ジ・エモン / 第1話

リリー・コメット、ア・リリー

 その昔、魔法によって栄華をほこった文明があった。  文明は魔法によって栄華を誇ったため、ほうき星のように一瞬でながれさった。  一万年と数千の年月が流れた。  それも太陽と星辰の配置をもとに、合理的に算出された暦によるから、正確なところではないが。 「レ・アダザバ、ク・レイノーウ。……シ・アサハキ、ク・レイノーウ。月と火の山がみちびきて、けん引した世界の、ぽっかりとあいた刻よ。ふたたびつむがれし、この世の律に、その糸がからみあうことを……」  両膝をつき、自然に中腰で立った術者の、下腹に力をこめて、音声でつたえる誓句のひびき。  部屋部屋にみちた静謐な森の屋敷。その洞窟にこもったかのような、うす暗くじめじめとした一角。  かつてこのような湿気と闇を、魔法は必要とした。それは人の声がよくひびく領域だからである。術法を紡ぎ、使用する人間の、喉に好都合な環境であったからである。  森の木々でつくられた、生木のようにみずみずしい杖は、その表面にふれればいつもほのかな冷たさと水の流れを伝えた。水とはつまり、木の内腑であった。血液であり心臓であった。脳であり鉄と塩とであった。流れはつまり、木がいまも生きているゆえにほかならない。  儀式用の魔法陣は光りかがやき、この世のどんな科学とも、化学ともあいいれない。不可思議でできた物質の。奇妙で発光を弱め強める塗料の。その強弱濃淡は、一定ならざりて、人の術法を行使する器官の、臓器の、部位のとろとろとたゆたう気体であり液体でもある「マナ」の。  その顕在にほかならない。 「エスプリタ・ス=マナ。ニ、ゼルタスザ・ゼイ、オゥタール=スメニシ、エスプリタ・ス=マナ」  朗々と、淡々とマナを収斂する言葉が、周囲を波紋のようにゆがめ、陽炎のような実体をともなって、ふるえる木の葉の尖端、あるいは、何度もうちならされる音叉、あるいは高く低くかなでる楽器、あるいは室内のとざされた空に吹く、第五とも第六とも言われる力の奔流となって吹きあれている。真空、突風、竜巻、ハリケーン、海上の山脈のようにたれこめた積乱雲の巨大さ。 「エ・タクサ」と、術者が言った。暗闇のようにしずんだローブ、深々とかぶりふせたフード、沈黙めいた床にのびた海藻のような衣のきざはし。  空間がたえかねたように、つぎつぎとはじけ、さけとび、裂け飛んだところから大量の液体が、滝のように室内にふりそそいだ。あるいは、いきおいよくとびちった。まるで惨殺された多量の死人がおりかさなる拷問部屋のように、たちまち発光する紅玉色の汁がたっぷりと壁や天井にはりつき、黒で満たされた室内を、あざやかに彩色した。  術者はおもむろに、膝を立てて、地に足をふみしめて立ちあがった。  裂け目は放置されたまま、ときおり激しくはじける音を立てては、赤い液体をはきだし流しつづけている。術者の無造作に踏みだした爪先が、なみなみとあふれんばかりになった、血だまりにしか見えないものに埋もれ、しかし、いっさい濡れなかった。液体のほうから術者の爪先をよけて丸くひろがった。  同じように、術者がひきずった長いローブのすそも、まったく湿ってもいなかった。とろりと魔法陣の線は、術者の全身、靴の全体と同様に、おぼろげに、はっきりと、くりかえしいれかわる光の明滅のなか、しだいに液体の中にいるはずの輪郭を、液体が避けたためにうかびあがらせていく。  もしくは、それは術者の爪先が魔法陣の線に踏み入るのに呼応していた。魔法陣にたてられた、生きた樹と、歌う鋼でできた、杖の頂上に権威をあらわす不滅でできた水銀をいただく杖。  地についた杖の先が魔法陣に触れるのにも呼応して、ゆったりとかがやいていた。 「マール……エイヘク、……ルタ・リ、タキニ、ィヤ。この言葉はたわむれであり、かりそめであり、かならずしもこの言葉である必要はなく、偉大なる人、マナ・ルーカ・ルーの功績を称える歌である。この言葉はたわむれであり、かりそめであり、この言語である必要はない。この言葉は、この発音である必要はない。ただただ歌である」  この言葉は言葉そのものである必要はない。  この言葉は声である必要はない。  ただただ歌である。いいかげんであってもかまわない。ただただ誓句である。おのれの誓いをあらわすのであれば、しめす方法はなんでもよい。  それこそが魔法が、魔法であるゆえんである。この世の論理的に説明されるものごと、または、神により説明される物事に、すべてそむきつづける、はるか太古をはるかこえて、はるか悠久の先におこった流星の文化であるとしれ。 「ほうき星の文明であると知れ。リリー・コメット、ア・リリー、ル・ルラララ・ルー、ルールールー、ア・リアラ、ルー!」  かちりと時計の針が逆にあわさる音がした。ふかくふかく響きわたった。地の底、星の底、地殻のゆりかご、地獄の階梯、魔界のねぼけた老婆、天界のかたい門の怪物の三つの頭、異界のつるされた少女のふるえるまぶたの睫毛、近海の底にしずむ透明な財宝、宇宙の裏にある星々のもれだす傷口が、何十万の光の旅する距離にわたってひろがった先から見える、異なる宇宙の同じほどの広さにわたって広がった同じほどの傷口のはしにひっかかる、五つの世界を同時にほろぼす未知のエネルギーの滓のきらめきまで、その音は、響きわたった。  世界がひっくりかえってしまった。  かつて一九九九年七月のことだった。  十五年後、二◯十四年。  臣愛(オミ・チカ)は十六歳だった。  切りつけるような、じわりとした暑さが、午後の雨をふくんで、むらつく湿気をチカの肌にもぶらさげている。  四肢はおもたく、日射しでよく焼けて黒ずんでいる。短くしようと思っていた髪をうっとおしくおもい、チカは「いってきます」と、玄関の写真に言った。  父はいつものごと仕事だ。とはいえ、春多(ハルタ)と約束した川辺の花火は、この夏の一大ページェントのひとつであって、どこか不穏な雲ののこりと日没まぎわの虫の声、今日はこのあといよいよきびしくなる熱帯夜の片りんをにじませて、一日は暮れようとしていた。  七月二十五日、午前四時二十五分十三秒――。  しわしわと蝉の声が耳にいたいほどで、蝉しぐれとは、よく言ったものだ。博識な父の摩沙樹は、こういう言葉じりの楽しさが好きで、チカにもいくつかその知識の一端を伝授している。 「あー、あちあち……」肌にこたえる、むせかえるような暮れどきの酷暑は、チカの足を、ハルタが待つ水べりへといそがせていた。 「蒸すゥ……なあ」  ヒーターをわき腹にあてられた感覚がする。片手にさげたサンダルに、縁がちょっとはきつぶされたスニーカー、裸足の足。  本当は靴下をはいてくるべきだが、ここ一ヶ月で一番の湿度と暑気をラジオが告げた本日は、チカをだらしなくさせていた。家のアイスクリンの備蓄は尽きている。町内に、配達のトラックがまわってくるのは今年もとどこおりがちで、物資の配膳は、かぎられたものになるから、がまんしなければいけないよ、とは言われているが、そう言って、結局、毎年、とぎれることだけはない。  だものだから、チカは今年もつい油断した。  サンダルとは反対の片手にさげたトタンのバケツのなか、花火と、なけなしにしてきたラムネ瓶、蚊取りの巻き線香が、ざくざくとおどっている。  夏休みははじまったばかりだ。道の両脇にところどころくずれたブロック塀と、立ち入り禁止にされたまんまのロープがほったらかしになっていた。だいぶ前から修繕されておらず、人が逃げてしまったのだろう。 「んーっ!」  なんとなくチカはのびをした。 「おーい……愛(チカ)!」  チカが、川にやってきたとき、ハルタは黒く焼けた素足を川の水にさしいれていた。涼んでいたのかと思いきや、チカをこっそり、と言ったようすで手まねきする。  川に入ってこい、とそれは同時に言っているようだ。チカはスニーカーをするっと脱いで、暑すぎる火と石に素足をさらして、あちあちと熱がりながら水に踏みこむ。  ぱしゃぱしゃとよってきていたハルタは、無防備で、愛より若干発育のいい胸を息にちょっとはずませ、チカがバランスを危うくするのに、「だーん」と、横からくみついた。  あぶない、と注意しそうになるが、チカの身体をささえたものらしい。そうしなくても歩けるが、チカはハルタに寄りかかりながら、ハルタの手をにぎりしめた。ひやっとして、川の水に触れていた形跡がある。それでも肉づきのふくらみをうしなっていない手のひらをにぎり、川をじゃぷ、じゃぷ、とわたって、川の石まで行く。 「なに? まさか虫? いやだ!」 「ちがうっていうの。ほら、そっとだよ?」  川の真ん中で一瞬もみくちゃしかけて、ハルタが、そっと川の中に埋没していた石をうらがえす。すると、川の中にさらっと光るものがあった。 「なにこれ? まさか宝石?」 「落とし物かなぁ」 「川の中に?」 「うん。だから拾わなかったけど」 「やだなぁ……でも、綺麗だね」 「ね」と、ハルタは言った。  だれかの落としもの、と思いたいが、その誰かが、なにをしに、ここへ来たか、はべつである。  おおげさになってさわぎたてるのは、集落の人たちにたいして不安がられる。  駐在にあとで知らせておこう。 (ま、本当に落とし物かもしれないしね) 「そうだ。ラムネ持ってきたよ」 「そう? このまま遊んじゃおうか?」 「いいんじゃない?」  川から、移動して川辺にあがる。サンダルに濡れた足を通して、ひんやりとした冷気がまとわりついて、少し身体が冷えた。今のうちにラムネも飲んでしまおうと、ちょうど手ごろな石に腰かけて、ハルタととなりあって栓をあける。 「駐在さんには明日言いにいこっか」と、ハルタが先に言ってくる。そうだね、と言いつつ、チカはふいにハルタが指をのばしてきたのに、目をぱちくりさせた。が、何もしないでいると、ハルタはチカの口もとあたりを、親指でぬぐった。  ラムネがこぼれていたのだろう。ハルタは指を見て、ちょっとなめた。「お。甘い」と、言う。 「まったく」  と、チカは大人ぶって笑った。チカも無邪気に笑う。手は、もう一度、自然と指をからめ、しっかりと握っている。したたかなんだからな、と、かるい非難を浮かべていると、ハルタはうん? と、宙を見た。ぶらぶらしていた足がとまっている。 「どうしたの?」  チカは聞いた。 「いま、なにか」  と、言いかけて、「あ、そうだ」と、ハルタは思考をよそにうつしたように、すわっている岩場のかげに手をのばした。そこにハルタが持ってきたスケッチブックと鉛筆が置いてある。  ハルタは絵が上手く、運動も得意で好きだが、それよりも絵にのめりこむのがすごかった。  なにか描きはじめたので、横から見やる。チカも無作法だが、ハルタはあまり気にしない。もっとも、最初からこうであったわけでなく、仲良くなってから「見てもいいよ」と言うようになった。  ハルタはチカよりやや幼さが残りがちの、きれいな横顔をさらしている。このときの集中しているきらきらしたハルタの茶色の瞳が美しく、チカなどはそっちに見いりそうになる。 「なに? いま、何かあった」 「うーん、なんだろ……なにか……」  ハルタはちょっとチカに目をむけてきた。チカはおどろいたのを見せずに、聞いた。 「やっぱり見えなかった?」 「え、……ていうと」 「うーん、チカの様子がさ。あんなにはっきり見えてるのに、と思ってさ」  ハルタはレーカンというのがあるらしく、ときどきチカに見えないものが見えた、というときがある。  昔、母親に言って気味わるがられて以来、人には言わないようにしてきたが、チカにはちょっと前、こっそり教えてくれた。 「秘密」  とハルタはチカには言う。  はじめて会ったころのハルタというのは、ずいぶんふさいだ子供だった。事故で両親を失ったばかり、というのもあって、環境に心がやすまらずにいたのだろう。ハルタの面倒を見てくれるチカの叔母は、さいわいハルタにとても気をつかってくれる人で、寡黙だが、なんでもハルタの両親にずいぶん昔、世話になったこともあり、その娘であるハルタを大事にしている。その叔母にも、レーカンのことは話していないという。ふさいでいたようなのは、このレーカンの件もあったのだろう。  チカは実のところ、祖母がずいぶん霊感については強い人で、時々人から相談されるくらいの「レーカン」の持ち主であった。  十五年前、大きな事故で母親を亡くして以来、チカといっしょに住んでいるその祖母に面倒を見られて、共に暮らしているチカにとって、その手の話は苦手ではなく、慣れてもいた。 「わざわざ描くもの?」 「きれいなもんだったよ。どこかの外国の服着てさ。ガイジンってやつかな? うん?」  自分もガイジンの血が入っている鼻筋を、ハルタが上げた。  そのときのことは、チカはよくおぼえていた。  チカにもはっきりと、空中にぽっかりと空いた小さい「穴」が見えたからだ。  真っ暗でふかい穴。光も一切ないのに、なぜか、穴が空き、続いていっている先が、延々と見えている。  それは、あらわれたと同時に、がばっと、たちまち大きく広がった。不気味な、鳥が翼を広げる動作ではない、大きな動物が、身体よりも大きな、その口をいきなり開いたような。  そうして、穴に向けて、ハルタの身体ががくっとのめった。腕の先が食われて「消える」。  消えた、と錯覚するようだった。穴のなかにハルタの身体はとらわれて、無理やり車にでも乗りさるように、腕から先がひっぱられた。穴に入った身体は、穴の黒い色に染められて、まるで、穴と見分けがつかないようになった。 「――。」  ハルタはチカを見た。穴から目をそむけたように。チカは腕をのばした。  もう少しで届く。指先が、ハルタの、吸い込まれていないほうの腕に触れる。  そう思ったところで、ハルタの身体は真っ黒に染まり、真っ黒なかたまりになったハルタの身体だったものは、穴に一瞬で、吸いこまれる。  間にあわなかった。  チカは、岩に座ったままで、腕を伸ばし、呆然と固まった。  ハルタを飲みこんだ穴は、消えてしまっていた。  隣にハルタが座っていたこと自体、夢か何かだったというように。   「あ……! あ……、!? あっ!」  びし、と、ハチに刺されたかと思う刺激が、チカの伸ばしていた右腕に走った。左の手のひらには、直前までつないでいた、ハルタの手のひらのぬくもりがのこっていたが、一瞬、驚いてそれを忘れた。 「危険だ」と、痛みをあたえた人に告げるような響きがあった。感触だった。ばちばちっばちっ、と、強い音がする。チカは理由もわからず、身体をちぢめて、耳をふさいだ。危険を感じたせいで、丸まったとも言える。  ばちっ!! ぱぁん! 破裂した音が響いた。かんしゃく玉でもはじけたような音だった。 「あっ!」  チカが悲鳴をあげた。すると、空間のあちこちが、何もないのに突然、真っ赤に張り裂けた。張り裂けた部分から、裂け目よりも真っ赤なドロリとした液体がふきだして、あっというまに川べりを、真っ赤にそめて、よごしぬいた。  唖然としかけたチカが、目を見開いていると、きゅばっ、と、そんな音を立てて、空間に穴が開いた。  ハルタの身体を飲み込んだ、あの穴。  同じような穴は、同じように急に広がって、真っ黒なかたまりを吐きだした。チカはすでに岩から立ちあがって、穴から逃げ出そうとしていた。が、急に引き返して、落ちていたスケッチブックを拾っていたところだった。  黒い塊は、すぐに人間に変じた。変じるとき、あたりにばらまかれた赤い液体を、大量にこぼして、撒きちらした。その赤い洪水の中から、黒から転じた赤色と、裏地が灰色のマントをはおった、とんがり帽子をかぶった、見覚えのある人物がばっと立ち上がった。 「ええい!!」  怒りの声を上げる。チカはとまどったが、ハルタが消えた穴のあたりが気にかかった。まだなんとかできることはないのか? 一体、なにが起こったのか? ハルタは? どうなった?  まさか、死……そう思ったとき、とんがり帽子の人物とのあいだで、目があった。大きな帽子だった。頭一つぶんもありそうな高さ、深々とかかりそうな円形に広がる傘のようなつば。  あの格好は一体なんだろう? どうして、あんな格好をしている? 勢いよく空転した思考の中で、ぶたれたように帽子の下の顔が、なにかに、ひどく衝撃をうけた。  それから、きっと、一瞬で目を空中になげた。一秒もなかったのではないか。  とんがり帽子は、ばっと右手をかかげた。なにか投げるような形。その瞬間、伸びた右手から、目にもとまらぬ速さでなにかがはなたれた。  それは轟音を切り裂くように、すばやく空を飛んで、その途中に、持ち手じみて延びた棒状の体からはじけるようにじゃらじゃらと音を鳴るものを、四方八方に飛ばした。  それは鎖だった。数本にわたる鎖が伸びて、伸びて、延びて、たちまち、とんがり帽子の伸ばした腕にひゅんひゅんとからみついた。 「ダゥバ=マナ!!」  とんがり帽子の人物がするどく言った。その瞬間に、飛んでいたもの……「鎌」だった。とても大きな。それが、さらに速度を増してひねりこむような動作をし、速度を増すときに衝撃波をあたりに撒き散らした。それはチカの細っこい身体を吹き飛ばすかに思われたが、すさまじい突風となって、かき消される声をあげたチカを、吹き抜けただけだった。  鎌はすでに、自分の意思で飛んでいるかのようだ。蜻蛉のように、空中で何か衝突し、急に制動をかける。かと思えば回り込むように、鎖をさらに飛ばしながら飛んでいく。飛んでいく。飛んでいく。  衝突した、と、思った瞬間、かろうじて鎌を追っていたチカの視界に、とんがり帽子の人物が跳んで、消えて、急に現れて、鎌の持ち手を両手で握ったのが、偶然、すべて映った。  