芦名 雅 / 第42話

第11話 非常食を手放す夜

 人間に戻ってから、ちょうど一年。音姫は十八歳になった。 「正確には千十八歳――」 「女性の年齢に千を足すのは禁止です」  拓海が言い終える前に切られた。  去年までなら、年齢という数字そのものが止まっていた。今年はケーキの上に立つ蝋燭が一本増えている。それだけのことなのに、音姫は火をつけたあとしばらく眺めていた。 「去年より一本多い」 「そりゃ誕生日だからな」 「来年は、もう一本増えるんですね」 「普通はそういうものだよ」 「普通って、毎年増えるんですね」 「当たり前を感動的に言うな」  音姫は笑った。窓の外では春の海が暗く沈み、遠くの都市灯が水面に細く映っている。豪華な宴会も、会社の祝賀会も断った。テーブルにあるのは近所の店で買った小さなケーキと、拓海が少し焦がした夕食だけだった。 「願い事、しないの?」  拓海が言うと、音姫は蝋燭を前にして考え込んだ。 「千年間、願いは一つしかなかったので」 「俺が帰ってくること?」 「はい」 「もう叶ったじゃん」 「だから困っています」  拓海は笑った。 「じゃあ増やせばいい。来年もこのケーキ食べたいとか、旅行したいとか、喧嘩したら仲直りしたいとか」 「ずいぶん小さい願いですね」 「そのくらいでいいだろ。毎年更新できるし」  音姫はしばらく蝋燭の火を見つめた。炎が瞳の中で揺れ、やがて静かに目を閉じる。 「決めました」 「何」 「秘密です」 「そこは普通なんだな」  息を吹く。小さな火が消え、部屋に甘い煙の匂いが残った。  ケーキを半分ずつ食べ終え、拓海が皿を洗っている間も、音姫は何度か冷蔵庫の方を見ていた。最初は気のせいかと思った。三度目で、拓海は蛇口を止めた。 「何かあるの?」 「……あります」 「その間、絶対ろくなものじゃないだろ」  音姫は冷蔵庫ではなく、その下の冷凍庫へ目を向けた。 「人魚の肉が、まだ少し残っています」  拓海は数秒固まった。 「……は?」 「冷凍保存してあります」 「捨てろ!」 「非常食です」 「何の非常時だ!」 「拓海くんがまた千年くらい逃げた時」 「逃げねえよ!」  反射でツッコミを返した。音姫も笑った。いつものやり取りなら、そこで終わっていたかもしれない。  けれど音姫の手は、冷凍庫の取っ手から離れなかった。  拓海は笑うのをやめた。 「本当に、非常食だから残してる?」  音姫の表情も変わった。 「持っているだけなら、害はありません」 「それは答えじゃない」  部屋が静かになった。冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえる。 「……怖いんです」  音姫は取っ手から手を離した。 「今は幸せです。だからこそ、なくなった時の準備をしてしまいます」 「うん」 「あなたがまた突然いなくなったら。事故で帰ってこなかったら。私たちが喧嘩して、本当に別れることになったら。何か一つでも『そのあと』へ行ける方法を残しておきたくなるんです」  音姫は自分の指を見る。今は小さな傷なら数日残る。熱も出る。年を取る。死ぬこともできる。 「千年間、私は何かが壊れるたびに、次の準備をしました。土地を失いそうなら買いました。会社が潰れそうなら別の事業を作りました。名前が使えなくなれば新しい戸籍を用意しました。誰かが死ねば、次に忘れない方法を考えました」 「だから肉も?」 「はい。持っていれば、最悪の時にも何かできます」 「何かって、また時間止めることだろ」 「……はい」  拓海は責めなかった。千年間、備えることで正気を保ってきた人間に、今日から全部やめろと言っても無理なのだ。 「俺、絶対にいなくならないとは約束できないよ」  音姫の顔が曇る。 「事故も病気もある。