白井黒也 / 第1話
はじまりの羽音①
ここは――とある世界にそびえ立つ、魔王城。
城の外ではいつだって雷鳴が轟き、どこからか香の匂いがふわりと漂っている。
薄暗い雲に包まれたこの絢爛な城には、数えきれない魔物たちが暮らしていた。
……とはいえ、「魔物」って聞いて、いわゆる“化け物”を想像したら大間違い。
この世界にいる魔物は、美しく、若々しい女性の姿をしているのだ。
その理由――それは、この城を治める現魔王が、サキュバスだから。
かつて先代の魔王がいた頃は、見るからにグロテスクな姿をした魔物ばかりだった。
けれど、今の魔王アビスが君臨してからは状況が一変。
その力によって、すべての魔物が“女の娘の姿”になってしまったのだ。
性格まで変わってしまったらしく、今では人間を襲うどころか、“伴侶”を作ろうとする魔物が多いらしい。
とはいえ、そんなことを知ってる人間はまだまだ多くない。
魔物娘を受け入れる人もいれば、昔のイメージのまま「危険な敵」として恐れる人もまだまだ多い。
そんな混乱のさなか――魔王アビスは今日も、魔王城で。
「退屈ねぇ~……」
深々と沈むようなソファに寝転がりながら、アビスは気怠そうに呟いた。
本来なら魔王としてなすべきことはある。
サキュバスの力を広げるために消費した魔力を回復すること。
そして、次なる“計画”のために、さらに多くの魔力を蓄えること。
しかし、それらはすぐに結果が出るものでもなく、今は半ば療養のような日々を送っていた。
そんな生活が続けば、退屈にもなる。
「何か我を楽しませるものはないのか……」
「そのようなざっくりした要求、お応えするのは難しいですよ」
ゆるく投げられた問いに、部屋の隅から柔らかな声が返る。
声の主は、一人のサキュバス――アビスの側近、リリアだった。
「リリア、そなたも暇であろう。この退屈を紛らわす余興でもないのか?」
「申し訳ありませんが、私には大道芸のスキルはございませんので」
軽い冗談まじりに返しつつも、言葉の端々には魔王への敬意がにじむ。
この城で、魔王に対してこんな風に気さくに応じられるのは、きっと彼女だけだ。
「こうもずっと城に籠っていれば、飽きが来るのも当然よ……旅行でも行ければよいのだが」
「魔王たる者が、ふらりと城を空けるわけにはいきませんよ」
「……わかっておる、はぁ~……」
大きくため息をついたアビスに、リリアは小さく肩をすくめた。
「でしたら、宝物庫でも漁ってみてはいかがですか?」
リリアにしてみれば、ちょっとした気晴らしの提案だった。
けれど、その言葉がアビスの中に小さな火を灯してしまったらしい。
「ふむ……悪くない提案だ。ひょっとしたら、何か面白いものが」
先ほどまでの物憂げな様子が嘘のように、アビスはぱっと立ち上がり、そのまま宝物庫へと向かっていった。
(まったく……本当に困ったお方。でも、ああして楽しそうにしてる顔を見たの、久しぶりかも)
しばらくして――
「リリア!見よ!これを!」
勢いよく扉が開かれ、アビスが満面の笑みで飛び込んできた。
よほどの掘り出し物が見つかったのだろう。
「それは何よりです。それで、一体何を……?」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれた!これだ!」
高らかにかざされたその手には、一冊の古びた本。
「……これは?」
「どうやら、召喚術が記された本らしい」
「こんな本、ありましたっけ?」
「細かいことはよい。それより、なんだか面白そうではないか」
目をきらきらと輝かせるアビスに、リリアは困惑を隠せなかった。
「まさか、本当に召喚を試すおつもりですか?」
「当然だ。何が出るか、楽しみであろう?」
「でも、魔力の消費が――」
「このくらい、問題ない……多分」
あまりにも期待に満ちたアビスの顔を見て、リリアはもう、止める気を失ってしまった。
召喚の手順は単純だった。魔法陣を描き、書かれた文章を読み上げるだけ。
血を捧げる必要もなく、そこらの筆で魔法陣を描きながら、リリアはぼそっとこぼした。
「こんな簡単な方法で、本当に成功するんでしょうか……」
「準備はできた。あとは読むだけ」
「やっぱり、私が代わりに詠唱を……」
「よい。これは“私の”暇つぶしなのだから」
アビスが魔法陣の前に立つ。空気がぴんと張り詰める。
静けさの中、彼女が詠唱を始めると、空間そのものがひそやかに震えた。
――何かが、動き出していた。
魔法陣が白く光り始め、部屋の空気が一変する。
どこか遠くで鐘のような音が鳴った気がした。
そして――
「今こそ、我の命により、その姿をここに現すのだっ!」
声と共に、アビスが両手を魔法陣へ向けて突き出す。
次の瞬間、まばゆい光があたりを包み込んだ。
光の中心で、何かが静かに――でも確かに、生まれようとしていた。