ぐん! と、細い両腕をいっぱいに伸ばし、とんがり帽子が大きな鎌をふった。そのとき、何かが見えた気がした。  どれも、とても人間の視界に入るものとは思えなかったから、すべて、たまたまの一致だったのだろう。  なにかが、そのたたきつける先に、中空としてあるのだった。それなりの大きさがある玉、または、珠だった。また一度鎌をふった拍子に、またもう一度、その中空にあって空白のようになった「玉」が、鎌の一撃で、ゆれうごいた。  とんがり帽子の人物は、それを追っていく。じゃらじゃらと広がる鎖が……なんと、そのうちのいくつかは地面から延びてきた鎖と、たがいに重なってひとつの鎖になる……追っている玉に、絡もうとするように伸びる。  が、玉の動きは速かった。たくみに鎖を、鎌を避け、もう一度、さらに振った鎌の一撃をすいっと、すべるように避けるのが見えた。  その瞬間だった。  鎌が急に変形して、持ち手が伸び、鎌の刃はざっと三倍以上には、一瞬で大きくなった。大きくなったぶん、玉の動きに追いつき、鎌が玉の形状を刃の内側に囲うようにとらえきった。  ばきん!!  と、形容しようのない音がかん高く、それでいて、小気味よく高らかに、鳴った。  玉は二つに切り割られた。  切られた瞬間、二つになった玉は、ふわりと浮いてずれていく。とんがり帽子の人物は、やわらかそうな指先をかざし、その浮いている姿に、あゆみよった。すう、と、薄い胸をふくらませる。 「エスプリタ・ス=マナ。エスプリタ・ス=マナ。願い入ります、この魔法は異界にて吊るされたブランコの少女の震える睫毛。その揺れるぎこぎこという音にささげます。名を与えます。この魔法は断頭台の魔法なり」  鈴の鳴るような声が、言う。  宙に浮いていた玉は、ゆっくりとずれながら消えていった。あるいは、とんがり帽子の人物の、マントの下の身体に、吸いこまれていくようにも、なぜか、見えた。 「……」  チカが声もなく見ていると、チカの周りから、透明ななにかが消えていくのが見えた。「!」と、チカはそれに気づいたが、それよりも周囲のことに驚いた。鏡のように凪いだ空気があった。  一瞬まえまで、なにか起こっていた剣呑な雰囲気がすっかり消え、その消えかたがあまりに一瞬だった。見ると、川べりにあった赤い汚れた跡もない。あとかたもなく、消えていた。  とんがり帽子の人物の肩に、鳥が飛んできて止まった。とんがり帽子の人物は、さらになにか唱えていたが、それも淡い光になってさあっと、散ると、なにものこらなかった。  そこまで終えると、とんがり帽子は、チカのほうにやってきた。さっきのような意表をつかれた表情はなく、しゃがみこむ。 「大丈夫? ケガはないわよね」  はきはきと言う。「はっ、はい」と、チカは返事した。だが立ちあがろうとすると、ふと足がのめって、すとんと尻もちを突いてしまった。  足に力が入らない。 「腰がぬけちゃってるわね」と、とんがり帽子の人物は言った。チカはなんとも言えない情けない顔をしつつ、とんがり帽子の人物の容姿を反すうした。  とんがり帽子の人物は女の子だった。年はまちがいなく、チカとおなじだろう。不可解ながら、みとめざるをえない。やや大人びたと言われるていどの顔の線、同年代の女子とくらべてちょっと高い背丈、大きなとんがり帽子、物語の登場人物のような肩から下がったマント、下に穿いているのはキュロットスカートと思われる形状をした、見たことのない服で、清潔そうなボタンがならんだシャツ。きちんと上まで留めた襟の下に、白金っぽい見ための素材でできたネックレスをしているのが見えた。そのネックレスも、見たこともないほど大きい。つくり自体はチェーンとかざりが見えるだけの、小粒な真珠が二、三あしらわれた、清楚なものだったが。  ガイジンだった母からうけついだらしい赤い髪、不思議なきらめきがある黒い瞳は、チカのものとはすこしちがう。足もとの紅いブーツが、とくにチカの目に焼きついた。  つまりは、自分と睫毛一本違わなそうな、うり二つの女の子が、そこにはいたのだ。  夕ぐれ。  帰宅する道。 「わたしは、チカ・ランドマー・タワーズっていうの。あなたは?」 「わたしは臣愛(オミ・チカ)って言います……」  愛(チカ)を背負いながら、とんがり帽子の人物、チカは言った。愛は思わず丁寧な言葉になっていた。 「チカね。よろしく。年はいくつ? もしかして、十六歳?」 「あ。うん。そう」 「そうよね」 「どうして?」 「私と同じくらいの顔しているから、そうかなぁって」 「なるほど……?」 「なるほどなの? まあ、なるほどか。いきなりそんなこと言われてもね……」  愛は、とにかく会話をつづけようとして、「あなたは、いくつなの?」と、拍子で聞いた。 「一応、十六歳だけど……忘れちゃった」 「忘れたって言うと……」 「この見た目のまんま、ずっと活動してるから……ほら、不老長寿ってやつ? 年とらないの、私」 「そうなんだ……? ……活動って?」 「まあ、いろいろ」  あるきながら、チカは愛の身体を、ちょっと背負いなおした。足どりはまったくみだれない。人ひとりおぶって歩いている、というにはちょっと平然としすぎているようにも感じるが……「……重たいよね?」と、愛は、聞いた。チカは「そりゃあね。でも、魔法で筋力をつよくしているから、このくらいは平気よ。大丈夫よ」と、答えてきた。 「そうなんだ……」 「魔法っていうのは、知ってる?」 「ずっと昔になくなったって聞いたけど」 「あったことにはなってるんだ?」 「うん、まあ、そういう文明があったみたいだって教科書で。半分おとぎ話だって、学校では言ってるけど……」 「なるほど」  チカは言った。先に愛が言ったことのあてこすりにも聞こえかねなかったが、そのあと、何事か考えはじめた。  どうも、まじめに受けとられたようだが……愛としては、やや気まずい。今になって魔法があったことを信じているなんて、子供みたいだ、と、言う人はいるからだ。  だが、チカの父はそうは思っておらず、考古学者という、真面目な観点から、かつて魔法によってさかえた文明があると考えていて、そういう名目で研究もしているし、論文だって書いている。  チカもいくつか読ませてもらったが、難しい言葉がいくつもいくつも出てきて、言葉の意味を調べながらぜんぶ読みきった。おかげで、いまだに日常生活では、あんまり使わないような言葉まで、よく頭に浮かぶくせがある。 『その昔、魔法によって栄華をほこった文明があった。文明は魔法によって栄華を誇ったため、ほうき星のように一瞬でながれさった……』  帰り道、と言うから、チカの足は、愛が案内したとおり愛の家にむかっている。途中、すれちがう人がこれを見たらどう思うだろう、と、ぼんやり、頭のすみで思いながら、愛は、さっき河原でチカに大声を上げかけたのを思い出した。 「ハルタって言ったっけ……さっき、あなたと、いっしょに河原にいたって言う。その子のことだけど……」 「そう! 春多(ハルタ)! あ、その……」  愛は、また固唾をのむような表情になった。 「その……」 「今、言えないなら、あとで聞くけれど。混乱しているでしょう」 「いえ。私が……」  愛は、頭をふった。それから、ぐっとなにかをこらえるように、チカに言った。ここからでは、顔も見えないが。 「私が……思い出すことで……わかることがあるの? あなたにわかることなの?」  チカは、「……」と、だまりこんだ。実際に黙りこんだ、と言うものなのか、どうか。が、先に愛ははっとして、うつむきかけ、それからチカの顔を懸命に見た。その瞳のあたりを。 「ごめんなさい。こんな言い方、よくないよね」 「ああ。ごめんなさい。気にさわったわけではないから。あなたのことなめてたの、私。怒っていいことよ」 「そんな」  チカは首をまわして、どうにか愛の目を見た。が、うまくいかなかったのか、すぐに前を向いた。 「なるべくくわしく教えてほしいの。消えた、って言ってたわよね。あと、黒い穴がどうとかって?」 「そう。……消え、たの」 「穴というのは?」 「わからない。急に、なにもないところに穴が開いて。そこにハルタの身体が黒くなって吸いこまれたの。まるで……」 「まるで食べられたみたいに」と、思い浮かべて、愛は、それ以上続けられなかった。チカはちょっと、首をかしげた。 「それはいつ起きたの? 私があそこに姿を現す前? それとも、同時くらい?」 「たぶん、直前に……」 「実際に、なにが起きたか、その瞬間を見てみないとわからないか……そんなことは、できないけど。いや、できるかもしれない……?」  チカはぶつぶつとつぶやいた。愛はふたたび、固唾を飲んでその様子を見た。チカの手にかかっていた手が、無意識ににぎられ、力を込めないようにするのが大変だった。 「ごめんなさい。話してくれて、ありがとう。でも、やっぱりごめん。いまは言えることはないわ。少し分析が必要だから……」 「そう……」 「あなたの家、親御さんはいる? お父さんは? それとも、おばあちゃん?」 「お父さんはいない。おばあちゃんも帰ってくるのは明日の夕方になるって……そんなことも、わかるの?」 「そう。やっぱりあなたもお父さん……お祖母様がいるのね。お母さんは?」 「いない。うち、お母さん、死んじゃったの」 「そうか。悪いこと聞いちゃってごめん」と、チカは言った。「ううん」と、愛は答えた。  この人は一体なんなのだろう、と、根本的な疑問が、愛の胸にずっとある。おもりが、糸を張ってのびているようなはりつめた意識が、おぶられて、家路を行く愛の頭にこびりついていた。 (いったい、何者なんだろう)  ハルタがいない。  そのことが、いつまでも重かった。ハルタの叔母さんになんて言えばいい? 考えて。自分で考えて。相談できないなら、自分で考えて。他人に投げてしまうしかないにしても、自分で考えなければいけない。まずは。 (魔法ってなに? なにが起こったの? あそこで、なにがあったの? あれは、魔法なの? 魔法なら、だれが使ったの? だれが……。……だれが、ハルタを……)  その先は考えられない。愛は思うよりも混乱していたようだった。混乱し、興奮に青ざめて、顔色まで紙のように白くて。 「着いたわよ。ここ?」と、はっとして、愛は前を向いた。チカが聞いてきている。いつのまにか、家の前についていた。 「立てる?」  と、チカは聞いてきた。愛は、頷こうとして、それができないことを思いながら、チカの背中をおりた。 「それじゃ」  チカは言った。愛は、あっと、声には出さずに、かるく驚いた。 「どこに?」 「人目につかないところかな。ここまでは人払いの魔法で、目につかないようにしてきたけど、あんまり、長く使ってるのってよくないから。自分の行動はともかく、他人の行動にいつまでも干渉しちゃうからね。どこか、一箇所に、人が近づかない結界を張って……ま、とにかく、明日また来るわよ」 「あ、うん……いえ。そうじゃなくて」 「?」 「その、よかったら」  愛は言った。直接的には、さすがに言うのがはばかられた。チカは断るかと思ったが、「う〜ん」と、思いがけず考えた。愛はさらに、言う。 「明日の夕方まで、って言ったけど、おばあちゃん、もっと帰ってこないかもしれないのよ。予定が長びくの。いつも。よかったら、だから、明日まででも、ウチに。ここらへんは危ないし……」 「……」  チカはもう少し考えたようだった。  それから、小さく頷いた。顔がほころぶ。なんというか、感情が表れた、というより、如才無いような、そんな印象のある笑みだった。 「ありがとう。とても助かるわ。それなら、お邪魔します」  愛はほっとして、チカを家の中に招いた。何にそんなにほっとしたのかは、いまいち、自分でもわかっていない。 「着替えはある?」  と、なんとなく聞く。すると、チカは「ああ」と、手ぶらで答えた。「用意できるから、大丈夫よ。着替えなくても……とはいかないか。まあ、服をきれいにする魔法もあるというか、魔法でできるというか」などと言いかけたが、ならお風呂はいい? と、聞くと「いただく」と、簡潔に答えてきた。  風呂は浴槽も、洗い場も、磨いたばかりで綺麗だった。トイレも確認するが、掃除したばかりだ。台所は、ちょっと洗い物が漬けてあった。  あとは寝る場所だが、さすがに愛の部屋、というわけにもいかないと思い、考えた。 (チカ・ランドマー・タワーズ……)  考えをめぐらせていると、気が多少まぎれて、冷静になった。  自分と瓜二つの、鏡にでもうつったような姿。  偶然、似ているというわけもないだろう。ならば、なぜか。親戚、生き別れの姉妹、他人の空似……そして、「そう。やっぱりあなたもお父さん……お祖母様がいるのね」……あの言葉。  もうひとりの自分。 (まさかね)  とにかく、聞いてみなければ。答えてくれるかはぬきにして。愛は、洗面所から出た。  居間に行くと、チカは少しも動いていなかった。座っていて、と言ったソファから、一歩も動いていない。厚着の服装もそのままで、暑くないのかな、と、愛は、自分の格好を見ずに見下ろして、ふと思った。そういえば、あんな格好をしているのに、この暑さのなか、チカは、汗ひとつかいている様子がなかったではないか。もちろん、気づかなかったわけではない。風呂や、着替えがどうこう、と思い浮かべたときには、考えついていた。  愛は、ソファの横に置いてある扇風機のスイッチを入れた。そよそよと、涼しい風が出だす。風を強くすると、チカの帽子のつばがそよそよとゆれた。チカは、なんのけなしにそれを見ていて、「へえー」と、感心した声をあげた。 「送風機ね。見たことないかたち」 「そうなの?」 「ええ。私のいた世界では、見たことないわ」  愛は聞き流しながら、私のいた世界、とチカが言ったことは、しっかり聞いていた。いまが聞くときだろうか、と思い、床に正座したまま、チカを見上げた。 「その」 「うん?」 「あなたは……、一体誰なの?」  チカは、「……そうね」と、ちょっと考えて言った。どう説明したものか、あらためてまとめているような顔。チカの前に、さっき置かれた愛が出した麦茶のコップが汗をかいて立っている。すこしだけ、中身は減っていた。 「実をいうと、どう説明したらいいか考えていたわ。勝手にあなたの言葉を補足するけど……一体、どこから来たどこの誰なの? ってことでいいわよね」 「……」  愛が無言でうなずくと、チカは「いいわね、それ」と言った。 「て言うと……?」 「まずはそこを理解すると、こだわりが少なくなってすむから、いい質問の建て方だなって思って」 「ええと。ほめられてる?」 「そうね」  チカはくすりと笑ったが、タイミングほどには、嫌みに感じないものだった。 「私は……とりあえずは、あなたとは、なんの血のつながりとか、生き別れの双子の姉妹とか、そういう関係はないわ。赤の他人よ。瓜二つくらいに似ているというのも、ただの偶然で、他人の空似」  チカはまじめな顔で言い、ふと宙を見て、蝉しぐれの音を気にして、すぐに続けた。 「なんだけど、なんの関係も無いってわけではないわ。でも、それを説明しようとすると長くなって、あれやらこれやらって、物事をわけて順序立てて説明するはめになる。それだと、よくわからない。だから一言で簡単に言ってしまえば、あなたと私は……違う世界に生きている、同じ人物なの。どこかで、環境とか、世界のそもそもの形とか、そういうことが違ってしまった臣愛、と、チカ・ランドマー・タワーズという別の名前をもつ他人。魂のかたちってものを見れる人がいるとしたら、それが同じだって言うような、そんなね」 「……」 「わからなかった? それか、信じられなかった?」  チカが首をかしげた。愛は「え、いえ」と、ふるふる首をふった。 「『どうしてわかるの』って言われると、私にはその、もしあったらっていう魂のかたちとおんなじようなものが見れるってことと……ここが、私の世界から見てどういう位置にあるところかってことが、わかること。あなたにわからないのは、それが見えないし、普通、見えなくてあたりまえだからってことかな……」 「わからないわよね?」と、チカは確認してきた。愛は、気まずげにうなずいた。 「さっき、活動って言ってたのは……」 「まあ、いろいろよ。この世界にやってきたのは、その活動のためで、どうしてやってこれたかは、一言でいえば魔法でそういうことが、できるからかな」 「うん」 「この世界には魔法があったと言われているんでしょう? でも、今では信じられていない。あなたも、魔法を見たことがあるわけではないわよね?」 「……」 「私の世界には、ずっと魔法があったの。現代では、科学の発展におされぎみで、人間は、ほとんど科学によって生活していて。魔法を使える人間というのも、わざわざすすんで使おうとする人間も、一部の魔法使いだけだったわ。結果の得られ方が不安定で、研究はできても安定はさせられなくて、誰にでもうまく簡単にあつかえるわけじゃない魔法よりか、人間には科学のほうが便利だったからね。ただ、日常生活に魔法でおぎなえたり、そのほうが楽だったりする分野には、魔法が浸透していたから、科学の発展っていうのは、とてもムラがあり、ばらついた世界だった」 「……」 「どうしてそう言えるかと言うと、私は、私のやっている活動のために、いろいろな世界や時代を行き来してきたから……かな。自分の世界と、自分の世界とはことなる発展をした世界とを、数多く見てきて、くらべることができるようになったから」 「異世界ってやつ……?」 「そうね。異世界、タイムトラベル、それと……」  チカは言った。 「並行世界の移動。ほかにも異次元に行ったりとか……」 「……」  愛は、暑さを感じながら、聞き入った。