俺たちがずっと上手くいく保証だってない」 「そんな可能性、消してください」 「消せない」  音姫は俯いた。 「でも、黙って消えない」  拓海は彼女の手を取った。 「嫌なら嫌って言う。怖ければ怖いって言う。逃げたくなったら、その前に話す。帰れるならちゃんと帰る。今度は時間に全部押しつけない」 「それでも、戻れない時はあります」 「ある」 「死んだら?」 「死んだら無理だな」 「簡単に言わないでください」 「簡単じゃないよ」  拓海は握った手へ少し力を込めた。 「でも、それが人間になったってことだろ。何でもやり直せる保険なんて、たぶんない」  音姫は目を伏せた。 「これを手放したら……私はもう、千年なんて待てません」 「待たなくていい」 「そんな約束、できますか?」 「千年待たせない約束じゃない。待たせる前に話すって約束」  一粒だけ涙が落ちた。 「……ずるい言い方です」 「お互い様だろ」  音姫は泣きながら少し笑った。  その夜、答えは出さなかった。  拓海も「今すぐ捨てろ」とは言わなかった。二人で皿を片づけ、誕生日の残りのケーキを冷蔵庫へ入れた。冷凍庫は開けなかった。  寝る前、音姫はいつものように日記を開いた。書き始めてから、何度もペンが止まる。 『十八歳の誕生日。ケーキは二人分。願い事は――』  そこまで書いて、願い事の内容は書かなかった。その下に別の一文を足す。 『人魚の肉について、拓海くんに話した。まだ決められない。』  千年分の日記の中で、音姫は何度も「待つ」と書いた。決めたことを書くのは得意だった。  決められない、と書いたのは珍しかった。  翌朝、拓海が水を飲みに起きると、キッチンの灯りだけが点いていた。  音姫が冷凍庫の前に立っている。髪は寝起きのままで、薄い部屋着の上にカーディガンだけ羽織っていた。  冷凍庫を開ける。  小さな保存容器を取り出す。  両手で持ったまま、しばらく動かない。  そして戻す。  扉を閉める。  数秒後、また開ける。  二度目。三度目。  同じことを繰り返す。  拓海は廊下の影から声をかけなかった。  人魚の肉は、ただの肉片ではない。父母を見送り、友人を見送り、家族になった人たちを何十人も見送り、それでも千年後へ辿り着くために彼女が握り続けた非常口だ。手放すという一動作で、そこまでの恐怖まで消えるはずがない。  四度目。  音姫は容器を冷凍庫へ戻さなかった。  扉を閉めたあと、その場でしばらく容器を抱えていた。 「一緒に行くか」  拓海が声をかけると、音姫は驚かなかった。気づいていたのかもしれない。 「ありがとうございます。でも、今回は一人で行きたいです」 「甲太郎のところまで?」 「はい。持っているか、手放すか。最後まで自分で決めたいので」  玉手箱を開けた時、音姫は自分の人生を自分で選ぶと言った。今度は、未来を保証する道を捨てるかどうかを選ぼうとしている。  拓海は頷いた。 「分かった」 「止めないんですね」 「止めてほしい?」  音姫は少し考え、首を横に振った。 「いいえ」  容器を保冷袋へ入れ、音姫は玄関へ向かった。靴を履く直前、一度だけ振り返る。 「拓海くん」 「ん?」 「帰ってきます」  千年前なら、その言葉を信じられたか分からない。  今は、拓海も同じ言葉を返した。 「うん。行ってらっしゃい」  音姫は少しだけ目を丸くし、それから笑った。 「行ってきます」  玄関が閉まる。  拓海は追わなかった。  端末で位置を確認もしなかった。  朝食を作り、二人分の味噌汁を温め直した。待つという行為が、昔ほど怖くない。帰ると言った相手を信じて、帰ってくるまで自分の生活を続ける。ただそれだけのことを、二人はようやく覚え始めていた。  海辺には朝の潮風が吹いていた。