、雪音のせいだと思ってる?」 お母さんは強い眼差しでわたしを見た。「そんなわけないでしょ。雪音がそんなことしないのはわかってる。ただ・・・なんで未来ちゃんはそんなこと言ったのかしら」 ──だから、何回も言ってるのに。お母さんは、わたしが言ったことを無かったことにしてる。「あの子が見えないから・・・」 「あの子?」 「・・・雪音、さっきから言ってるよ。未来ちゃんには見えない子がいて、その子が未来ちゃんを落としたの」 お母さんは深いため息をつくと、両手で顔を覆った。勘弁してくれというように。 何も言わないのは、どういうことか。 「信じてないんだ」 「・・・なにを?」お母さんの顔は呆れている。 「お母さんは信じてくれると思ったのに」 「雪音、これ以上混乱させないでちょうだい。頭がおかしくなりそう」 それ以上、何も言わなかった。 哀しさも怒りも感じない。ただ、無だった。全てが、無に感じた。 その後やって来た担任と母親の話も、わたしは無言のまま聞いていた。内容は職員室でわたしに言った事と同じ。デリケートな問題、子供達の精神状態、今後の対応、呪文のように聞こえる言葉を、わたしはただ黙って聞いていた。 そして、否定もしなかった。何を言ったところで、無駄だ。どうせ、誰も信じない。だったら、何も言わないほうがいい。 その日の夜、仕事から遅く帰ってきたお父さんとお母さんは喧嘩をしていた。 なかなか眠れず、布団の中で起きていたわたしは音を立てないように階段を下りた。 「だっておかしいじゃない。耳の生えた子が未来ちゃんを怪我させたなんて言うのよ?」 「子供が言う事だろう。それを間に受けてどうする」 「あなたはあの場に居なかったからわからないけど、あの子の顔は本気だった。本気で言ってたのよ」 「だからといって病院か?話にならない」 「それに・・・考えてみたら、今までもあったのよ」 「あった?なにが?」 「2歳くらいの時、公園で誰もいない所に向かって手を振ってたり、指差して笑ったり・・・それだけじゃない、今まで何回もそういうことがあったわ」 「だから、子供のすることだろう」 「あなたは見てないからわからないのよ!」 「またそれか・・・」 「あれは、そういう"レベル"じゃなかった・・・」 「とにかく、向こうの親御さんも子供同士の事だからって言ってくれたわけだし。この話はもうやめよう」 リビングのドア越しに、わたしは持っていたウサギの抱き枕をギュッと抱きしめた。 雪音のせいで、お父さんとお母さんが喧嘩してる。 ── ごめんなさい。 翌日、お母さんはいつも通りだった。毎朝の変わらないやり取りに、ホッとした。 お母さんは、あの事に一切触れない。だから、わたしもそうした。 学校では相変わらず未来ちゃんに無視される日々。話をしてくれる子はいたけど、心の中にぽっかりと空いた穴が埋まることはなかった。 そのまま数週間が過ぎ、このまま時間と共に嫌な記憶も全て薄れていくんだろうと思った。 ──また、あの子に会うまでは。 わたしの足は、勝手に向かっていた。 あの日、未来ちゃんといたジャングルジム。あの子は、そこにいた。あの日のわたし達のように、1番上に座っている。 ジャングルジムに衝突する寸前で足を止めた。キッと見上げるが、こっちを見ない。 「なんで、あんなことしたの」わたしの問いかけには応じず、遠くを見ながら足をぶらつかせている。「ねえ、聞いてるの?答えて!」 反応は、ない。わたしは鉄パイプに手を掛け、1段、2段とかけ上がった。そして5段目を掴んだところで、その子がジャンプして飛び降りた。わたしもほぼ同じタイミングで飛び降りる。 逃げようとしている。──逃さない。 着地と同時にその子の手首を掴んだ。ここで、わたしを見た。大きな目が赤く染まる。わたしは、ひるまなかった。掴んでいる手に力を込め、自分に引き寄せた。 「なんで、あんなことしたの。なんで・・・なんで、雪音にしか見えないの!」この手の感触は、幻ではない。確かに、ここにいる。 「キャキャキャッ」耳をつんざくような笑い声だった。開いた口から鋭いキバを覗かせる。一瞬ぎょっとしたが、手は離さない。 するとその子は、掴んでないほうの手をわたしに向けた。指を曲げ、引っ掻くような手振りをする。挑発するように。 「雪音、こわくないよ」と言ったものの、それはすぐ嘘になった。 