が、じつは半分くらい聞き流してしまってはいた。  とはいえ、にわかには信じがたいことを言われている、という自覚はあった。  なので、分かる範囲から言った。 「さっき、川で使っていたの……あれが魔法なの?」 「そう。あれは魔法。さっきも言ったとおり、あなたを背負ってきたときに力を強くしておいたのも、魔法。……ついでに、私がこの暑さでも汗をかいていないのは……まあ、魔法の結果だから、魔法なのかな」  チカは、あいまいな言い方をした。思いだしたように、コップに口をつける。そういう動作には、愛とかわるところがない。チカが汗をかいたコップを置いた。氷は小さくなっている。 「そのうえで、私の活動について、ようやく説明できるんだけど……この話ははっきり言ってちょっと長いし、私の世界に起きた出来事がかかわっているから、あなたにさらなる混乱を与えることになると思うわ。だから、おいおいね。……もしかしたら、この先もあなたとは関わるかもしれないから。そう、私の目的は……言ってしまえば、さっき川でやっていたことよ。どれくらい見えてたか、わからないけれど」 「なにかを捕まえてた……?」 「そう。よく見えたわね。あれは……というか、あれも、魔法よ。ある場所から逃げだした魔法。私は、それを捕まえるために、いろいろな世界やら時間やら……本当にいろんなところだけれど、を、あちこち追いかけているの。それを追いかけて、捕まえる。それが、私の目的よ」  からん、と、コップの中の氷が鳴った。愛は、そろそろのどがからからになっていた。  めざまし時計の針が、暗闇のなかでこち、こち、と、深夜の時をきざんでいる。  夜。ベッドの上。 「ひとつだけ教えて。……ハルタは、……私の友達は、どうなったの……?」  会話が終わるころになって、愛は言った。チカは、愛を見ないようにしつつも、あごに手をあてて考える様子をして、言った。 「さっきも言ったけれど、私にもまだ断言できない。そして……断言できないことが残っている状態で、このことをあなたに話すことを、私がしたくない。予想はついている。あとは、少し時間をちょうだい。なんでかと言うと、あなたの友達のことについては、予想できる範囲で、私は責任を感じているし、それに他人事ではない、と思っているから」  チカは、愛をまっすぐ見て、説くようにして、続けた。 「他人事ではない、というのは、ただの同情心とか罪悪感とか、そういうことではないわ。信用してくれとは言わないけれど、納得するかたちでわかりたかったら、待っていて。お願いよ。……大丈夫。なにがあっても必ずあなたに言うと誓うから」  愛は、やや圧されてうなずいた。  あのあと、愛が作った夕食を食べて、「おいしかった」と言うと、チカは居間のソファで寝るとだけ言ってきた。  まがりなりにもお客に対してそれは失礼がすぎる、と、愛は「部屋なら用意する」と言ったものの、チカはこのソファが気に入ったから、これでいい、と、ゆずらなかった。  あとは愛が片づけをしているあいだに、風呂に入り、マントと帽子だけはずした格好になると、あとは寝るまで一階の父の使っている書斎を借りて、ずっとなにか調べていたようだった。愛が自分の部屋に行くときに、おやすみ、とだけ挨拶して、そのとき顔を見た。チカの顔は、居間でソファにじっと座っていたときや、愛に自分の話をしていたときと、すこしも変わることなく、黙々と山積みにされた本をめくっていた。  ちょっとかっこいい、と思った。自分とはまるでちがうというところで。 (私にはなにもできない)  今の私にはなにもできない。  そう思ったことがある。チカを見ていると、そのころのことを少し思いだした。  夜は、物思いさせる。いくつもそういう夜をこえてきた。何もしていないような愛でも、そのようだったのだから、何かに打ちこみ、己と戦って前進していく、積み上げていくことをやっている人は、どれほどか。愛にはわからない。今の愛にはわからないだけだよ、と言った、祖母の言葉を思い出す。 (なにか夢中になって、誰にも負けたくはない、と思えることがきっと見つかる。そのときに、いくらでも歯がゆい想いを積み上げていけばいい)  愛は、タオルケットを口もとによせた。夜は暑い。扇風機の風が生ぬるく、少しも涼しくなく、お腹は湯に浸かっているように茹だっている。蚊取り線香のつんとした香りが、煙になって夢のようにたゆたっている。 (ハルタ)  明かりをつけて、部屋の壁に目をやる。うっすらとしたやや弱りかけた明かりのなか、陰を落としながら、壁に貼った絵が浮かんでいる。古びはじめたプラスチックの画鋲。地面に座って、足を伸ばし、その足先に向けて身体を伸ばしている、愛の姿。二年前、短距離の大会に出たときに、ハルタが、ユニフォーム姿でポーズを取った愛の姿をスケッチして、仕上げてくれたものだ。  スケッチブックに描いたものだから、保存にこれから苦労しそうだったが。「また描いて、チカにあげる!」。ハルタは言っていた。  翌朝。  愛の家。  気まずげに、赤くなった目をこすりつつ、愛は階下に下りてきた。頭がぼんやりする。 (喉、いた)  声ががらがらに枯れてそうだった。愛は、洗面所に行って、いったんうがいをした。前にもらった、うがい薬がまだあまっていたはずだ。べっ、と吐きだして、苦そうな濃い色に染まったうがい薬と水の、混ざったのを見送る。  台所に行って水を飲む。喉がかわいていた。  ついでに居間をそっとのぞくと、ソファのところに寝ているらしいふくらみがない。近寄ってみると、寝たあとはあり、タオルケットがそれらしく置きっぱなしになっている。 (まだ早いよな)  と、内心舌を巻いていると、玄関で音がした。びくっとして、祖母だろうか、と思ったが、居間からそっとのぞきこむと、玄関からチカがやってきていた。  とんがり帽子にマント姿だ。朝の薄闇に、特徴的なシルエットは目に痛かった。 「おはよう」  愛のほうが、先に挨拶した。「おはよう」と、チカはやや晴れたような顔で言う。が、嬉しいというよりは、それは昨日より愛想に幅があるようだった。  実際、片手に下げていたバケツに目をやると、すぐ真顔になった。 「ごめん、家のなかに持ってくるものでもないな」 「それ、昨日の……」 「昨日の川に行ってきたの」 「わざわざ、とりに? ……そんなわけないか」 「うん。昨日、逃げられたからね」  チカが言うと、愛は花火を入れたままのバケツを受けとって、「逃げられた?」と、おうむ返しに聞いた。チカは考えるふうで、そんな仕草をしながら言った。 「昨日、あの場で捕まえたと思っていたのだけれど……あれから確認したら、逆で。捕まったふりをして逃げていたのよね。私が追いかけていた魔法……ただしくは、魔法のかけらね」 「かけら?」 「今追いかけているのは、もともと一つだった魔法が、何百にも分裂して、あちこちに散っていったものの一つなのよ。まあ時間がかかるものなのだけどね」 「そんな話なの?」 「そうね」と、チカは言った。ぱっと手を広げてみせる、が、手には何もない。愛が何かありそうに見ただけだが。 「朝ごはん、まだでしょう? 勝手に準備をしておいたんだけど」 「え? 料理?」 「そりゃ料理。勝手に冷蔵庫の中を使ったのはあやまるわ」 「ううん、べつに……」  料理できるんだ、とは言わないほうがいいなと愛は思った。とはいえ、チカの作った料理は、とくにおいしいと言うでもなく、こんだてもごくごく愛が自分で用意するのと変わらないものだ。その点は、逆に意外だった。勝手に、すごい腕前なのだとみがまえていた。 「いつもこんな感じなの? おいしかったけど」 「そうよ。得意ってわけじゃないし。それはともあれ、魔法のことについて話そうかと思っていて。あれ、あなた学校は……もしかして、夏休み? いま」 「うん」 「そうよね」  チカは、あいかわらず汗をかいていない顔で、涼しげに外を見た。朝の清涼すぎる空気が、アンバランスに水気をふくんで、蝉の声をさあさあ降らせている。昨日の夜、すこし雨が降ったのだろう。 「私が追いかけているのは、最終的には、私のいた世界から散った七つの魔法、というものなの。私がそう呼んでるだけだけど、まあ、七つの魔法よ」 「そのひとつが、昨日の……あの?」 「正確には違うけど、目的としては変わらないわね。あれはさっきもちょっと言ったように、七つの魔法の、そのうちのひとつが何百にもわかれた一つの姿。追いかける私の存在に対応して、私から逃げようとして、その姿に変わったもの」 「魔法、なんだよね?」 「そうね。魔法だから、あくまで自分の意思や意識なんてものが、明確にあるわけじゃない。七つの魔法の多くは、正確には、私から逃げているわけでもないし。ただし、追いかける私から逃れようとして、七つの魔法の一つを分裂させて、させるまいとする行動がある……それが、七つの魔法のなかで、例外的に自分の意識を仮のものとしてもった、七つのうちの二つ。私は、これを名前がないので、自分で名前をつけ、「無花果(いちじく)の魔法」、「柘榴(ざくろ)の魔法」と呼んでいるけれど。意味はそんなにないかな?」 「その……分裂した魔法っていうのは?」 「名前? そうね。つけるとしたら山葡萄(やまぶどう)の魔法かな。いっぱいあるからね」 「そうなんだ……」 「魔法というのは……「私の世界における」、魔法というのは、よっつほどの原則で成り立っていたわ。一つめ、魔法は周囲、つまりは魔法以外のものに対する影響を、およぼさないほど高度で強力である」  愛は目をぱちくりした。といって、話を理解しているわけではない。 「及ぼさないほど?」 「私の世界における魔法というのは、本来、人と周囲に存在する「マナ」と呼ばれる要素をあつめ、つかうことで実現される現象だった。魔法は、科学や化学といったものに徹底して反して発生するものであり、あるいは努力や積み重ねをこえて、一瞬で望まれた結果を実現した。生み出されるのは、いつもそこに存在するのが不可能で、起こった事実に反していて、不自然かつ、理不尽なものだった。お腹が空いている人がいたら、目の前に、食べると元気がついて、何十時間でもすぐさま動きまわることのできる食事を。目の見えない人がいたら、たちどころにその目が見えるようになる奇跡を。明日をも知れず、貧しさにあえいでいる人がいたら、目の飛び出るような富と、あたたかい何着もの服、豪華な邸宅、何十年でも食べられるだけの、すぐに実る畑を。星空や深い海の底が知りたいという人に、そこへ行けるだけの空気の湧き出る袋や、真空や水圧の世界でも身軽に動きまわれる不思議な服、一瞬でそこへ行けてしまう移動手段を。人の想像力がおよぶかぎり、魔法は一瞬で実現し、マナは尽きることがなかった」 「す、すごいね」  愛は言い、チカは、考えるふうをした。言う。 「すごいでしょうね。ただ、そういうものはすぐに廃れたわ」 「どうして……?」 「魔法を使う人が、何でも出来すぎるから。私の時代には、もうそういうことはないほど、魔法がすたれていたのだけれど……なんでもできるものだったころ生きていた人たちは、なんでもできることに、だんだん、飽きてしまったんだって。飽きて、嫌になって、最後には魔法がなんでもできすぎないようにと、世界がそうなるように、魔法をかけてしまった」 「……」 「魔法がなんでもできることのないように、究極の魔法も生み出された。「世界にたったひとつ」であった究極の空白、ありし零(ぜろ)であったものとよばれる、ひとにぎりもできないほどの空白を、気の遠くなるような、膨大な手順と年月、けた違いに莫大なマナを使って生み出した。この世の何にも影響を与えないただの「無い」。目に見えることが、この世のどんな精巧な顕微鏡を使っても無いほど小さく、そこに無いということを実現した、「在る」。それが、「究極の魔法である」として定められ、魔法は衰退していった。なんでもできるのでないなら、わざわざ手間をかけて使う必要もない。むしろ、ほかの方法をさがして確立させたほうが、時間も手間もかかるけど、結局、楽だってね」 「よくわからないでしょ」と、チカは言った。それはそのとおりなので、愛は言葉に詰まりつつも、うなずいた。 「とにかく……わかるか、わからないかはともかく、魔法はそうして、なんの影響もおよぼさないほど、高度であり、強力であるものとしてさだめられた。使っても、何も起こさないか、起こしても軽微である。使っても、何も残さないか、残してもほんのささやかである。使っても、何も壊さないか、壊してもごくわずかである。現象が起こったあとに、何も影響が残ってないことが、高度で強力な魔法であるとされたの。どれほど高度で強力かは、さらに、そそがれたマナの質、量が多いか少ないかのみを測って、マナが多くて質が高いほど、高度で強力とされた。そのため、魔法は周囲、つまりは魔法以外のものに対する影響を、及ぼさないほど高度で強力である。これが、魔法についての、一つ」  チカは指を立て、もう一つ、指を立てた。 「二つめに、魔法はマナを消費して結果や現象を実現するもの。マナとは人や自然に存在し、その総量が無尽蔵で、魔法以外の現象や存在、つまりは物質を拒絶するものである」  言う。のに、愛は頷かなかった。かわりに、首をかしげて、聞きかえしている。 「無尽蔵って……ずっと尽きないでどこかから湧き出てくるの?」 「そう。科学や……物理法則や自然化学にずっと反しているのが魔法だから」 「それは魔法であって、マナは、魔法の源でしょう……? 別のものじゃないの?」 「まあ聞いて。マナには、現象や存在、物質を拒絶する性質がある。このため、マナが多すぎる人間は、マナ過剰といって、生まれつき、空気や水、重力といったものまで、無自覚に遮断して生きることが困難なこともあるの。私たちの世界では、これを病気としてあつかっていたわ」 「空気や水まで……?」 「マナは、どの人間にも生まれつき存在して、文明が発達したころには、それは水道の蛇口を開け閉めするようなものだと言われていたわ。過剰に出しっぱなしになって、扱うすべや、あやつるすべをもたなければ、出しすぎで、生きるのに必要なものを拒絶する性質が、それだけ強く現れてしまう。人間は身動きできないまま、ふたをしたバスタブに入れられているようなもので、水が出続ければ、浮かぶこともできずに溺れてしまう」 「……」 「あるいは、こういう表現もあって、マナは人間という木にめぐって花を咲かし、実をつける養分である。花や実とは、つまり魔法であって、華美なものほど、やがてばらばらに散って残らない。果実は花が散っても、最後まで残り、あるいは熟し地面に落ちて、あたらしい……、!」  チカは、すばやく立ちあがった。愛が驚くよりまえに、横に鎌があらわれている。昨日、川でチカが操っていた鎌だが、今日は、それよりも近くに見え、まがまがしい刃のついた横の根元側に、ストラップのように下げられた、銀の月と緑の猫のペンダント(ハート型のエメラルドを、猫が前足でつついている)と、ねずみ色の細工と、明るい黄色の石で作られたペンダントの二つまでが、よく見えた。ねずみ色の細工は、愛が父に以前見せてもらった錫(すず)、という金属に、輝きが似ている。  チカは、そのストラップの、月と猫の細工のもののほうを鎌からひきちぎった。早口で唱える。 「ルー、ルー! 歌え、緑色の鉛を転がす猫!」  そうして、細工を下げた鎖を、口にくわえると、鎌とともに居間に面したガラス戸を飛び出していく。愛があっとなったときには、もう遅い。チカが向かった先で、ガラス戸が音を立てて外に吹き飛んでいき(ガラスは一枚たりと割れていない)、玄関から見て家の正面に当たるところに、またたくまに黒い水がわきだした。  黒い水は、表面がてらてらとしていて、そういうきれいな宝石か金属のようだった。水はつっこんでいったチカの身体をあっというまに飲みこみ、たちまち家の中に侵入してあふれだす。  愛が悲鳴をあげかけたとき、その水の動きがぴたりと止まり、家の一番奥に達していたほうから、たちまち凍って黒いガラス、あるいは黒曜石のようになって、今度は、そこら中に広がった。愛は拍子で、後ろに倒れこみ、もう少しでそのよく切れそうな表面に全身をぶっつけていくところだったが、そこで、急にふわっと身体が浮かび上がり、黒曜石をさけて安全なところに放り出されるように、倒れた。 「!? !」  愛は、心臓をでんぐり返して凍りつくのと、わけもわからず声にならない声を出すのとを、同時にやった。  その愛の横に、ぼんやりと緑色の石が浮かんでおり、愛はそれを見たためになお混乱した。同時にその緑のかがやきに安心も感じた。石はふっと消え、次に大きな揺れがあたりをおそった。そして、急な振動で凍った黒い水が、つぎつぎと割れ散った。無数の破片が愛に振りかかろうとして、そのすべてがばらばらに愛をよけて、降りそそぎ刺さった。 「動かないで!」  チカの声が耳もとから聞こえた。愛はびっくりして、動転しながらもそのとおりにした。すると、ふっと愛のそばにチカの紅いブーツが立ち、宙に浮かびあがった鎌が、一気にあたりをなぎはらった。残っていた黒い水が、すべてくだけ散って、空中に向かっていっせいに落ちるように飛んでいった。 「みっつめ! 魔法は魔法であることがわからないよう隠すことで、より高度で強力になるものである!」  チカが叫んだ。愛はまだ続けるのか、と、一瞬あ然とした。  が、聞き捨てならないことに声を返す。 「か、隠す!?」 「そう! 魔法がもしも、この世の法則やなにかに反していて、どうとでも実現できるんなら、こうやって、最初から逃げ場のない質量で力押しで押しつぶせばいい!」  