むかいぬこ(@mukainuko) / 第101話

第16話 離した指先……

「なんか、似てるね」 「なにが?」 「わたしたち」 早川君が不思議そうに私を見る。 「早川君は、自分を小説の中に登場させてミニヨンを幸せにした。わたしも、自分の一部を登場人物に入れてる」 「ああ、そういうことか」 早川君は納得したように頷いた。 「僕は女の子を幸せにするヒーローになりたかった。綾瀬さんは?」 「わたしは……」 少し考えた。 『潮騒の記憶』を書き始めたのは、投稿サイトの月間賞でもらえるクオカードが目当てだった。 我ながら夢がない。 でも、書いているうちに、それだけではなくなった。 「小説の中なら、なりたい自分になれるからかな」 「なりたい自分?」 「うん。現実のわたしとは全然違う女の子にもなれるでしょ。幼なじみの男の子に大切にされる病弱な女の子とか、紗栄子みたいに綺麗で、自由で、思ったことを何でも言える女の子とか」 現実の私は、どちらでもない。 病弱でもなければ、絶世の美少女でもない。お金もないし、恋愛経験もない。 でも、小説の中なら何にでもなれる。 行ったことのない場所へ行って、現実の私にはできないことをして、誰かを好きになることだってできる。 「それで、好きな人から『好き』って言ってもらったりするの」 口にしてから、少し恥ずかしくなった。 「……なんか、こうやって説明すると寂しい人みたいだね、わたし」 「そんなことないよ」 早川君は笑わなかった。 「僕も同じだと思う」 「早川君も?」 「だって、小学生の僕はミニヨンを助けるために、自分を小説の中へ入れたんだから」 「あ、そっか」 やっぱり似ている。 始めた時期も、書いてきたものも全然違うのに、根っこのところでは同じなのかもしれない。 なんだか少し嬉しかった。 それからしばらく、部屋にはキーボードを叩く音と、紙の上を走るシャープペンシルの音だけが続いた。 私は午前中に早川君から指摘されたところを直し、紗栄子の続きを書く。 向かいでは、早川君が時々考え込んではノートに何かを書き込み、また手を止める。 同じ部屋で別々の小説を書いている。 会話なんてないのに、不思議と居心地は悪くなかった。 先に私の方が一区切りついた。 「ふう……」 椅子の背にもたれて伸びをすると、早川君が顔を上げた。 「終わった?」 「とりあえず、今日直すところは」 「じゃあ、あとで読ませてもらうよ」 「うん。早川君は?」 「僕も下書きはだいたい終わった。あとは入力しながら直すかな」 早川君はシャープペンシルを置き、ノートを閉じた。 そのノートを見て、さっきから少し気になっていたことを思い出す。 「ねえ」 「なに?」 「早川君のも見せて」 「え?」 「下書き。わたしばっかり読んでもらってるの、不公平じゃない?」 「いや、これはまだ本当に下書きだから」 「わたしのだって下書き見せてるよ」 「そうだけど……」 妙に歯切れが悪い。 そうなると、余計に見たくなる。 「ちょっとだけ」 「あっ」 テーブルの端に置かれていたノートを取る。 「綾瀬さん、それは――」 「字、いっぱい書いてあるね」 早川君の字は、思っていたより読みやすかった。 几帳面というほどではないけれど、行から大きくはみ出すこともなく、ところどころに矢印や書き直した跡がある。 ページをめくる。 途中に、少し大きな文字で題名らしきものが書かれていた。 『彼女は天然色』 「これ?」 その下へ目を落とす。 ――放課後の図書館。 そこまで読んだところで、早川君の顔色が変わった。 「それは違う!」 「え?」 早川君が慌ててノートへ手を伸ばす。 私も驚いて、とっさにノートを持った手を引いた。 「あっ――」 引っ張られたわけでもない。 ただ、私が変な体勢で振り向いたせいでバランスを崩した。 身体が傾く。 次の瞬間、肩が早川君の胸にぶつかった。 「ご、ごめん!」 「いや、僕の方こそ!」 慌てて身体を起こそうとして、今度は額が早川君の顎に当たりそうになる。 