みるみる爪が伸びていく。掴んでいた手が少し緩んだ。手こそ小さいが、その爪は鋭く、あっという間に10センチ程の長さになった。 鼓動が早まり、身体が勝手に後退る。そして、その手を振りかぶり、攻撃体制に入った。 「キャーキャキャッ」わたしの手を目掛けて振り下ろされるその爪が、肌に当たるギリギリのところで手を離した。 思わず、自分の手を確認した。血は出ていない。解放されたその子は、高笑いと共にその場から逃げ出した。 「あっ!待っ・・・」追いかけようとしたけど、足が動かない。あの爪で攻撃されたらと思うと、恐怖で足が竦んだ。 「雪音」 聞き慣れた声に、ハッとした。 ─── まずい。 さっきとは非にならないくらい、心臓がバクバクと音を上げる。 ゆっくりと振り返った。お母さんはその場に立ち、両手で顔を覆っている。 「お母さん・・・」 何てバカなんだ。勝手に身体が動いていたとはいえ、このタイミングで ──。 そうだ。わたしは、お母さんと買い物に行った帰りだったんだ。 一連のやり取りを、お母さんは全部見ていた。 わたしが見えない何かに話しかけ、存在しない何かを掴み、声を荒立てるその姿を。 今のわたしに、何が言える?何を言っても信じてもらえないわたしが、何を? お母さんは、しばらくその場に立ち尽くしていた。顔を覆い、表情が見えず、泣いているのかと思った。 わたしは待った。お母さんが何か言ってくれるまで。でも、お母さんは何も言わなかった。落とした買い物袋をゆっくりと拾い上げ、「帰りましょう」その一言だった。 わたしはお母さんの後ろを離れて歩いた。 なんとなく、側に行ってはいけない気がしたんだ。お母さんは1度も振り返らない。 あの子を掴んでいた自分の手を見た。 あの時、離さなければ、怪我をすれば、そしたら、お母さんも信じてくれたかな。 その日、家に帰ってからのお母さんは明らかに様子が変だった。一点を見つめ、ボーッとしていることが多く、時々大きなため息をついていた。 日常的な会話はするが、わたしを見ようとしない。目を合わせるのを避けているように感じた。いつもと変わらない空間なのに、息が詰まりそうだった。 それから数日して、お母さんはわたしを病院に連れて行った。それが、"初めて"の病院だった。これまで、風邪を引いて病院に行くことは何度かあったけど、その病院は熱があったり、怪我をしている人はいない。 聴診器を当てられるわけでもなく、喉を見られるわけでもない。先生に聞かれた事に答え、言われた事をする。読み書きに始まり、身体能力、判断能力、あらゆる事を"テスト"された。 当時のわたしにはそれがどういう事かなんてわかるわけもなく、楽しいとすら感じていた。 その後、先生がお母さんに何を話したかは知らない。わたしは別室で待たされていたから。 帰りにお母さんから聞いた話では、先生はわたしを褒めていたとか。同年代の子に比べて、とても優れていると。 でも、お母さんはあまり嬉しそうじゃなかった。精神に異常はないとわかり、他の病気を疑ったからだ。娘は幻覚が見えている。だから、脳の病気だと思った。 次は、大きな病院で検査を受けた。その時はわたしも同席していたから先生の言葉を覚えている。 脳には特に異常はないですね。それを聞いたお母さんは良かったと安堵していたけれど、その表情はどこか暗かった。 帰宅し、検査を頑張ったご褒美にと買ってくれたケーキをお母さんと食べながら、わたしは聞いた。 「お母さん、雪音のこと嫌い?」 お母さんは目を見開き、全然進んでいないケーキの隣にフォークを置いた。 「なんでそんな事聞くの?」 「雪音が変だから」 お母さんはわたしの手をギュッと握った。「雪音は変じゃない。嫌いなわけないでしょう」こんなにお母さんにまっすぐ見られたのは久しぶりな気がした。「そんなふうに、思ってたの?」声が震えている。 お母さんは椅子から立ちあがり、わたしの元へ来ると、その腕でわたしを包み込んだ。 「お母さんが雪音を嫌いになることなんて絶対ない。何があっても・・・わかった?」 お母さんの胸にもたれかかりながら、決めた事がある。この先、何を見ても── 何が起こっても── 全部、知らないフリをするんだ。 「うん」

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