なんのことかと思った愛に、すっと周囲が影がさしたように暗くなったのが見えた。チカの一撃で、壁も屋根も消え失せて、頭上には空が見える。その空を覆ってなにかとてつもなく巨大なものが視界一面に広がっていた。雲と太陽の光のあいだにとほうもなく広くて、なにかはわからないほどに巨大で、こちらに向かって遠近感が狂った速度で、覆いかぶさってくる。  あたりはむしろ狭くなり、空そのものが落ちたような黒い影は、しいて言うなら昔、動物園で見た象の足を裏側から見て、自分を豆粒や砂粒くらいにして踏みつぶしてくるのを見るような、そんな、頭の裏側が粟立っていく感覚のみを愛に起こさせた。べきべきと木がへし折れる音がする。愛の家の近くに立っている大きな木だった。 「飛ぶわよ!」と、チカが言って、愛は自分の身体が踏みしめていた足や膝の裏をはなれて、地面から跳んだのを感じた。 「……、わあーっ!!」  ついに愛のやぶれかぶれかのような声が、中空を駆け回りうねった。ほんのつぶされる一瞬、どのような力かはわからないもので、チカは愛の手を取って宙を舞い飛び、どうやってか、空に脱した。  象の足を想起していた愛は、回転する視界のなかでどうにか自分たちのいた所を見下ろした。すると驚くべきことに、そこには愛の家が立っていた。もう眼下に一望できる距離に、愛たちはあった。  つぶれてぐしゃぐしゃになった景色を想像だけで補っていた愛は、目を丸くして「なにひとつ変わらない」家があるようにしか見えない眼下の景色を見つめた。 「いまので終わりかな。でも、こっちの手の内のことは、いまのでぜんぶバレちゃった……あ。だから退いたのか」  チカが言った。ぐんぐん上昇していくらしい、自分の身体を感じながら、愛は前を見た。  昨日の雨を降らせたらしい雲が、さんさんと日光を受けて立っている。空はどこまでも広く、怖くなるほどだった。実際に、決して遅くないスピードで飛んでいて、慣れない目がくらくらする。 「とっ、飛べるんだ……そりゃそう……なのかな?」 「まあね。魔法だからね」  チカはぐんぐん高度を上げた。風が強く、容赦なく耳をなぶって通りすぎる。上がりはじめた日と、温度がギラギラ肌を刺したが、少しも痛くないのだった。愛のシャツを身体にはりつくほどあおって、強い風は痛いくらいで、しかし、違和感がある。それがチカと会話する音がさえぎられないからだ、と、愛はなにもないのに、勝手に理解した。 (今のは?) 「そうそう。普段どおりしゃべっても大丈夫だから。ちょっと話をしたかったのだけれど……ここって日本じゃないのね?」 「ああ……うん。今はニホン州とか……東亜アメリカとも呼ぶけど。チカが言ってるのは、日本のことよね?」 「そう! 昨日本で見て。気になってたから!」 「チカの世界とちがうところって、もっとあるわよね?」 「そうそう。アメリカってなんだろ、とか。私の世界では、あそこのアメリカがあるところって、ランプールって国があるの」 「そうなんだね!」  チカが方向転換をしたので、愛はチカの身体に思わずすがってしまった。いつのまにか、二人の身体の下には、一本の棒(たぶん杖。持ち手が鎌と同じことは、ストラップのようなペンダントが見えて、わかる)が添えられており、チカと愛は、その棒に尻をあずけるようにして、まるで自転車にでも乗っているようだった。 「す、すごい」 「いいでしょ? 前に違う世界に行ったとき、こうやって飛んでるのを見たから、できたらなって思ってね。ものまね」 「ちょっと魔女みたいだけど、……魔法使いっぽくはあるかな……」 「魔女って?」 「魔法を使う女の人のこと。お父さんが言うには、魔女とは言っても、男の人や、人間じゃない場合もあるって言うけど……」 「ふうん。お父さん、か。なつかしいな……」  チカは言った。その言い方は、何気なかったが、愛の胸を深く刺した。 「私のおばあちゃんは、そのランプールって国にいたの」 「あ? あ……さっきの話?」 「そう。ランプールって国は、魔法の研究が盛んで、実際に、そのころよりずっと昔の魔法使いほど、すぐれた魔法使いが七人もいた。その七人の魔法使いは、優れていたから研究のすえに自分たちが、究極の魔法である「たったひとつの魔法」……ありし零にたどりついたのを、ある日、悟ったの。そうして自分たちにも、ありし零と同じか、あるいはそれ以上のものが生み出せるのではないか……ひいては、この世界にかけられた、魔法を今の魔法にたらしめている魔法をも、どうにかできるのではないか、と思った」  チカは言った。せわしなく周囲を確認することは忘れていないが、だからこそ、愛にはちょっと奇妙だった。  どうしてチカは熱心になにか「教えよう」としているのか? そうも思ったからだったが、チカがそうする理由は、思い当たりもしなかったため、気のせいか思い違いだろう、と、すぐ思い直した。 (もしかして、チカなりに喋ることが、集中したり、それか気をまぎらわせる方法なのかもしれない)  だとしたら、できるだけ聞き手に回るのが、今の自分にもできること? なのか? と、ぐっと疑問をのみこんで、愛は判断した。今やるしかないなら、とりあえず判断はしなければならない。 「そっ……それで?」 「うん、それでね……七人の魔法使いは、たったひとつの魔法を自分たちのもとにおいて、よりくわしく調べようとした。たったひとつの魔法は……そのころには、魔法を研究する人なら誰もが知っているところにあったけれど、簡単には取り出せなくなっていた。七人の魔法使いは、それを取り出す方法を、魔法の研究のすえ知っていた。だから、取り出すことには成功した」  チカはそこで、なにか異様なものが入りこんだようすに、一瞬なった。小骨が刺さったふうでもあった。が、よどみなく続けた。 「でも、いざ魔法を調べはじめると……異変が起きた。その異変がどのようなものなのか、七人の魔法使いがなにをしたのか、その結果に、どのような意味があったのか。今となっては、それを知る術(すべ)はないけれど……異変の結果として、たったひとつの魔法は、分裂して七つに分かれ、その場から消えた。魔法使いたちの世界から、つらなっていたあらゆる世界、あらゆる次元、あらゆる時空、たまたまつながりのあったまったく異なる異世界の地、異界、天界、神の国、妖精の住まう地、悪魔のおさめる地獄、異形の魔神がうろつく魔界。はては気の遠くなるはての星々まで、黒黒とあらゆるものを吸いこむ渦が巻く最果てまでも、一瞬で駆けぬけ、見えなくなってしまった。魔法使いたちの世界からは、魔法が消えた。どこまで魔法たちが逃げたのかは、誰にもわからないし、逃げた先でどうなったのかも、またわからない」  愛は、チカの語り口にわずかに圧倒されたが、聞いた。 「じゃあ、チカはその七人の魔法使いに頼まれて、魔法を追いかけている……?」 「ちょっとちがうけど、そんな感じね」  チカはあっけらかんと言った。一瞬、憑かれたようになった口調は、もう微塵もない。  制動をかけて、「掴まって」と、指示すると、愛がそうしたのにあわせて、適当に(にしか愛には見えない)場所を選んですべるように降りた。 「気をつけて」  と、チカは愛が地面に足を下ろすのに、手を貸した。これほど生身で宙に浮いて、あちこち飛んで、それから地面に降りるという体験は当然愛はしたことがない。宇宙飛行士が月の地面に足をつける心地で、杖から降り立つ。  空中で乗り物(というか、土台)になっていた杖は、杖のかたちのままチカの手に勝手におさまった。ひょっとして生きているのか、とちょっと思い、杖を見たのに答えるように、チカが杖の先を振った。 「この杖は接骨木(にわとこ)の鎌と言って、これ自体が魔法なの。杖に見えるけど杖じゃない……って感じかな」 「ひょっとして生きているの?」 「いいえ。さっきもちょっとだけ言ったけれど、魔法に明確な意思や人格はないわ。そう見えるくらいよく動くとか、働くとか……といって、使っている魔法使いとしては生きていようが、いまいが「そういうもの」って思っているから、どっちでもいい、なんて考えていると思うけれど。私もそうだし」 「魔法使い以外の人たちはそう思わないこともあるかもね」 「そうね。私の世界では、ちょっとした魔法ならありふれていたから……「どっちでもいい」派の人がきっと多かったと思うけれど。もう少し時間があるか」 「時間って?」 「あとでわかるわ。どこまで話したかな……そうだ。魔法は魔法であることがわからないよう隠すことで、より高度で強力になるものであるってところだったわね。ちょっとした魔法は、魔法を使う人以外の人に見られていたり、使われたりするのであっても問題がないんだけれど、高度で強力な魔法は、魔法を使う人以外の人の目と頭から隠される必要がある」 「隠されるってことは……さっき、魔法……だよね? が、「最初から使われていれば」って言っていたことと、関係がある?」 「そう。私を排除したいのなら、最初から相手が気づく前に、あれをして、一気にぺちゃんこにしてしまえばよかったでしょ」 「う、うん」 「そうしなかったのはできなかったからで……なぜできなかったかと言うと、ひとつは私が魔法が使われたことに気づくから。これは、魔法使いの感覚的な問題ね。「魔法を使った」と相手に気づかれてしまえば、魔法を強力にしていた条件がゆらいで、高度で強力であった魔法は、たちまち魔法を保てなくなり、ふっと消えてしまう」 「そうなんだ?」 「もうひとつが、あなたや……あの場にいた、周辺のあなたの近所の人たち」 「私……たち?」 「信じられないと思うけれど、高度で強力な魔法は、魔法が使われた痕跡が確認されてしまうと、魔法を保てなくなって……魔法がもたらした結果が、たちまちふっと消えてしまうの」 「え?」 「結果が消えるというのは、つまり、壊したものが元に戻り、消えたものがその場にあらわれ、怪我をした人が怪我なんてしなかったことになる。まあ、そこまでのことはそうそう起こらないけれど、もしも感覚に優れている魔法使い相手であるなら、「どこかの誰かが、どこでいつ魔法を使った」のうち、「どこで」「いつ」が相手に知られるだけでも、魔法を強力にしていた条件がゆらいで……ゆらいだなら、魔法は消えてしまって、もたらした結果も起こらなかったことになる、ということは起こるわ。実際、さっきの場合では、相手はその可能性があったから強力な魔法の行使にふみきれなかった。もしくは、あの場にいたあなたを含んだ人たちをなんらかのはずみで巻きこんでしまった場合、その被害はきっと被害を見た人たちに伝わるわよね? そこをなんとか誤魔化しきれなければ、やっぱり、魔法が強力であった場合、結果が「なかったこと」になってしまう可能性が強い。つまり、私とあなたたち、この二つの要素をいっぺんに解決してうまくやる手段が思いつかなかったから、「気づかれずに一瞬で消す」といった方法は取れなかった」 「そ、それってひょっとして……チカが私の家にいた理由なの?」  愛が聞くと、チカは少し間を置いたが「そうよ」と、否定はしなかった。愛は絶句しつつも、チカが否定しないのには、思ったより肯定的に思った。 「……」 「これは、あなたにここでは話すことができないことよ」  チカは落ち着いた口調で、言った。 「でも、そうね。言わなかったのは悪かった」 「なにか理由があるんでしょう」 「ないんなら、さすがに怒るわよね?」 「怒るよ」 「まあ、あなたが怒っても、私がこうすると決めたんなら、あなたはどうにもできないでしょうけど」 「それはわかってるよ。それはそれとして、……よくは思わないよ。理由はないの? それとも、言えないの? 教えてくれるの?」 「ごめん。言えないの」 「……わかった」  と、愛はすーと、深呼吸した。深く息を吐ききると、よし、と言った。チカは、なんとも言わない顔で見ていたが、首はかしげてみせた。 「よしって」  小さく笑う。嫌味な感じではなく、なんとなく好感をもったか、それか少し呆れたかのどっちかには見えた。チカは「やめやめ」と、手を振った。愛は目をぱちくりとさせた。 「やめやめって」 「あなたが気に入らないなら、ここでお別れすることにするわ。あなたの目には、私の姿が触れないようにする。というか。普通、こういった、同じ時間軸くらいにある場所なら、たとえ違う世界線でも、自分と同じ人には本来そうするものだしね」 「世界線?」 「なにかのきっかけで、同じ時間の軸線上に、「なにかがきっかけで分岐した世界」が、存在することになったっていう姿をそう呼ぶの。お話、物語の用語としては、パラレルワールドとも言うのだけど。この場合、私とあなたは同じ時間という基準の軸線にいて、生まれたり住んだりしている世界が違う。その世界は、時間軸を横軸とするなら、それに対する縦軸として経過している。二つの線がまじわったところに個体と、現在の時間があるのよ。正確にはまったく違うんだけど、とりあえず、そう思い浮かべるのが、わかりやすいから、こう話すのだけれど……」 「わかったような……わからないような」  愛は言った。周囲をなんとはなしに見回すが、チカが適当に選んだのか、狙って降りたのかわからない、人気のない空き地だった。 「それより、人の目があるほうが、相手には都合が悪いんだよね?」 「そんな感じ」 「ここって大丈夫? 人のいないほうに向かってきて」 「伏せて!」  チカは言うときには、愛を伏せさせていた。愛は、なにができるでもないが、反射的に頭だけはかばう、学校で習った避難訓練のときのような、動きをしていた。おかげで、地面に頭を打つようなことはなかった。  見上げたかたちになったチカが、その視界のなかで、ざっと消え、チカがいたところに茶色い布のようなものが覆ったのが、見えた。 「!? ……あ!?」  そう言ったが、同時に地面を薙ぐ風圧が殴りつけ、愛の身体を木の葉のように返させた。音にあらわしがたい轟音がなりひびき、雷のように怒濤が裂いた。  嘘をついたのか、と、一瞬、想像のなかのチカに怒鳴りかけた。が、荒れ狂う茶色い布はごうるるる、と、唸り声を上げ、山のような巨体を持ち上げた。布のように見えたのは、狸や猪といったものを思わせる体毛で、目は愛の頭ほどもある。怪物だった。牙があり、人間なら耳まで裂けたと言えるような大きな口、体毛には、べったりと血がこびりついていた。赤いものとしか、愛は認識できなかったが。勢いよく跳ね飛ばされるように、怪物の身体かなにかにふきとばされたチカのもの……としか思えなかった。 (逃げなきゃ)  愛は息を荒くしながら、きっと怪物をにらんだ。だが、怖すぎて、足が震えて、それどころではない。血。怪物のてらてら、同じ赤で光った口。にらみつける目の黄色さ。チカがどうなってしまったとか、なんとか、愛には、もう考えられない。  が、違和感があった。怪物の動きが鈍すぎた。そういえば、と、愛は思った。狙われていたのは、チカで、自分はどうだったのか……といえば、この怪物にどうにかされるだろうか? と。  ゆっくりと動くと、巨大な怪物は、大きすぎる頭と、もしテレビででも見かけたならユーモラスな笑いを誘うような小さな胴体、たくましい六本の足で、その場にいるだけだった。  愛はすばやく目をめぐらせるように、あたりを見た。チカはどこへ飛ばされたのか、だいたいの位置を推測しようとこころみる。ケガをしているだけかもしれないではないか? そこで、ようやく思いいたる。  この怪物もチカの姿を見失ったのだ。 (あっちだよね)  愛はゆっくりと後じさった。怪物がぴくりと鼻を上げる。気づかれた……ではなく、気にされた。  そう思ったと同時、怪物の身体が、あたりの地面ごと一斉に燃え上がった。すさまじい炎だった。噴き出るときに、空気が、一気に熱されて、気流となって、愛の身体をかるく吹き飛ばした。  愛は、倒れこんだまま、炎に囲まれたのを恐怖に感じた。実際には、恐怖というのも通りこして、軽いパニックが沸いてきた。パニックは危険だった。だが、炎が熱くないのに気づいた。魔法か。頭のなかで、現象と聞いた話がつながって、事実が胸にすんなり落ちた。 「生やせ、生やせ。赤き雄花!! 裂ける皮膚をもった獅子の雄叫び!」  チカの声がりんとひびき、怪物がさらに激しく燃え上がった。そこへ、炎の矢としか言えないものが、次々突き刺さるように加わり、怪物をより一層、燃え上がらせ、炎は雲にも届くように高く上がった。  怪物の周囲が炎の海になった。その海を切り裂いて開き、鎌が飛んできた。怪物に負けじと大きくなった鎌が、回転しながら怪物の皮膚を斬りつけ、毛皮から血がしぶく。血まみれになった怪物に、鎌が深々と突き刺さった。  が、怪物は雄叫びを上げると、炎の中に立ち上がり、突き刺さった鎌をそのままにして立ち上がり、むしろ、肉から引き剥がそうとすらしていた。  効いていない! わけではないが、意に介するほどではないのだ。  怪物の頭上に、無数の長いものが浮かんだ。愛の知識では、おそらくそれは槍と言うものだった。ひどく巨大で、おそろしく見える真っ赤な槍が、切っ先を怪物に向けて降り出した。降りかかる槍に次々貫かれ、怪物はたまらず完全に前進をやめた。が、槍の幾本かが、途中で、怪物に刺さる前になにかになぎ倒された。発砲音だった。   がかっ、がかっ、がかっ。 「四つめ」  チカの声が聞こえた。聞こえた、と思ったときには、愛が向いたほうに現れている。一瞬前まで、たしかに誰もいなかった。チカは、何度か見せたように、一瞬でその場に消えたり現れたりができるようだった。  だが、愛の目に入ったチカは、マントが破れ、赤く薄汚れていた。一目でわかる。血の色だった。  チカは片腕を上げて立っているものの、もう片方の右腕はだらんと垂らしていた。