通勤路を急ぐ人々が防波堤の向こうを歩き、遠くでは清掃機が砂浜をゆっくり移動している。  甲太郎は呼び出されるなり、音姫の持つ保冷袋を見て目を丸くした。 「まさか」 「残っていた人魚の肉です」 「音姫様が自分から?」 「その反応、失礼ですね」 「いや、千年越しの執念を知っておるので」  音姫は袋を開けた。小さな容器を両手で持ち上げる。指先が震えていた。 「これで、全部です」  甲太郎の顔から冗談が消えた。 「本当によいのじゃな」 「よくはありません」  音姫は正直に言った。 「怖いです。今でも、持っていた方が安心します。拓海くんがいなくなった時のために、何か残しておきたいと思っています」 「ならば、無理に今日でなくとも」 「それを言わないでください」  声が少しだけ強くなった。 「今日じゃなくていいと思ったら、私は百年でも先延ばしにできます」  甲太郎が黙る。 「でも、それを持ったままだと。何かが起きるたびに、私は永遠へ逃げる道を見ます。拓海くんと喧嘩するたび、事故のニュースを見るたび、帰りが遅れるたび。いつか使うかもしれないって思う」  容器を差し出す。 「二度と誰も使えないように、竜宮城で封印してください」 「承知した」  甲太郎は両前脚で受け取った。  音姫の指が、すぐには離れなかった。  容器の縁に爪がかかる。  一秒。  二秒。  三秒。  それから、ゆっくり指を開いた。  たったそれだけのことだった。  空が変わるわけでも、海が光るわけでもない。通勤途中の人は足を止めず、清掃機は一定の速度で砂をならしている。  音姫はその場にしゃがみ込んだ。 「……なくなった」  甲太郎は何も言わなかった。  音姫も泣かなかった。ただ、自分の空になった両手を見ていた。  甲太郎はしばらく隣にいてから、容器を抱えて海へ戻った。  昼近くになって、拓海の端末へ短いメッセージが届いた。 『終わりました』  拓海は海辺へ向かった。  音姫はまだ防波堤の近くに座っていた。朝より人が増え、親子連れや散歩中の老人が行き交っている。その中で、音姫だけが同じ場所に座っていた。  拓海は何も聞かず、隣へ座った。  十分ほど、二人とも海を見ていた。 「後悔してる?」  ようやく聞くと、音姫は膝へ顔を埋めたまま答えた。 「少し」 「正直だな」 「かなり、かもしれません」 「増えたな」 「今なら追いかければ、まだ甲太郎さんから取り返せるかも、と考えています」 「行く?」  音姫が顔を上げる。  拓海は止めなかった。 「本当に取り返したいなら、俺が決めることじゃない」  音姫はしばらく拓海を見た。  やがて首を横に振った。 「行きません」 「そっか」 「行きませんけど、怖いです」 「うん」 「今夜、冷凍庫を開けて確認すると思います」 「空なのを?」 「はい」 「俺も一緒に見るよ」  音姫は小さく笑った。 「変ですね」 「何が」 「何もない冷凍庫を見る約束なんて」 「俺たちらしいだろ」  その夜、本当に二人で冷凍庫を開けた。  保存容器が置かれていた場所は空いていた。  音姫はしばらくそこを見てから、代わりに誕生日ケーキの残りを入れた。 「そこに置くの?」 「空いているので」 「非常食がケーキになったな」 「賞味期限は明日です」 「急に短い!」  音姫が笑う。  千年先のための保険があった場所に、明日までに食べるケーキが入った。  その違いが、拓海には妙に嬉しかった。  未来を保証してくれるものは、もう二人の手元にはない。  だから今日帰ることも、明日話すことも、来年また歳を取ることも、一つずつ選ぶしかない。  音姫はその夜初めて、「待つための永遠」を自分の意思で手放した。

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