NAWOMIDOU / 第1話
プロローグ:散る桜、ほどけぬ指――来世に捧げた魂の契り
記憶の始まりは、いつも淡いセピア色の光の中にある。
遠い昔、日本がまだ大正と呼ばれ、街行く人々の着物と洋装が混ざり合っていた時代。
名家の子息として何不自由なく育てられながらも、敷かれたレールの上を歩くことに息苦しさを覚えていた当時の俺――葛木蓮一郎(かつらぎ・れんいちろう)は、初夏の薫風が吹き抜ける華族女学校の塀沿いで、運命の少女と出会った。
その名は、若葉(わかは)。
庭師の娘として、名家の屋敷の片隅にある離れで暮らしていた少女だった。
当時の身分制度の名残が色濃く残る時代、華族の跡取り息子が使用人の娘と言葉を交わすことなど、決して許されることではなかった。
だが、放課後の屋敷の裏庭、見事な枝垂れ桜の木陰で、彼女はいつも独り、小さな帳面に筆を走らせていた。
紺絣(こんがすり)の素朴な着物に、赤いたすき掛け。質素な身なりではあったが、抜けるように白い肌と、凛とした黒い瞳。そして何より、彼女が紡ぎ出す言葉の美しさに、俺は一目で心を奪われたのだった。
『風渡る 木々の緑の 深ければ 名も知らぬ君 影を追ひけり』
木陰から姿を現した俺に驚き、帳面を胸に抱きしめて跳び退いた彼女の姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。
大地を蹴る足取りは驚くほど軽やかで、しなやかだった。
聞けば、彼女の父はかつて南米の地へと渡航した経験があり、若葉自身も幼い頃から、異国の武踊――足技を用いて舞う格闘術の手解きを父から受けていたのだという。
清楚で、奥ゆかしく、それでいて野に咲く百合のように芯が強く、しなやかな生命力に満ち溢れていた。
「若葉」
「蓮一郎さま……いけません。私のような者が、若旦那さまとお話ししているところを見咎められたら……」
「構うものか。俺にとって、お前と言葉を交わすこの時間だけが、息のできる唯一の瞬間なんだ」
塀の隙間、木漏れ日の下で、俺たちは誰にも知られぬ逢瀬を重ねた。
身分の差を越えて、筆を執り合い、短歌を詠み交わす。
彼女が詠む素朴で清らかな歌に、俺が不器用な恋心を込めた返歌を贈る。触れ合うことは許されず、着物の袖がわずかに触れ合うだけで、互いに耳たぶを赤く染めて俯いてしまうような、あまりにも清廉で、プラトニックな日々だった。
手すら握れなかった。
抱きしめることなど、到底叶わなかった。
けれど、心と心は、世界の誰よりも深く結びついていると信じていた。
いつか自分が家を継ぎ、この古い家柄の縛りを打ち破ったあかつきには、彼女を必ず妻に迎えよう――若き日の俺は、そう固く誓っていたのだ。
――だが、運命という名の嵐は、あまりにも無慈悲に、あまりにも早く、二人の未来を奪い去っていった。