そして、右腕の肩のところから、服の色がわからなくなるほど濃い赤が覆っていた。横顔にも、口から血を吐いているのが見える。 「チカ! 腕が!」 「まったく、もう。ここまで弱くなるとは思わなかった。情けのない姿を見せて、魔法使い、失格、ね」  チカは汗をかいている。がかっ、がかっ、がかっと、さっきから響いていた音が、だんだん近くなった。愛が思わず、そちらを見やると、巨大な馬が駆けてきていた。巨大、といっても、怪物に比べたらやせっぽちにすら見える。ただ、愛の知識のなかからいくと、その馬は巨大だった。  背中に、人を乗せていた。赤と青の肩掛けをした、黒いブーツの立派な人だった。騎兵とも言うが、ぴしっとした赤と白の服で、肩に金のモールがある。右手に長い細身の剣を、左手に煙を吹いている筒……古い年代物と言うような銃をもち、顔は、頭にかぶった金の兜でおおわれて見えず、兜の頂点から、黒い飾りの尾を揺らしている。  どうも、この騎兵が、槍を撃ち落としたらしい。  すっと、筒を持ち上げて、銃をぴたりと愛に向ける。 「ダ・ルゥバ=マナ!!」  チカが、裂帛の気合いでさけぶ。 「うわっ……」  愛のいたところが、愛のスペースほどを残して、急に隆起した。隆起は、騎兵の下からも起き、土が槍になって、騎兵と馬とを狙いのびた。それも、次々と隆起する地面にかきけされても見えなくなり、ようは、愛と騎兵とのあいだを土の巨大な壁がもりあがり、歪に、たちまち大きな木ほども大きくなった。 「わーっ!!」  愛は横からかっさらわれた。歪に大きくなった土の壁は、さらに高さと形を変えて大きくなり、やがて、大きな怪物の頭になった。そして、怪物の頭は、巨大な蛇みたいな胴体を土の壁から抜きだして、全身血だらけ、傷だらけになってなお動きつづける怪物に、襲いかかった。  愛がチカに抱えられて走る後方で、二体の怪物が取っ組み合いを始めだす。 「あ、あんなの……チカ!!」  愛は、言ってから後悔した。チカの走り続ける姿が、思ったよりも深刻だったからだった。同時に、なぜか違和感も感じた。  だからといって、引っかかっている場合でもない。愛は、ただ尋常でない速度で駆けていくチカの、血の気のない青白い横顔を見た。  そうして、走って、走って。  走って走って走って。  なにも追いかけてこなくなり、チカは、愛の身体を下ろした。愛は、下りてからぎょっとした。チカの怪我のことではない。  いつのまにか、まったく別の空間にいた。空間、と言ったのは部屋というには異様に広く、天井は見えない。薄暗く、ひやりとした空気は真夏の日影のように、湿っぽい水気が多分に感じられた。 「逃げこんだ……長くはもたないけど……そうだった。これでいいのよね……」  愛はチカに駆け寄って、身体をあちこちと見た。光はないが、なぜか明るく、手元が見える。それだけで大丈夫な気がしたが、ぽっと、チカが灯りになるものをと言って、光の玉を出した。 「じっとしててね……」 「どうするの?」 「どうするって、……ちなみに、怪我を直す魔法は?」 「ここにはないわよ」 「そうだよね……」 「痛みと出血を抑えるくらいならできるから、それで保たせるわ」 「わかった。とにかく血を拭いて……」 「シャツでやるの?」 「きれいな布のほうがいいけど……そんなには汚れて……あっ……でも、無いよりは……」 「大丈夫だから。……血は拭いてくれる?」  チカは言ってきた。喋っているあいだに、息が整ってきていた。チカが言ったとおり、愛は脱いだシャツを割いて、チカの腕の血を拭いた。傷口は避けて。愛が見たこともないほど、それはずたずたで、正直、見るのもだいぶこわごわとしたが。 「そういうの、経験あるの?」 「まあ……たまたま」 「そうか。どこまで話したっけね。そう、四つめね。魔法は唱えるのに言葉を必要とする。が、それは言葉である必要はない。魔法は理屈ではないから、決まった言葉も持っておらず、どの言葉であってもマナを取り出す蛇口となる」 「言葉って、さっきからチカが唱えている、あの呪文?」 「そうそう……あれはマナを集中させるための呼び水で、実は決まったものはないわ。それだけだと不便だから……火よ、とか、水よ、とか、気分を盛り上げるために唱えやすい言葉はあるけれど。この世界にも詩や作文といったものがあるみたいだけれど……私たちの世界では、文章や言葉の学問は、魔法に通じる学問でもある」  顔や首に飛び散った血も、ついでに拭いてしまう。愛は腕を下ろしたが、「ありがとう」とチカは言った。愛は頷いて返した。 「さっき、隠さないといけないって話のとき、ちょっとだけ、手品みたいと思ったの。でも、ぜんぜん違うね」  血が止まった傷口のあたりを見ながら、愛は言った。「手品って?」と、チカは聞いてきた。 「チカの世界には、手品ないの?」 「ええ。あなたはできるの? それ」 「できるけど……コインかなにかないと」 「はい」 「ああ……ありがと」  チカが差し出したコインを受けとって、愛は祖母から教わった簡単な手品をやってみせた。 「はい」 「おお……なるほど」 「そんなに?」 「いえ。たいしたものだと思ったの。手元の形で注意を引かせることで、あたかも後ろに隠したコインが、現れたように見えるのね。たしかに、魔法だわ」 「そんな大げさな」 「そうでもない。私の世界では、それくらい、そういうユニークな手遊びも技術も出てこないくらい、魔法でいろいろできてしまったの」 「そうなの」  愛は、チカにコインを返した。ふと言う。 「でも、チカはいろいろなところに行ってるんじゃないの? そういう、逃げていったというか、逃げて行っちゃった魔法を追ってるんでしょう? ……その、ここに来たみたいに」 「そうね。でも、人の記憶には限りがあるから、全部は覚えていられないの。だから、私は私にある記憶の容量はどのくらいと区切って、それ以外の情報は、外部にぜんぶまとめてしまったわ。私がいつも戻っている家に行かないと……」 「チカの家っていうと……大きなお屋敷?」 「そんなに大きくないけど、お屋敷ではあるわよ。もとはおばあちゃんの持ち物だから」 「チカのおばあちゃんも……魔法使い?」 「そうね。すごい魔法使いだった」 「そうなんだ」  愛は頷いて聞いた。おばあちゃんも、というところで、そういえば、「あなたに「も」お父さん、お祖母様がいるのね」とチカが言っていたのを、また思いだした。考えてもしょうがないと思っていたが……。 (でも、聞くことでもないのか)  チカは、玄関に飾っていた写真もちらりとは見ているはずである。写真を気にしなかったとしたら、そこに写っているのがなんであるか、「具体的には」思わなかったかもしれないが、もしかしたら、「ある程度は」予想していたのではないか……。 「あなたの友達のことね……」 「なにかわかったの? でも、今はその話をしている場合じゃないと思うけれど……」 「いいえ。聞いておいて。今の段階でわかったことを言えば、なにが起きたかの推測はついたわ。そのうえで、あなたの友達がどうなったかを言えば……」  チカは言った。愛は、不安そうにしながらも、こらえて聞いた。 「どうなったかはわからない。だから、無事だとか、安心して、とは言えないわ」 「……うん」 「どうなったかは、たぶん、世界の緊急措置なんだと思う」 「緊急措置?」 「そう。あなたの友達が、黒い穴に入っていなくなったとき、あの場には私が出てくる直前だった。端的に言えば、その入れ替わりになって、あなたの友達は、どこかに連れ去られてしまった」 「連れ去られて……」 「この世界っていうのには、それぞれに今抱えている物質の総量があってね。それらは自然なサイクルで徐々に現れたり消えたりして、ふだんは過ごしているの。総量は余裕があるけれど、今、現在の状態とはまた違うもの。今現在の状態には、また今現在のあるべき総量がある。これは、不自然にどうにかなるなんてことは、常を考えるならありえないことよ。生物と法則と、科学的な循環によって、推移したり、制御したりされていて、それがどうかなるなんてことは、ありえない。極端に言ってしまえば、隕石がある日落ちてきて、惑星の上の生命体が、たちまち死に絶えてしまったなんてことになっても、それはその世界の法則にのっとっているの」 「……」 「それが、別の世界から人間がやってきていきなり現れた、なんてことになったら、それがたとえ一人でも、総量にとっては違う。世界の総量、現在の総量における、明確ではっきりとした異常。その異常を察知して、世界は驚いて、アレルギー反応を起こしてしまった。一人、急に増えたことで、急いで、一人ぶんを減らして、……この場合は、どこか法則の外へと飛ばしてしまって、急な異常事態に対して、つい勢いあまって、びっくりして、つじつまを合わせてしまった。頭数を合わせてしまった。それが、あなたの友達が消えた理由」 「そんな……」  法則の外。それがなにかはわからないし、いや、別の世界があるのなら、きっとそれだろう、と思いつつ、急な話に理解がおよばないところもある。が、チカが言うなら、本当である可能性は高くなる、と言わなければならない。  彼女は魔法を使い、愛やその近所の人やを巻きこんだことに、いくらかは責任を感じ、愛を助けて逃げてくれた。  ぜんぶ信じない、というのは、もういまさら無理がある。  信じるよりしかたがないのが、愛の現実的な立場でもある。 (生きている……)  それでも、ハルタはきっと生きている。そう思わなければならない、そんな気もする。 「だから、これは私が責任を感じるべきことなのよ」 「そう……言ってたけど。でも、そういうことでもないような気もするけれど」 「いいえ。この世界に来てしまったこと……ああいう形で来てしまったことは、私の失敗だから。全部が全部、私の責任だとは言わないけれど、これは責任だけの話でもないから。私にとっては……という意味でね」 「あなたの友達を……」と言いかけて、やや言い直して、チカは言った。 「そう、あなたにとってのハルタを救うか、このことに必要な解決を見つけることは、私にとって「それがやらなければならないこと」なの。悪く言えば自己満足。良く言えば、人助けと自分に対する責任感よ」 「……。え?」  ばきばき、ばきん。めきっ。びきぃーっと。  みにくくなにかを引き裂く音がした。あるいは、硬くて中は空洞であるものを、無理やり壊して剥がすような破壊音。実際にやったら聞こえるのの、数倍は恐ろしくすさまじい音だった。愛は、一瞬で血の気を引かせた。  空間の、音の鳴っている方が、闇よりもうっすら明るくなっている。  それは、音があちこちから……本当に空間のあちこちから、盛大に漏れ響く蝉や虫の音のように。それか、見上げるほど大きな虫が、堅い鉄の壁を、力まかせにばりばり壊していく音。それらの音が鳴っていた。愛の目は釘付けになり、チカの身体にすがりつくように、または少しだけ庇って守ろうとして、腰が及んでしまって、できないようにわなないていた。チカは「ごめん。離して」と、愛の手をやんわりほどいた。 「でも! チカ!」 「あなたにはなにもできないわよ。私にもできることは、少ないし」  チカは、そっけなく言った。言い足して、あとを続ける。 「そうね。思いだした。最初の私は、ここであきらめてやぶれかぶれの反撃をした。もう少し考えるべきだったかもしれないけれど……後の祭りか。自分を、ふたつにわけるほど余裕はあったのに、なんだかんだ、呑まれていたのよ。情けないなぁ」 「チカ……?」 「――、――で、――カ」  チカは、耳を圧する轟音のなか、愛の名前を呼んで語りかけたようだった。「――、リゼル、エキ――、れよ、汝の名は、チカ」と、愛に向けて言った。呪文のようだった。  音が止んだ。ひときわ強烈な光とともに。光は、空間が破砕されて、その欠片がふりそそぎ、ぎらぎらした外の光と、巨大なボロボロの怪物、馬に乗った人、無数の長い棒をかかげた――槍、だろうか。黒い柄に、赤い穂先の――何十、あるいは、百もいそうな、黒い人影の群れが、まわりに現れた光だった。  包囲されていた。  それ以上は考えもおよばない。黒い人影の群れのあいだから、大きな骸骨が立ち上がる。鎖と鎧をまとって、腕には考えたくもない、生前の肉体の一部を骨をのぞかせて、つけている。黒い人影の群れが、大人の男の人よりやや大きいくらいで、少し差があるくらいで、おのおの並んでいるとするなら、鎧の骸骨は、その三倍はあった。立派で巨大な兜からのぞく、漆黒のがらんどう、手に持った、柄の長い、フックのようなまがまがしい武器。 「あなただけは、無事に帰したかったけど……愛(チカ)。いいえ。チカ。ごめんなさい、本当に。こんなことになって。私にできるのは……もう、こんなことぐらい……」  チカは、辛そうに言った。腕の出血が、じわじわとチカの肩に、染みの上からできた鮮やかな染みを広げていく。血が止まっていない。痛みも、おさえられていないようで、みるみる脂汗が浮かんでいく。  魔法を破られ、結果がなかったことになる。  チカの言っていたことが、愛の頭によぎった。ごあっ、と、骸骨の口から炎が噴き出した。空気がゆがんで見え、ちょっと火が噴いただけで、周囲に煙が上がるようだった。 「――」  かっと、あっというまに骸骨の口のあったあたりから、炎が広がりチカの身体を飲みこんだ。炎の威力は恐ろしく苛烈で、一気に周辺まで燃え上がった。その炎を、チカは片手で受け止めた。チカは焼けなかった。チカの身体から、眩い炎が放たれた。 「エスプリタ・ス=マナ……!」  チカは言った。眩い炎は膨れ上がった。愛の周囲にあった、なにかを断絶する壁が、勢いを増した。それだけ、その爆発にも、破裂にも、増殖にも似たなにかは、高速で空気と反応した。骸骨の炎を押し返して、骸骨の巨体を撃ち、無数の黒い人影を浪のようにさらい、怪物の歩み寄ってきていたのを包みこみ、熱さか、痛みか、その両方かで吠えさせた。銃をこちらに構えていた、馬の人影も巻きこんで勢いのあまり、馬をひるませる。  チカは見た。そして、目が焼き切れる感覚に耐えきれず、目をつむってしまっていた。チカがいたところから、愛の身体に、なにかがすっと溶け込んだように感じた。  愛のところには、怒涛も熱さも痛みも、出血で徐々に、急速に失われていく身体の感覚も吐き気も、マナが流れ出していく絶望感もなにも届かなかった。  そのとき。  愛の脳裏に、一瞬以上、流れ込む何かがあった。それは、記憶だった。  中学の、二年生のときだった。  チカはハルタとケンカになりかけたことがある。  ハルタとはそのとき、十年くらい一緒にいて、小さいケンカ、大きいケンカなら心当たりはあった。ただ、中学二年生のときにしたそれは、それまでとは少しちがっていて、おたがい、らしくもない意地を張ってしまった。  仲直りは、チカから言い出したことだったが、きっかけはハルタが、 「夏祭り。今年は行こう」  と、言ってきたことだった。気まずくなっていた最中だったから、チカもつい、「なんで?」と、口をついて出てしまうのをどうにか思い直した。チカとハルタのケンカというのは、小さいものでも大きいものでも、昔からへんにケンカにならない微妙な状態が長く続いて、それから、爆発してケンカして、すぐに仲直りするというようなものだった。  ただ、その時なりかけていたケンカというやつは、チカも(おそらくは、ハルタも)このままだと、取り返しのつかないところまで行ってしまうな、というおびえのような感触のあるものだったから、ハルタとは、腫れ物に触るような、腹の探りあいじみたやりとりがかわされる状態が続いていたところだった。  それを、発散したいと思ったのだろうハルタの提案は、チカには魅力的で、それでいて成功する見込みのない、あぶなっかしいものに思えた。  チカだって、ハルタとの関係を終わりにしたくないのだ。  遊びに行って、それでもなんとかならなかったら、あとは……と思ったし、ハルタのやり方は能天気で子供にも見えた。子供はそういう、やぶれかぶれをやってもよいが、自分とハルタとの関係が、友情というには、すこしズレすぎていて、大人が知ったら眉をしかめて二人をたしなめる、というたぐいのものだと、チカにだってもうわかっている。  それで、ケンカもしたのではないか。  チカは、それでも浴衣に着替え、六割ぶんほども沈んだ気分、三割か、四割ほどは浮かれた気分でハルタと出かけていった。  お祭りは、屋台や花火の匂いがして、もっと子供のころより真っ黒な肌の色や、青い目の人の焼きそばや、外国の食べ物や、きな臭くて怪しいおもちゃや、つぶされた家畜の肉を軒先に吊ったのや、色とりどりの果物が怖くて、反面、わくわくした。  ハルタと一緒に飲んだ、屋外にどんと置いた桶の甘い飲み物。  金魚すくいや、ヨーヨーすくい、外国のよく知らない人形とキャラもののニセのぬいぐるみなんかがならんでいる射的の屋台。  木のお面に羽根の飾り。湿気った匂いのする着物を着た、汗だくの人たち、時折、びっくりするタイミングで鳴る爆竹と笑い声、酔っ払った大人の大声。ラジオや、スピーカーから流れる音楽、注意喚起の声、警備員の振りあげる光る棒。 「あはっは」  いつのまにか、笑いあっていた。  もっとも、完全にわだかまりが解けたわけではないけれど。 「これ、あげる。取っておいて」  ハルタは言った。お祭りで買った、緑色の安っぽい石飾りが下がるペンダントだった。 「チカ」  ハルタは言った。「なに」と、チカは気が進まなげながら、言った。ハルタは、そのとき、いつもの明るい様子からは想像できない静かな瞳をしていて、少しおめかしした頬の輪郭と相まって、驚くほど綺麗だな、と、チカに思わせた。 