ひよりの / 第26話

舞

 ――日《ひ》が落《お》ちる。  西《にし》の空《そら》に残《のこ》っていた淡《あわ》い光《ひかり》が、ゆるやかに森《もり》へと溶《と》け込《こ》み、やがてすべてを夜《よる》の色《いろ》へと沈《しず》めていく。  大岩《おおいわ》の周囲《しゅうい》には、いつしか人々《ひとびと》が輪《わ》を成《な》していた。  地《ち》に突《つ》き立《た》てられた松明《たいまつ》の炎《ほのお》が、風《かぜ》にあおられて揺《ゆ》らぎ、橙《だいだい》の光《ひかり》を波《なみ》のように広《ひろ》げる。  その明滅《めいめつ》は、地面《じめん》を、樹皮《じゅひ》を、人《ひと》の顔《かお》を不規則《ふきそく》に照《て》らす。  まるで森《もり》そのものが、呼吸《こきゅう》しているかのようだった。  湿《しめ》った土《つち》の匂《にお》いに、焚《た》かれた香《こう》の甘《あま》く重《おも》い煙《けむり》が混《ま》ざる。  空気《くうき》はぬるく、肌《はだ》にまとわりつくような熱《ねつ》を帯《お》びていた。    ドォ――ン  腹《はら》の奥《おく》を震《ふる》わせる低《ひく》い響《ひび》きが、闇《やみ》を裂《さ》く。  太鼓《たいこ》の一打《いちだ》は単《たん》なる合図《あいず》ではなく、この場《ば》に集《つど》うすべての意識《いしき》をひとつに束《たば》ねる楔《くさび》のようだった。  その音《おと》の余韻《よいん》が消《き》えぬうちに――  カヤが、静《しず》かに前《まえ》へと進《すす》み出《で》る。  まだ花開《はなひら》かぬ忍冬《すいかずら》を編《あ》み込《こ》んだ頭飾《あたまかざ》り。  白《しろ》い蕾《つぼみ》は固《かた》く閉《と》じたまま、内《うち》に秘《ひ》めた春《はる》の気配《けはい》をわずかに膨《ふく》らませている。  身《み》に纏《まと》う質《しつ》の良《よ》い衣《ころも》が夜気《やき》を受《う》けて柔《やわ》らかく揺《ゆ》れ、彼女《かのじょ》の輪郭《りんかく》を曖昧《あいまい》に溶《と》かしていた。  胸元《むなもと》には、ひとつの赤《あか》き瑪瑙《めのう》。  松明《たいまつ》の火《ひ》を受《う》け、その奥《おく》で燻《くすぶ》るように光《ひか》り、まるで血《ち》の記憶《きおく》を宿《やど》した石《いし》のように鈍《にぶ》く輝《かがや》く。  カヤは大岩《おおいわ》の前《まえ》に立《た》ち、息《いき》を整《ととの》える。  そして――  ゆっくりと、手《て》を広《ひろ》げた。  指先《ゆびさき》が空気《くうき》に触《ふ》れる。  それは撫《な》でるというより、見《み》えぬ何《なに》かを確《たし》かめるような、慎重《しんちょう》で柔《やわ》らかな動《うご》きだった。  舞《まい》が、始《はじ》まる。  最初《さいしょ》はわずかな揺《ゆ》らぎ。  水面《みなも》に落《お》ちた一滴《いってき》のように、小《ちい》さく、静《しず》かに広《ひろ》がる。  だが、その所作《しょさ》はやがて変質《へんしつ》していく。  風《かぜ》に呼応《こおう》し、火《ひ》に応《おう》じ、地《ち》の脈動《みゃくどう》を掬《すく》い上《あ》げるかのように――  動《うご》きは次第《しだい》に力《ちから》を帯《お》び、空間《くうかん》そのものを巻《ま》き込《こ》み始《はじ》めた。  腕《うで》が弧《こ》を描《えが》くたび、炎《ほのお》が呼応《こおう》するように揺《ゆ》れ。  足《あし》が地《ち》を踏《ふ》むたび、見《み》えぬ波紋《はもん》が広《ひろ》がる。  肩《かた》。    腰《こし》。    背《せ》。    そして――指《ゆび》の先《さき》に至《いた》るまで。  そのすべてが、統一《とういつ》されたひとつの流《なが》れとなり、炎《ほのお》の奔流《ほんりゅう》のごとく連《つら》なっていく。  ドン――ドォン――  太鼓《たいこ》の律動《りつどう》が深《ふか》まり、どこからともなく上《あ》がる低《ひく》い詠唱《えいしょう》のような声《こえ》が、森《もり》に染《し》み込《こ》んでいく。  それは言葉《ことば》でありながら意味《いみ》を持《も》たず、ただ古《ふる》い祈《いの》りの形《かたち》だけを残《のこ》した響《ひび》きだった。  音《おと》と動《うご》きが絡《から》み合《あ》い、空間《くうかん》は濃密《のうみつ》な層《そう》を成《な》す。  ミナギは、ただ立《た》ち尽《つ》くしていた。  視界《しかい》が、揺《ゆ》れる。    聴覚《ちょうかく》が、引《ひ》きずられる。  肌《はだ》に触《ふ》れる空気《くうき》さえも、舞《まい》の一部《いちぶ》として脈打《みゃくう》っている。  逃《のが》れようのない感覚《かんかく》の渦《うず》。  カヤは、もはや人《ひと》ではない。  炎《ほのお》を纏《まと》い、影《かげ》を従《したが》え、この場《ば》に満《み》ちるあらゆる気配《けはい》を束《たば》ねる――  精霊《せいれい》そのもの。  その身体《しんたい》の揺《ゆ》らぎは、ただの動《うご》きではない。  燃《も》え盛《さか》る流《なが》れとなって森《もり》を満《み》たし、塗《ぬ》り替《か》えていく。  夜《よる》の色《いろ》が、変《か》わる。  空気《くうき》が、熱《ねつ》を帯《お》びてうねる。  すべてが彼女《かのじょ》を中心《ちゅうしん》に再構成《さいこうせい》されていくかのようだった。  ――やがて。  不意《ふい》に、すべてが途切《とぎ》れる。  音《おと》が消《き》え、炎《ほのお》の揺《ゆ》らぎだけが残《のこ》る。  森《もり》は、一瞬《いっしゅん》で静寂《せいじゃく》に沈《しず》んだ。  誰《だれ》も声《こえ》を発《はっ》しない。  いや、発《はっ》することができない。  余韻《よいん》が、あまりにも濃《こ》い。  カヤは振《ふ》り向《む》かない。  ただ、大岩《おおいわ》の前《まえ》に静《しず》かに立《た》つ。  その背《せ》は小《ちい》さい。  だが――  ミナギには、その姿《すがた》が揺《ゆ》るぎようのないものとして映《うつ》っていた。  火《ひ》を宿《やど》し。    場《ば》を支配《しはい》し。    この森《もり》そのものと繋《つな》がる存在《そんざい》。  ――火《ひ》の神子《みこ》。   その確信《かくしん》だけが、静《しず》かに胸《むね》の奥《おく》へと沈《しず》んでいった。 [[illustration:https://api.kakippa.com/api/covers/illustrations/c72d30c8-feaf-4374-8190-e5d129541aa4/1791258032515-b6321179-0e88-467e-b6c1-76239b3bbf78.webp]]

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