「ごめん」 「ごめんって?」 「チカの気持ちも考えなかった。私、自分のことばっかりで、必死でさ。本当は進路だなんだって、そんなこと、言いたかったんじゃなくて……」 「いいよ」 「よくない。聞いて」  ハルタは言った。チカはぐっと、喉を出かける言葉をこらえた。ハルタは、チカの目を見て、「――やっぱり。私がチカに、我慢させてるね。本当、子供だな……」と、すまなそうに言った。言うあいだ、チカの目をずっと見て、その奥のチカを覗こうとするようだった。  チカは、きゅっと胸が苦しくなった。 「チカ。「あたし」と、一緒にいて。これからずっとなんて言わない」  ハルタは、両手でチカの手を取った。あたりは暗がりで、どこか遠くで犬が吠えていた。誰かが喧嘩しているのが、ざわめきにかき消されていた。 「チカに、本当にだいじな人ができて、あたしにも、本当に大事な人ができて……」  ハルタはチカに歩み寄って、額を合わせていた。手を握って、拒まないのは、そうしていい、と、おたがいに言わずに決めた合図だった。額をあわせて、おたがいに呼吸を聞いていると、落ち着いて、とても心地よくなる。  最初は、遊びでやっていたことだった。  特別な意味を持ったのは、少し子供でなくなった、そのころだった。おそらく、十年というあいだからしたら、ほんの二、三年ごろのことだっただろう。「そう」なったのは。 「そのときまで、ね」  ハルタは笑った。胸に痛い笑いだった。額も、一秒か、二秒かあわせただけで、離してしまっていた。 「おたがいのためを思って」  それが、二人でそのときから、決めたことだった。お祭りの夜からは、また時間をかけて相談したが……。  それでも二人が友達同士であることは、変わりない。ほかに変わりがないような、離れがたいような。ひとつになっていると、落ちつくような。 (でも、ハルタのことを思うなら……)  チカは、そう思えたのだ。  思い出されたとき。  チカには、時間が戻っていた。  どくどくと、血が流れる勢いで、心臓が早鐘を打つ。頭がどうにかなるようだった。両手で、頭を押さえている。痛いでもない。苦しいのでもない。  ほんの数秒前、そこにいた「チカ」が、激しさを、喪失感を、絶望感を、吐き気とめまいを、感じていたように感じているのでもない。 「そうか……そう……だったんだ!? ……!」  チカは弾かれたように、実際は、ゆっくりとあたりに目をくばった。光は膨らんで、のち、チカの……魔法使いのいた場所にまた収束していた。  あたりは、何一つ変わっていない。いなくなっているだけだった。  魔法使いの姿もない。チカ・ランドマー・タワーズは……消えてしまった。  消えてしまった。文字通り。体中が黒いカビのような姿になった。それから、砂が崩れ落ちるようにして、風に吹き飛んでしまった。  彼女は、死んだ。 「はぁっ、はぁっ」  チカは、魔法使いに何が起こったかを考えた。考えるはしから、答えは当然のように浮かび上がってくる。頭が、割れそうだ。 「うっく……うっ!?」  指で押さえようとして、チカは身構えた。  なにもなくなったはずのところから、土から生えてくるものがあった。土が盛り上がり、色を持って、まるでなにかが土から這い出してくるかのようになる。  馬だった。巨大な。そして、馬に乗った立派な騎兵。  魔法使いの放った光で灰になって、その灰ごと、塵になって消え去ったはずの、金の兜の騎兵だった。  まだまだ、無限に出せるということか。  騎兵のそばで、土が隆起する。  大きな隆起だった。  まるで、巨大な怪物が、土から這い出してくるような。  チカは、「ばっと」片手を挙げた。 「ダ「ー」バ・マナ!!」 「叫ぶ」。  チカが叫んだ声に反応して、宙に巨大な岩が突然出現した。岩は、宙に浮かんでいて、下部が見え、その下部に巨大な目があった。岩の大きさは、土から出てくる口の大きな怪物ほどもあった。  巨大な目が、いらっと、ゴミでも入ったようなまたたきをし、涙を流す人間の目そっくりに、黒い闇を流しだした。闇は火山の煙と土砂じみて、瞬時に広がった。  その中に、騎兵と怪物の目、あたりに出現しつつあった、槍を持ち、背中に蝙蝠の翼を生やした異形の黒い影の群れが、包みこまれる。闇からは、無数の口がせり出した。牙を持つ、野獣と猿が半々くらいのおぞましい口がいくつもいくつもあふれ出す。口は、おのおのに大小に膨らみ、騎兵や怪物、蝙蝠の翼の影に、食らいついた。 「おおおおっ!!」  銃を構えようとしていた騎兵が、苦痛のような雄叫びをあげる。口は肉を毟り、身を削り、骨を砕いて呑み、その場におぞましい地獄絵図をあらわした。 「はっ、……、生やせ、生やせ。赤「い」雄花! 裂ける皮膚をもったライオンの雄叫び!!」  チカが胸を押さえて、前かがみに丸くなりかけながら、叫ぶ。精一杯の気合いをこめて。  それは、魔法使いにならぶものではなかったが、力は正確に作用した。チカの中にある魔法使いの記憶にあるように。ただ、その魔法使いの名前が、今はもううまく思い出せなかった。一瞬、ほんの一時まえには、言えたはずなのだが。今はもう、口に出せない。 「ぐおおおおおっ!!」  怪物が、断末魔の咆哮を上げる。身体にはいつのまにか巨大な鎌が刺さり、刺さったところから、めらめらと中空に燃え広がりそうな轟炎が渦を巻いている。身体の大小の口が突き刺さったところからも、同じように、陽炎をまといそうな炎が噴き出していた。内部から焼かれ、ついに大きな口を開き、そこから身を焦がす炎を吐きだした。  口のるつぼに飲み込まれた黒い影や、騎兵も、同じように炎を噴き出しながら絶命していく。 「はあーっ! はぁーっ……!」  チカは膝をついた。身体が爆発しそうだった。口だけは、状況を分析して、口走っている。 「これだけじゃ、だめだ。あれはいくらでも出てくるんだ。そうして、ついに追いこまれて……私が駄目になる……!」  言いながら、どうにか立ち上がる。走り出すと、たらりと鼻の下に熱い感触が伝った。鼻血が、流れ出したらしい。小六の頃、運動会で、熱中症になって以来だ。熱くて熱くて、鼻血まで垂らすなんて。  行く手に巨大な骸骨が立ち上がった。チカが、地中から伸び上がっている骨の身体を避けると、足がたたらを踏むようによろけかけた。つまずきかける。が、走る。骸骨の手が、すぐ近くの土から伸びて形作られる。  これも同じように、土から生み出された。だが、今度は二体いた。二体めが、そして、行く手を塞いだ。チカはたっと足を止めて、ブレーキをかけながら言った。今のチカは、魔法で強くした足で、ふだんのチカの十倍は速く走れている。 「ダ・ラーバ=マナ!! 水よ!」  チカの右手側から飛んだ鎌が、回転して水のようになる。水の塊は、回転し、水流で刃物を作った。  巨大な骸骨の頭が、上と下とに半分に切られ、返す刀で、頭の上部分から左右半分に。  さらに、伸ばしかけた腕と胴体を、するどく切り裂いて、鎌は個体に戻って、チカの腕に戻った。チカはさらに走り抜けた。 「◯◯! ◯◯……、思い出さなくちゃ、その名前。◯◯に、あの魔法使いに会って!」  チカは駆けた。その横手から、唐突に溶岩の波が噴き出して、爆発的に押し寄せた。チカの身体は、瞬時にマグマにかぶさられ、飲み込まれた。  チカ・ランドマー・タワーズは、目を覚ました。目を覚ましてから、実際に、目を開くまでいくのには、間があった。  暗い部屋のような空間。あるいは、そのように見せかけられた場所だった。実際、明かりの一つもないが、窓がどこにあるかわからず、壁もどこにあるかわからない。  唯一、実際があるのは床だった。じゅうたんが敷かれ、黒っぽいのか、真紅なのか、わからない。 「目が覚めたかね。ま、わかっているのだがね」  目を開けるより前に、声が聞こえた。チカはあきらめて、目を開けた。  陶器のカップを置く、静かな音が聞こえた。だれかが室内におり、暗いために造形がはっきりとしなかった。  といって、チカにはそれが誰だか分かっているし、声も嫌と言うほどすでに聞いている。  ここに囚えられ、椅子に座らされ、疲れを感じることもなく拘束されている。  ここに来てどれくらいの時間が流れたか、それかもしくは、部屋の外や、まったく別の異界同士の「外」にどれくらいの時間が流れているか、正確には何も知らない。  ここではチカのあらゆる超常的なことに関する感覚が、蓋をされて封じられていた。奇妙な闇に縛られている。椅子の肘置きの部分は、微妙にチカのサイズにあっていないが、ともかく腕が置かれてぴくりとも動かないが、感覚の働かないのに、よく似ていた。  力を入れようとしてもままならない。そんな、絶望的で、もどかしい感じだ。手や足は、失くなったようですらあった。  チカがそのような経験をしていないわけではないが、今のチカには「手足を失う目に遭ったことがある」くらいの、どこか他人事だった。  実際に、他人事といえば、そうなのだが。  帽子の大きなつばの縁に、少しさえぎられた人影を見やる。 「……」 「おはよう。今日の気分はどうかな」 「昨日っていつ? それは、本当に経過したの?」 「しているとも。君がここに来てから、ここでは、数十日が経過している。外の世界は知らないが。外には外で、そこにいる彼らにぜんぶ任せている。なにせ、私は忙しいからな。君の相手がある」  椅子にゆったりと座り、足を組んだ若い女性、その顔には仮面をつけ、目元は見えず、口もとだけが見える。  赤い髪は短く、動きやすそうで、その格好も、白衣を着て、チカがこの世界に来たときの夏の様相とはかけはなれたタートルネックのセーターを着ている。染み一つない、ライトグレーのスーツのズボンを履き、清潔で汗をかかず、どこか人間ばなれしていた。  オーヴィータ・フレム、と、耳なじみがありそうでない声で、この人物は自己紹介をしていた。 「それくらい、力を傾けないといけないのだ。この場の諸々の維持というのは。私の全存在の半分以上をかけて、どうにかする。なのに、私の雇い主ときたら、性急で、なにかと君への殺意をあらわにするが、私たちの目的はそれとは違う。むしろ真逆でね」 「雇い主っていうのは?」 「君の知らない人物だ。君を憎んでいる……というのは、説明するまでもないか。つまらん人物さ」  フレムはそっけなく言った。テーブルの上のチェスの駒を、かつんと動かしている。駒は、指一本触れないのに、ひとりでに盤上を動く。  肘掛けに置いた手で、頬杖を突く。 「そのおかげで、君にこうして接触し、説得の機会を得ることができるのだから、感謝はしている」 「説得ね」 「説得だとも。交渉というのは、場に相手を連れてくる段での、有利不利は問わないんだろう? 君ら人間の基準でいくとね。あとは使う礼儀と言葉で、誠意をあらわすか、そうでないか……誠意がなく気にさわる場合は、気に入らない。するとこれは交渉ではないとなる」 「じゃあ、やっぱり交渉じゃないんじゃない?」 「チカ・ランドマー・タワーズ。わかってほしい。いや、わかるだろう? 君ならこの対応が、絵面に反して、誠意があるかなしかということを。私が魔法の分際で、気が多く、おしゃべりであることを。気に入らないで片づけるほど、つれなくはないだろうね。まさか」  チカは沈黙をついた。あるいは、ため息をつくかわりに、そうしたようにも見える。  フレムはおしゃべりに、口を開いた。 「沈黙は、前向きに肯定と受けとろう。もっとも、君はこのあと、数十日が数百年になろうと、あいかわらず、強情を張り続けるだけの気力と精神をもってしまった人間だから、そうしたいと思ったらそうしてしまうのもわかっている。なら、私たちも、「そう」するしかない」 「じゃあ、せめて話しかけないで」とは、チカは言わなかった。宙をどれだけ見やっても、闇しかない。闇、闇、闇。  まるで、魔法など使えない無力で、大人しい人間のような。 「あなたたちは、人間を操る手段を持っているようじゃない。試せばいい」 「チカ・ランドマー・タワーズ。見かけよりうっかりなのか、わざとなのか? わざとだとしたら、君に感心しよう」  おおげさに、フレムは言った。その口もとは、さっぱり面白そうではなく、声も弾んではいない。本来の年相応の、染みついた老婆の動作が消えない手で、億劫そうに言う。 「できるものならそうしてやりたい、だ。誰もがそうだな。短い生のなかで、それを目一杯繰り返していく」 「じゃあ、せめて話しかけないで」 「できるものならそうしてやりたい。だが、できない。理由としては、そう。たいした理由はないが、その理由が、私には回避できないものなのだ。だから、仕方ない。仕方ないとは、なんと嫌な言葉だな」  フレムは続けて言った。 「つまり、私たちが求めているのは……何回か言ったように、君が私たちを受け入れてくれることだ。心から。本来の人格と、十全たる意識を持って。その理由は偶然が重なったもので……やや陳腐で、とても簡素な言い方をするとなると、君でなきゃ駄目なんだ、となる」 「聞きたいとこがあるんだけど、質問してもいいの?」 「どうぞ」 「オーヴィータ・フレムって、どういう意味の名前?」 「それは、ユウスゲの国の言葉で、「不滅の百合」を表すものだな。現代語ではなく、古語だ。要するに、偉大なる魔法使いに説教だが、君ら魔法使いの区分で言うところの、人に存するマナのことは、木を巡る養分であり、分けて、世界に存する弱いマナは、多年草など……つまり、草花を巡る養分である。私は、人によって、世界に放たれ、人の手を離れて、飛び回って咲く野の花であり、かといってこのままひと季節程度で枯れはしない。その有り様を表したものであって、べつに「野の花」でも変わりない。指すところは同じだからな。そも、魔法に名前をつけるなど、その魔法を支配し使役できることを、世界に表明するものだから、好ましくはない」 「君も似たようなものだと思うが」と、フレムはつけ足した。 「なるほど……」  と、チカは本当に感心したように考える顔になった。目の前のフレムはそっちのけ、という風に。 「あきれた」  と、フレムは言った。身体の前で、両手の指を組んで、伸びる。肩をすくめたようでもある。 「私も質問がある。どうして、君が急に弱くなったのか」 「……というと」 「君が弱くなったのは、言うべくもない。それは、私たちがしかけた罠の結果だから。君は、罠をしかけられた魔法陣をうっかり起動して見せ、この世界にやってきた。しかし、この世界は私たちによってすでに出口を塞がれていた。君の力は、この世界にいた君の同位体にちょうど、等分で半分が持っていかれ、残りの半分がすべてになった」  が、と、フレムは言った。視線はどこかに向いている。 「それでも君には、らしくもないことをする必要がなかったと、私は踏んでいる」 「魔法も使えない素人の同位体を、あなたたちが手間がはぶけるとばかりに狙ったからじゃない? 卑怯にも」 「君のいままでの闘争がそんなものであったとは思わない。手詰まりになって、魔法もマナも封じられ、何十重(なんじゅうじゅう)にもなった、五百年分相当の手間を封じた封印のなかで、こうやってなすすべもなく「本体」が囚えられるのだとしても。なおそれを読みきっていたはずだ」 「あなたたちが巧妙で強力だっただけでしょう? おめでとう。たいしたものね」 「君は、君の分身が閉じ込められ、なすすべなく追いつめられ、私たちが放った彼らと戦い、敗れ、同位体ともども消滅させられ「た」のを、すべて計算ずくでも、しれっとしらばくれた顔でいる。そのくらいは、私にも分かる」 「悔しがれってこと? この状態で? 私に、強情を張る以外にやりようがあるって? あなたのろくでもなくて人間的な、おぞましい拷問に耐えながら、何百年も耐える以外に?」 「やりようがあるかもしれない。それは、私たちの見落としであるかもしれない」  手をひらっとさせて、フレムは言った。余裕そうにも思えるが、言葉には、同じほどのものが感じられない。 「何百年とは言うが、それを、たいしたことと君が思っているかは疑問だ。これまで、三千五百年ぶんあまり……」 「私はそんな年寄りじゃない」 「およそ三千五百年分に相当する年月を、君は私たちの追撃と捕獲に費やしてきた。不老不死であるのをたのみに」  フレムは、ちょっと言い直した。 「そのうち、七百年あまりを、二つめの魔法との追跡劇で封印され、空気も水もなく過ごした君に、はたしてこのような方法が有効であるかも疑問である……そのことも、私はやはり気が気ではない。分かるかね? 私はひどく恐れているのだよ」 「ひとつ訂正してほしいんだけれど、私は不老不死ではないわ。そんなもの、この世に存在しない。少なくとも、私たちがやってきた世界にしてみれば、そんなものは、存在しなかった。そして、実現もできない」  チカは言った。続ける。 「私はただちょっと、そう見える状態にあるタダの人間にすぎない」 「唯一、そして最後の」 「そう。唯一、そして、最後の。あなたたち七つの魔法が、生まれて、放たれたときに、あの世界にいた人間は、ひとり残らず消失してしまった。私を残して。正確には私も消えたけれど、あの世界にその「分身」の私は、すぐに一瞬で、もう一度あらわれた。それで残ったかのように見せかけられた。それ以外は、どんな魔法も科学も役に立たなかった……世界からは、人間がひとり残らず消えた。残された世界そのものにも、また影響があった。空気中に隙間なく満ちた、おそろしく高濃度のマナによって、海は干上がり、酸素は枯渇し、生命活動は断たれた。「まるで、魔法だった」」  チカは、言葉を切って、もう一度話し始めた。 「あの世界はもう駄目よ。仮にマナによる「汚染」をどうにかする方法があったとして……まあ、もう方法は見つけたのだけれど。あとは実行するだけ」 「ほう、そうだったのか? おめでとう」 「ありがとう。でも、残念なことに、この汚染をとりのぞくこと自体が、およそ十一万四千年かかると計算に出ている。私は、そこまでは留まれない」 「それは残念だ」 「汚染をとりのぞけば、いつか生命は芽吹くかもね。いえ、人間が住めるようになれば、あるいは持ち直す方法はあるかもしれない」 「できないんだけど」と、チカはつけ加えた。   フレムは考えながら、自分も頷いた。 「たしかにできないな」 「そうでしょう」 「その話を踏まえても、やはり、君がそう簡単にあきらめるとは思えない。何を考えている? だって、そうだろう。誰が助けにくるわけでもない。君は、一人でやらなければならない。何もできることはなく、帰るところはなく、私たちを捕獲することに固執する理由もはた目にはない。だからこそ、恐ろしいということもあるが……「この」遺骸が告げている。人間は、甘く見てはいけないものだと」  フレムは言った。首をかしげて、指摘してくる。 「いま何かすることをあきらめているとしたら、平気な顔でいることができる、一縷の希望が、あるとしたら……あるいは、ここに来る前にすでに何かしているということかな」 「何かねえ」 「君の同位体は捕らえている。あれは、私たちの仕掛けの軸だからな」 「まあいいさ。どれ。続きをはじめよう。今日は肉体的な苦痛から行く」と、フレムは言った。ゆったりと椅子から立ち上がると、チェス盤を置いてあるテーブルから離れ、空間の少し先に行った。  ばっと、空間に明かりが差し、筆舌に尽くしがたい、拷問器具の数々が、姿を現した。明かりは、すっと引いていくが、器具はそのまま残った。椅子に座った姿勢で囚われていたチカの身体が、もののように持ち上げられ、なにも無いのに、中空に浮いて、四肢を広げられた。なにかのスイッチが入る。電気で動く鋸の回転が、音高く響きだした。 「最初に使うのは、第四異世界で、獣顔小人族を処刑するのに、鳥眼に紅毛の技師が作ったもので……」  瞬間。  グロテスクな器具の数々が、こっぱみじんに砕け散った。  だけではなかった。亀裂が空間に生じていた。一撃、二撃、三撃めで、どうにか、封印を破った巨大な剣が、そこに立つ魔法使いの手に握られていた。剣は、まがまがしく、緑の明るい宝石で刀身ができており、両刃のような形と薄さで、とてもものが斬れる形をしていなかった。  魔法使いは、すすだらけ、土だらけ、焼け焦げだらけで、見るもぼろぼろだった。チカが身につけているのとそっくりの大きなとんがり帽子、肩から下がったマントを身につけ、その衣服だけが傷ひとつなくぴかぴかだった。おろしたての新品のように。  かっと光が挿し、闇を打ち払っていた。明るい夏の日差しが落ちてきていた。向こうに見える入道雲が、恐ろしく高かった。恐怖さえ覚える、高々とした威容。 「チカ!!」  魔法使いは言った。臣愛(オミ・チカ)は言った。十年はなればなれになった恋人に会うときのように。百年探した憎い仇と、再会したときのように。 「緑の壁よ、ルー・リラ!! 蜘蛛の糸に!!」  愛は、そのまま叫んだ。  瞬間、愛に襲いかかっていたギロチンの刃が、中空に浮かんだ糸に受け止められた。ギロチンの刃は、一つではない。無数に、あらゆる角度からあらゆる速度で襲いかかっていた。が、愛の周囲に一瞬で張り巡らされた糸が、すべて絡めて、あるいは絡め取って、そのまま無尽に糸を広げて、あたりを一気に繭の中にいる蛾の幼虫の景色に変えて、覆ってしまった。それはゆうに小さな球場ほどもあった。  フレムは、大人の男の太腿ほどもある糸に囲まれ、しかし、そのすべてが貫通していた。糸は、張り巡らされるときに、一瞬で、硬度を増し、絡め取ったギロチンの硬い材質を潰し、糸が細いところは鋼を断ち切っていた。フレムの身体は、だが、ずたずたに穴だらけになったわけではなく、硬度を増した糸はただ突き抜けている。フレムの肉体が、そこだけ失くなったようだった。 「壁よ」と、平然と言い放つ。  めきめきと、家畜が絶叫するような音が鳴りだした。それとともに、四角や五角形の、何かしらの合金でできた、鉄杭が伸び、その表面は真っ赤に焼けていて、一部は火すら放っている。いくつもいくつも、横一列、または、縦一列に、地面、中空、所構わずまとまって伸びながら、愛の細い身体を押し潰して挽肉のようにしてしまおうと、硬い糸をばきばきばきばきと食うように押し潰して、組み合わさっていく。速度は速かった。たちまち、周囲見渡すかぎりに広がった糸をまたたくまに、逆に食らって、突き立てられる牙を思わせる。 「風よ、颶風(ぐふう)よ、逆巻け、諠語(さざめ)け、轟け!! ルー・エスプリタ・ス、エスプリタ・ス!!」  愛が叫ぶやいなや、言葉をつむぐ端から風が逆巻いた。赤い血のような霧を、無数の竜巻に変えて、一気に豪風が吹き抜ける。その風は、鉄杭の、鉄柱のようになった、壁状のところへ吹きつけて、吹きつける端からばらばらと砂状にして、鉄杭をまたたくまに駆逐しはじめた。フレムが、驚愕して、すばやく囁くが、赤い風は、強烈な酸かなにかであるようで、フレムの身体も、風に触れた端からありえない速度で溶けて、煙か砂になっていく。風は一瞬で物質の水分も奪っているようで、まるで物理的な法則などを頭から無視している。  フレムが氷を呼び出すと、氷は溶けずに一枚の刃となって風に立ち向かった。風は切り裂かれて、赤い色が酷烈な勢いで吹き抜けていくのに、フレムのところだけを避けた。  氷は溶けていく。  フレムはまたたくまに身体を再生し、その間、一瞬だけ、愛から目が離れた。  その一瞬をついて、愛は、チカのところへ駆け寄っていた。  愛の手が、チカに触れた。その瞬間、愛が出していた魔法は、すべて解けた。 「まったく」  フレムは呟いた。老婆のような声だった。  その声に……。  愛が反応していた。愛は、フレムを見ていた。「え」と。信じられないものを見る目で、赤い髪に白衣の女性を見やった。 「……。……おばあ……」  言う。同時に。  チカ・ランドマー・タワーズは立ち上がっていた。愛の手に触れられると、たちまち椅子がばらばらになり、チカの身体は少し浮き上がった。   身体を拘束していた闇はなくなり、チカの手がぐっと握り込まれた。その横に、接骨木の鎌の名の、杖が、ゆったりと立ち上がっている。  フレムは、チカの目が自分を見やるのを見ていた。そして、お手上げだというように、両手を上げて軽く振った。 「なるほど。いや、なるほどじゃあないがね」 「じゃあなるほどって言わなけりゃあいいのに」 「いやいや。負け惜しみだとも。何をしたのかわからないが……いや、推測はできるが、そんなことが可能なのか? まあ、可能かどうかは、結果が、それを示しているんだがな」 「どうせ、二度と通用しないだろうから、何が起きたかくらい答えてもいいわよ」 「まあ、推測くらい言わせてくれよ。面目が立たないからさ」  フレムは後ろ歩きに下がりながら、チカから距離をとった。どれだけ意味があるかはわからないが、意味があるていどの手段は、残しているのだろう。 「逆行したのかね? 自分を二つに別(わ)けて、一日前の過去に送った……その一日のあいだは、どこかに現れた君を探すのに、私たちは注力していた。そのあいだに対策を講じた。もう一度、やり直すなかで」 「不正解よ。半分だけ。回数が違うかな」 「というと」 「七回はやり直したかな」 「そうかね」  フレムは、面白くもなさそうに言った。それでいて、どこか楽しげでもあった。 「君の力が急に減じたのも、文字どおり自分を切って別けて、を繰り返していたからというわけか。やむを得ないことだった。閉じこめられて、この世界から出られない以上、自分を切ってなにかやるしか方法はない……。「繰り返すたびにどんどん減っていった」。だから弱かった。結果的に、弱くなっていった。そのため、本当に自爆でもするしか、あの場を稼ぐ方法がなかった、か」 「一周目のあなたたちは完璧だったけれど?」 「そう言うなよ。君の小細工が、見抜けなかった時点で私たちの競り負けなんだから」  フレムは言って、続けた。あたりは、蝉の声が戻ってきている。魔法の時間は終わりつつある。何も残さない、影響を与えない。高度で強力な魔法の条件。 「本当よ。逃げ回りながら、その場で来た時点に逆行するしかないって、とりあえず、分身をこさえただけだしね」 「そして、そこの彼女に力を分け与えて、彼女自身に魔法を使わせ、この状況を脱するしかないと考えたわけか」 「そうよ」 「ひとでなしだな。それで、そこの彼女は、「何回やり直した」のだね」 「何回やり直したの、愛(チカ)?」 「三回」  愛は答えた。さすがに、不服そうだった。チカは「ありがとう」と言って、フレムに目を向けた。 「力だけじゃなく、持ってるすべてに等しい記憶も知識も分け与えて、こっちには、最低限しか残していなかった。で、直接返してもらった。今ね」 「同位体同士だからかろうじてそれができた……改変については、少しずつ、無理のない範囲でやらなければならなかった。そのため、無意味な繰り返しの中に少しずつ、練り込むようにやっていた。おしまい。それでは」  フレムは、言うだけ言うと、唐突に、ふっと消え去った。またたきしたら、姿が消えているほどの無音さだった。が、魔法とはこのようなものだ。 「……」  チカは、しばし確認して、やっと愛に向きなおったのは、けっこう経ってからだった。言う。 「もう行った。大丈夫よ」 「うん」  愛は言った。そして、ノーモーションでチカの頬をあざやかに張った。  チカは、横を向いてじんじんと腫れてくるほほを、放ったらかしにした。愛は、はあ、と、息をついた。チカは言った。 「ごめんなさい」 「怒るよって言ったでしょ。でも、これで終わり」 「いいの? そんなんで」 「チカは私を助けてくれたし、どうにもならなかったんでしょ。ぜんぶ、それはわかったし。脳に、直接送り込まれたし。嫌でもわかるよ」 「そりゃそっか」  チカが言う。愛は「でも」と続けた。 「私の身体を勝手に操って、どうこうしようとはしないで。それだけ」 「何か理由が……?」 「何かって……まあ、その。私の身体をどうこうしていいのは……っていうか」 「よくわからないな。まあいいや。なるべく、やらないと誓う」 「私がこの後も協力するって話なの……?」 「これは、脅しなんだけれど……というよりか、ね。あなたも、状況はわかったでしょう」 「わからないことがある」  愛は言った。 「あの人はなんなの。オービータ……フレム?」 「魔法に操られたかなにかした人間で、少し前から、私にちょっかいや妨害をかけてくるようになった。たぶん、柘榴の魔法と、無花果の魔法によってかけられる、妨害の一環で……七つの魔法の中でも、私が、こう呼んでいる二つは、魔法自体の在り方に関わって、私に対して、魔法の主になることを要求している。簡単に言えば、魔法は、私のいた世界から外に行っては、永遠には存在を維持できない。だから、永遠に在り続けるために、私に魔法の主になるように、強要している。魔法は、確固たる意志を持った人間と、そのマナがあって、ようやく魔法である最低条件を満たす。消滅しないために、どうしても「善意の協力者」が、必要なの。私はそれを、拒んでいる」 「魔法を、最後にはすべて封印、無害化するのが、チカの目的だから……そのままのチカには、従うわけにはいかない。従った意味がないから」 「あなたの聞きたいことはわかる。なぜ、あの姿をしているか。「私の」祖母である、ナツフサ・ランドマー・タワーズの、若かった頃の姿をしているか。なんで声は老人のままの声なのか。これは、私にも、わからなかったこと」 「うん」 「……」  チカは、目をつむった。すう、と、ひとつ息をするほどの間。目を開ける。言う。 「わからない。わかることは、あの人からは、二つの魔法が、感じられる」 「二つの魔法……」  ふと、愛が目をしばたいた。目にゴミが入ったような動作だった。 「私が山葡萄の魔法って呼んだ魔法……この世界に分裂した一部が、流れこんだ魔法。それと、無花果の魔法。前者は、「どこにでもあらゆるところにある魔法」。後者は、「一つのものがあったら二つに割らなければならない魔法」。この二つが、あの人からは感じられる」  チカは考えながら、続けた。 「もう一つ、私を妨害している一つの柘榴の魔法。「形あるものを粉々に砕く魔法」の存在は、感じられないけれど、果たして関わっていないのか。いや、関わっているのは確かね。もう一つ、確かなのは、私の祖母は、もう消えてしまって、いなくなった人であること。あの世界に人間が残っていないことを……私は、三百年近くかけて、世界をすみずみまで巡って、人間を探した。だから、間違いない。飛ばされたとか、そういうのじゃない。確かに、魔法の効果によって、みんな一瞬で、痕跡も残さずに、塵一つ残さずに消えただけ。肉体さえ、再生できない……」  愛が、ふらっとわずかに傾いた。「あ……?」と、呟く。 「あの肉体、魔法でどうにかなったと思ったら、瞬時に再生していたな……一度、敷かれた道筋をたどり直すことは、私でなくとも、どうにかできる……というよりか、それほど、高度で強力とは言えない……だとしても、あの姿でいることは……。すると、やはり……嫌がらせ? 私に対して、憎しみを向けている誰ががいる……心当たりはいくらでもあるけれど。色々な世界で、一から生まれ直したり……色々な経験をして、たくさんの恨みも買って……三千年近くやってきたのだから……私を、殺したいほど憎んでいる……でも、その中で、私に未だに嫌がらせなんて形で、関わることができる……と、な……て――」  愛は、目を閉じた。瞼が重たくて仕方ない。そんな感じで。  愛はふらっと、頭をふらつかせ、その場に倒れてしまった。 「愛(チカ)? チカっ!」  チカが言った。  愛の意識は、そのまま、暗い暗い、闇のなかへ、そして、そのまた先へと、いざなわれていく。  闇の先。  絨毯の床がある。 「やり直しか……」  声が言った。続けて、言う。 「なるほど、それほど高度ではない方法だ。だからといって、あの女、チカ・ランドマー・タワーズ以外にできるかといえば、そうではない。特別な人間……マナ過剰の体質……ランドマー・タワーズが、代々受け継いできた、高度で強力な魔法。胡桃の魔宝珠(まほうじゅ)なんて、ナツフサ・ランドマー・タワーズは言っていたらしい……そうか」  愛はうっすらと、震える瞼を開いた。身体に徐々に力が入る。強大で、強力で、膨大で、濃密で、血よりも濃い何かが、無理なやり方で、引き抜かれていったような、うすら寒さがする。  そのために、気を失ってしまったようだった。  それでいて、愛には、現実感がなかった。夢の中で、夢の中で死んでしまったらどうなる、溺れたら、酸素がなくなったら、ひどい火傷を負ったらどうなるか。  そう考えるのに似ていた。だが、ここは、自分が知らないだけで、別のもうひとつの現実なのではないか。いつも愛が触れている現実とは違う……。  誰かがいた。そこに。 「一度辿った過程を辿るのなら、それはそれほど高度ではない、強力ではない。たとえ魔法が知られても、結果が覆ることはない。一度辿った過程……たった一日、その一日のやり直し。おそらくは、チカという女は、何度もこれをやる必要に迫られて、実際に、やってきたに違いない。三千五百年に相当する道程か。これからも、さらにさらに、長い時が、彼女の道筋には必要になり……どうしても、なにに代えてもやりきらねばならない。たとえ、世界に影響を与えない入り方として、自分自身を胎児にまで変えて、もう一度、産まれ直す方法を取るのだとしても……実際に、取ってきたとしても……誰を犠牲にしても……」  愛は、立ち上がった。暗く、広い部屋だった。絨毯以外には、置くものも置かれていない。大きな椅子があり、そこに誰か座っている。ローブを被り、顔を隠し、隠した顔の端から、黒く禍々しい仮面のはしをのぞかせている。  どこかで見たことのあるものだった。思ってから、愛は、それがあのチカの祖母の……オーヴィータ・フレムがしているものに似ていて、少し違うものだと思い至った。緊張が差した。  今の愛は、力をぜんぶチカに返還してしまっている。知識、記憶、受け取ったすべてと、自分が気づきもしないうちに、受け取ったチカの半分まで。  チカの知識にあった予想だと、これは、一時的なペテンのような方法であって、ほんの短い間、愛から力が失われるが、また、元に戻ってしまうたぐいのものだそうだ。愛に半分、チカに残り半分。きっちり二等分された力は、たとえば、チカを狙う相手に利用されることは、愛も体験したことだからわかる。  チカは、フレムらの画策した仕掛けによって、愛の生きてきた世界を中心にしてしか、今は動き回れない。  この先、チカの目的を果たすために、どうしても、愛が関わることは、避けられない。  必ず私が守ってみせる。  チカの意思が、脳内に入り込んできたとき、その意思が言っていた。  それならば、愛だって、なにもせずにいるということはしない。 「起きたか」とは、椅子の人物が言ったことだ。 (チカの知識がない状態じゃ……私に、魔法は使えない)  愛は、判断した。息を呑んだように、沈黙を返す。 「そう構えなくても……なにもしやしないさ……」 「あなたは誰ですか」 「チカ・ランドマー・タワーズという人間に、恨みのある者」  椅子の人物は、立ち上がって、窓辺に行った。窓の外には何もなかった。冬の夜のように、硝子が曇って、外の景色がにじんでいた。  あるいは、外にはこれといった景色がない。    吹雪でも吹いているのか? 「そして、君にはなんの恨みもない者だ。なんの恨みもね。よく知ってはいる」 「チカのお祖母さんを、操っているのはあなた?」 「違うよ」  口もとが言った。さりげない動作で、ローブで覆われた人影は、顔つきを愛に向けていた。  声に嘲りはなかった。億劫さもなかった。かといって、感情が無いわけではない。 「違う。とは言ったが……まあ。操っているのが違うというだけで、君の想像した通りではある。だから、最初にチカ・ランドマー・タワーズに恨みのある人間だと言った。それでいて、君にも接触してくるのだから、さっきの事態を引き起こしていたのが、私だということは、予想してもらえるのじゃないかな……とは、思っていた」 「チカに、恨み……」 「べつにおかしいことじゃないさ。あの女は、たしかに意思こそ並大抵のものじゃない。すべての自分の世界からあふれた魔法を捕獲、回収して、しかるべく封じて、二度とあふれさせないようにしようとしている、そのことに、自分自身を生かし続けている魔法も含めている。膨大な時間の流れの果てに、自分が消えることも、織り込んですべてやっている。たいしたものだ」  肩をすくめて、続ける。 「だが強い意思と同時に、それは、反面、執念でもある。執念は、常に他者を犠牲にする。執念は、ときに道を踏み外す原動力となる。自分なりのルールで、世界を闊歩して生きるやつに、ろくでもない思考は宿る。いつもぎりぎりで、他人のラインを冒し、引っかきながら、なにかやっている。月並みな言い方だと、蟻を踏みつぶしてしまって気づかない巨人のようなもんだな……もっとも、その巨人たる者になったために、あの七つの魔法たちから、目をつけられた。本人はさぞ、不本意だろう」  ローブの人物は、言って横を向いた。その頬の線を見ながら、声は不可思議にこもっているが、この人物は子供か女性で、背も、愛とあまり変わらないなと、愛は思った。  ローブの人物は言う。仮面の端は、宝石のように黒い。 「恐怖の七月。一九九九年、七月二十五日、午前四時二十五分十三秒――。だった」 「……」 「君の世界における、それが起こったのは、魔法がこの世界に来たためだ」  愛は、目を見張った。ローブの人物は、さらに言った。 「「形あるものを粉々に砕く魔法」。チカ・ランドマー・タワーズなんかは、柘榴の魔法と、それを呼んで言っていたな。べつにすべてがその魔法一つで起こしたことじゃないが……それが、時空の差を越えて、やってきたことによって、この世界に残っていた魔法の遺物、日本という国の千葉と東京という土地にまたがる、古代の「ある巨大遺構」と接触して、大規模な魔法の行使を、やっちまったらしいな。交通事故みたいなもんだ。被害は、日本の爆心地を中心にして、日本国内、世界各国で、同時多発。世界が滅亡するまでは行かなかったものの、その破壊は広範で……死者だけで、約一億二千五百万人超。現在も約四十万人が行方不明。未曾有の災害、というやつだろう」 「それはチカとは、なんの関係もないでしょう」 「ないな。君は、その災害で母親を亡くし、以後、疎開して暮らし、現在十六歳」 「そういうことになっているな」と、ローブの人物は言った。引っかかる言い方だった。 「出口は……どこにあるの?」 「まあ、聞いていけよ。あいかわらず、せっかちだなぁ」  ローブの人物は言った。 「君をここに呼んだからには、話があったからに決まっている。用事が終わるまで、出さないだろうというのも自然な帰結でね。だから、先に、何もしやしない、とは言っておいた。まだ不安要素があるというんなら、潰しておこう。君は肉体がここにあるわけじゃなく、私は君の頭の中に話しかけている。どうか、信用してはくれないかな」  言う。と、返す刀で、話を続けてくる。 「君の記憶の話をしよう。五歳のときだった。君の友達だった滝川(たきせん)春多(ハルタ)と君は、親から言ってはいけないと言われていた川の少し上流へ行った。探検のつもりだったが、途中、とがった木の枝で、ハルタがずいぶん深い傷を負ってしまった。君は、無我夢中で血を止めたが、幼いハルタは痛みと出血で気を失ってしまい、その日はとみに暑い日だ。放置するのも危険だった。結果君は、念入りにハルタの傷口を縛り、ハルタを背負って、二キロに及ぶあいだを連れて帰った。ハルタの左足の膝には、いまもそのときの傷がある。ときどき古傷となって痛むので、君は今もそれが心配だ」 「……」 「八歳のときだった。ハルタが、君と自分をモデルにした絵本を描いて、それをプレゼントしてくれた。それを十歳のころ、ケンカした拍子にあやまって派手に汚してしまった。仲直りには、一ヶ月かかった」 「……」 「十四歳のころ。君はハルタに告白された。自分から、本当は告白しようと思っていた。しかし、自分たちの関係が、許されようもないということはわかっていたので、周囲にはこのことは内緒にしようと誓った。誓いは二人が大人の年になるまで。ハルタとのファーストキスも、このときだった」 「……なっ」  愛は不用意に赤くなった。恥ずかしさではない。それもあったが、多くは怒りからだった。このことは、誰にも言っていなかった。本当に、二人だけの秘密にしていた。  それが、目の前にされて、無遠慮に人格をまさぐられた気分だった。痛みにもひとしい。 (私を怒らせようとしている……?)  いや。  精神的な優位を、取ろうとしている。 (動揺しちゃ駄目だ……) 「君が警戒する理由もわかるが、今しようとしているのは、まったく別のことだ。結論から言うと、それらの記憶は、君のものではない」  ローブの人物は、ゆっくりと言った。愛は、何を言われたのかよくわからない。が、そこへローブの人物は、言った。 「君は造られたのだ。本物の臣愛(オミ・チカ)を参考として。そうだな。適当な呼び名は考えてなかったが、魔法人間とでも呼称するか。君は、魔法によって基礎を作られ、魔法によって稼働している。君たちの世界の科学で言うところの、アンドロイドの一種とでも思えばいい。君は、アンドロイドだ。オミ・チカ」  チカは固まった。急速に頭が冷えていき、氷か、猛烈な吹雪に当てられたようになった。  心臓が、早鐘を打ちはじめる。 「君を作ったのは、主には私だ。共同者……というかはわからないが、チカ・ランドマー・タワーズをこの世界に誘導した、二つの魔法……そうそう、無花果の魔法と、柘榴の魔法だったか。君の友人のチカが言ったそれらの魔法。チカを妨害するものたちが、力を貸してもいる。君を作った動機は、本物の臣愛と、君とを入れ替え、本物の臣愛は、我々の手元に眠らせて置いておき、なんとか罠に嵌ったチカがやってきて、君と出会うため」 「証拠を見せよう」と、ローブの人物は言った。その瞬間だった。  愛の右腕が、はずれてごとん、と床に落ちた。 驚いて右腕の、二の腕だけになったのに「ひっ」と、触れる。その左腕も、触れる前にもろりと折れて、はずれて、ごとんと。  床に落ちて、転がった。 「ちなみに……幻を見せていると思うだろうが、それは半分正解で、こう言っても説得力はないだろうが、できるだけ、より視覚的に信用をもたせるよう現実を忠実に再現している。今の君は、魔法で言うところの精神体ってやつだし、その身体は現実の君を、より密接に投影して、映し出されている」 「こ……、……! なっ……、あ、ひ?」  愛の両腕が、元に戻る。鼓動も収まっていった。いや、不自然だった。不自然に、早鐘を打って、恐怖に伸縮するようだった心臓が、急に、鼓動を落ち着かせたのだった。 「君の構造は、手足はマネキン状で……巧妙に人間、ひいては臣愛のものを実現しているが、こうして、制作者の意思ひとつで外すことができる。整備をしやすいためだったが、今は稼働がなじんで、向こう五十年は君を人間と疑う者はいないだろう。血が出るし、脈がある。心臓は魔法心臓で、やはりこちらでコントロールできる。不慮の事故が起きたら、死ぬこともできるし、死体として処理される。君は、このチカ・ランドマー・タワーズを罠に嵌める計画の要として、念入りに、幾多の歳月をかけて調整され、臣愛が、十五歳になる年に、すり替えられた」 「……」 「そうだ。気分が落ち着いてきただろう? こちらでコントロールしたからな。そのまま聞くといい。実動への試用期間が、あまりに短いことが、私たち計画者の懸念点だが……君は、間違いなく私たちの、最高傑作だ。チカとの出逢いも完璧だった。これから、君は彼女と友誼を結び、数々の冒険を経て、絆を結び、強め、強く強く惹かれ合うことになる。私たちが、そう計画し、そう造り、君もまた、そう振る舞うからだ。完璧に。実際、ここまでは順調で、反面、順調でない点もある。だが、私たちの未来予測に、欠点はない。それもまた、よく練られた生み出された魔法……いわばアンゴルモアの王だからだ。この未来予測は、細かい調整を繰り返しながら、予言として成就される。魔法のように」 「く……く」 「君とチカ・ランドマー・タワーズは、魔法のように出逢い、魔法のように惹かれ合う。そう。予言しよう。そうして、燃え上がる二輪の百合のように純潔を誓う。親友のようであり、恋人のようであり、しかし、決して恋人ではない。君の心にはハルタとの約束があるからだ。それもまた、私たちが計画するところだが」  ローブの人物は、感情が高ぶったように、小さく笑った。無音の微笑。まるで魔法のような。愛の胸は、切り裂かれたように痛み、涙がみるみる目の端に溜まる。衝動のままに、理由もわからないまま、ほほを流れ、そのままに、愛は激しくローブの人物を睨んだ。 「全部……でたらめよ。そんなことをして、何がしたいの」 「絶望だ」  うっとりとしたように、ローブの人物は言った。さっきから、告げられている内容に反して、愛の胸は締めつけられるようになった。その感覚に、妙に思いつつ、ぐっと、愛は涙を払って聞いていた。 「ぜつぼう……?」 「絶望させるためだ。心を折るためだ。この世界に逃げこんだ、彼女が追ってきた、彼女が呼んだ山葡萄の魔法。その六六六に分裂させたうちの、その二百五十七は、彼女がすでに捕獲し、残りのうちの三十五が、この世界に逃げこんで、さらに散逸した。異次元、異界、魔界、地獄、天界、妖精の国、または違う時間軸まで! 彼女は追い、君とともに冒険を繰り広げ、ときに助け合い、ときにぶつかり、ときに泣きわめき、ときに仲直りし、固い固い絆で結ばれる。物語だ。そして、劇的な物語のすえに、すべての真実を知って、絶望するだろう。これまで、三千五百年。心を殺し、意志を押し通し、けなげに、一心に、不乱に、したたかにやってきたたかが小娘の心に、最後の一押しを加えて、完膚なきまでに折る。そのために、あの女の祖母の抜け殻も用意した。あの女を苦しめんがため。君が、あの女を裏切り、あの女の前で、選択の余地がない刹那の切迫に追い込むことで、あの女自身の手で殺されることで、あの女を、絶望させ、心を折ったすえに、みじめに目的も果たせず自身の無力に、打ちひしがれながら死んでいくのを見届けるために。その計画のために。……あるいは、計画の完遂など見届けなくてもいい。計画の、その目的さえ果たせれば。だが、見届けてみせる。そのための計画だ!」 「なんの……ために……」 「無論、私が、チカ・ランドマー・タワーズに、恨みがある者だから。これといったではなく、たかが、でもない。それ一点のみで、私はあの女の考えうるかぎりの、最低な死を望む」  ローブの人物は、ローブを下ろした。  愛に歩み寄る。愛は、そのくらいの動きにも、反応できず、それがどうしようもなく悔しかった。憎らしかった。恐ろしかった。  絶望を感じた。  ローブの人物は、女の子のようだった。だが、間近まで寄られると、突然、愛は、唐突に理解した。  にごった声。男のものとも、女のものともわからない声。愛と同い年か、さほど変わらない少女の輪郭。  仮面をしていたのを、取って見せる。 「……」 「そして、当然、君はここから向こうへと戻ったときには、ここで聞いたことはすっかり忘れている。思い出したときが、あの女が死ぬときだ」  絶句した。  仮面の下にあった顔。  滝川春多の、いとしい、一糸も変わらない顔が。  醜く笑った。美しい、茶色であった瞳は血のように赤く、異様な光を放っていた。 「それじゃあ、またね、愛(チカ)」  愛は目を覚ました。日の光が、愛の睫毛の間をこぼれていく。 「う……」  愛は目を閉じた。ぱち、ぱち、と、数回瞬きをする。自然に、手が動いて額を押さえている。 「起きた? よかった……何事かと」  チカが言った。視界に、チカの服が入り、位置的に、膝に頭を乗せて(頭の後ろにそれらしい感覚があった。あたたかい)、軽く抱いているらしいのがわかる。 「頭は?」 「痛い……あれ、痛くない……? なんだろ、倒れるとき打ったような……」  愛は、うわ言のように言った。身体を起こそうと思うが、ひどく怠くはあった。  どのくらい気を失っていたのだろう? なにも覚えていない。愛は、昔は少しやんちゃだったから、気を失った経験はある。  反面、眠気に負けて倒れた、と言うと、なにか非常に負けた気がするのもあった。だから、気を失った、と、言っておくことにした。 「私……どれくらい?」 「五分くらいかな。いろいろ調べたけれど、寝ているみたいだったから……まあ、直接地面には不味いかな、と思って」 「本当に異常があったら、頭を動かすのも不味そうだけど、まあ、寝てたから」と、チカが言った。愛は、気まずげにありがとう、と言った。どうにか、身体は起きられそうだった。  本当に寝ていたところから起きたように、身体が少しはっきりしている。が、手足はあいかわらず、鉛みたいに重たい、と思われるようだった。 「なにか……あった?」 「なにも。襲撃は終わったし、私は元の力を取り戻したし……半分だけどね」 「私はまだ魔法が使えたり?」 「今は使えないから、安心していいわ。……使えるようにはできるけれど」  チカは言った。ちょっと肩を動かす。 「でも、もし、あなたの力を借りることになったとしても、どうにかして私一人でやることにするけれどね。どんな影響が起きるかわかったものじゃないし」 「そうなの?」 「最初のあたりだかに、言ったけれど、マナは物質を拒絶する性質があるのよ。扱えないなら、あるだけで身体には悪影響になりかねない。ましてや、ここは私たちの言うマナが元々あった世界でもないし……よく似た世界ではあるけどね。魔法が、この世界では異物になるのよね」 「異物……」  愛は、眉をひそめた。額を押さえて目を閉じる。しかし、なにも浮かんでくるものはなかった。 (なにか……聞いたっけ? 私) 「一気に大容量のものを受け入れたせいで、しばらくは怠さが残って、まあ寝込むまではいかないけどね。元気に動き回ることはできないと思うよ」 「そっ……か」 「せっかくの夏休みなのにね。本当に申し訳ないけれど」 「よくはないな」  愛はぽつりと言った。服は、もう戻っていて、帽子もマントもない。あの服自体が、チカが作った特製のもので、魔法を使うサポートになっていた。それが失われた今、もう必要がなくなったのだろう。 「はあ」と、ぼろぼろの格好で愛は言った。後ろに倒れこんだ先に、まだチカの膝があった。全身がひどく疲れていた。節々が痛い。目を覚ましたことで、かえってそれが、はっきりしたようだった。 「疲れた……」 「そうね」 「膝、ごめんなさい……」 「いいから」  チカは笑った。登りきった陽が、少し傾いて、熱の針をもって愛の怠い目をちくちくと刺した。  あれだけの騒動をやったというのに、行ったり戻ったりを繰り返したせいで、まだ夕方にも鳴っていない。  信じられない、魔法のような時間。  愛は、うう、と、手をかざして、どうにか日射しを防ごうとした。  チカがすっと、マントの端で日影を作った。  影があたたかな日向のように、愛の顔を覆う。  愛は、息をついた。 「あなたの友達を、捜さないとね」  チカが言った。愛はああ、と、忘れていたようにしていたことを、恥ずかしく思った。忘れてはいない。ずっと、胸のなかにある。  ハルタ。 「捜すことが、できるの」 「保証はしない。でも、やるだけはやってみるよ。あなたは、全身全霊をかけた。私は、その行いで、助かった。それなら、なおのことね」  全身全霊、という言葉がくすぐったかった。  愛は、精一杯、状況に沿うよう、考え抜いて、何度も上手く行かず、ぼろぼろになっても、ただあきらめて、絶望しているばかりでは済ませたくなかった。それだけだった。 「あり……がと」  愛は言った。落ちるように眠っていた。眠る前に、チカがそっと呪文を呟いたのが聞こえる。  誓うよ。ハルタを。  必ず助けるから。  愛の意識は、再び闇に落ちていく。  闇に落ちる前に、なにかしないと、と思った。だが、なにもできない。  お前には何もできやしないのだよ。  誰かが言った。愛の心にだけいる、誰かが。誰の心にもいる誰かが。  ハルタ。  必ず。待ってて。  私は、あきらめないから。  どこかの闇の中、棺に横たえられて眠る愛であり、愛でない。  チカの頬をなでて、名前をつぶやくハルタの姿がよぎった気がして。  愛は、すべてそれを忘れた。  眠りは、深く、心地よく、抗いがたかった。 「よろしくね……愛(チカ)」  チカは囁いた。 「必ず、あなたを解放してあげるから」  それは、なんの他意もない、年相応の少女のような呟きだった。  物語は、始まった。  始まったときには、すでに終わってもいた。
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