「わっ」 「危ない」 肩を支えられた。 そこで、動けなくなった。 近い。 顔を上げれば、すぐそこに早川君の顔がある。 眼鏡の奥の目まで、いつもよりはっきり見えた。 肩に置かれた手が熱い。 いや、早川君の手が熱いのか、私の肩が熱くなっているのか分からない。 さっき公園でネックレスをかけてもらったときより近い気がする。 たぶん、気のせいではない。 「……綾瀬さん」 「う、うん」 返事をした自分の声が、妙に小さかった。 早川君が先に手を離した。 私も慌てて身体を離す。 「ごめん」 「だから、早川君が謝ることじゃないよ。わたしが勝手にノート見たんだし」 「いや、その……」 早川君はノートを閉じると、自分の方へ引き寄せた。 明らかに様子がおかしい。 「そんなに見られたくないの?」 「まだ途中だから」 「わたしには途中のを見せろって言うのに?」 「それは……」 困っている。 ちょっと怪しい。 でも、本当に嫌そうなので、それ以上は聞かないことにした。 「分かった。じゃあ、完成したら見せて」 「うん。ちゃんと見せる」 「約束ね」 「約束する」 時計を見ると、もう六時を過ぎていた。 思っていたよりずっと長くいたらしい。 「わたし、そろそろ帰ろうかな」 「もう?」 早川君が言ってから、 「あ、いや。もうこんな時間か」 と時計を見る。 ほんの一瞬だったけれど、その「もう?」が少し嬉しかった。 どうして嬉しいのかは、考えないことにした。 「今日はありがとう。ネックレスも」 胸元の貝殻に触れる。 「大事にするね」 「うん」 そこで、ふと思い出した。 「そういえば、早川君の誕生日っていつ?」 「僕? 十月」 「じゃあ、そのときはわたしも何かあげる」 言ってから、十月という言葉が妙に遠く感じた。 互助関係は、このコンテストが終わるまで。 七月が過ぎれば、毎週こうして早川君の部屋へ来る理由もなくなる。 それに十月なら――。 そのころには、早川君の好きな人との関係も、今とは違っているかもしれない。 「あ、でも、お返しは気にしなくていいよ」 「ううん。高いものは無理だけど」 「高いものじゃなくていいよ」 「じゃあ期待しないで待ってて」 「それ、待てばいいのか待たない方がいいのか分からないな」 二人で笑った。 笑いながらも、十月の早川君を少しだけ想像してしまった。 隣にいるのは、私ではないのかもしれない。 そう思った途端、胸の奥に小さなものが引っかかった。 私は、何を考えているんだろう。 早川君には好きな人がいる。 それは最初から知っている。 私は小説を書くのを手伝ってもらっているだけで、私たちは互助関係だ。 それに――。 小説を書き終えたら、今度は私が早川君を手伝う。 好きな人とうまくいくように。 それが一番いい。 私はそういう立場でいればいい。 そう自分に言い聞かせると、胸の引っかかりが消えるどころか、少しだけ重くなった。 「駅まで送るよ」 「いいよ。一人で帰れるから」 「公園を抜けるころには暗くなるよ」 窓を見ると、確かに外はもう夕方の色になっていた。 「じゃあ……お願いします」 結局、また甘えることになった。 外へ出ると、昼間より風が少し涼しくなっていた。 公園へ入るころには木々の間から見える空も暗くなり始め、池の周りには街灯が灯っていた。 昼間はあれほど人がいたのに、帰る人が増えたせいか、道によっては急に人影が少なくなる。 私は早川君の半歩後ろを歩いた。 「暗いね」 「足元、気をつけて」 「うん」 返事をした直後、木の根に靴の先が引っかかった。 「わっ」 「大丈夫?」 「大丈夫。ちょっとつまずいただけ」 恥ずかしい。 足元に気をつけてと言われた直後につまずく人がいるだろうか。 ここにいる。 また歩き出す。 今度はちゃんと足元を見る。 でも、そうすると前が見えない。 前を見ると、足元が気になる。 どうすればいいんだ。 少し迷ってから、私は早川君のシャツの袖を指先でつまんだ。 早川君が振り返る。 「あ、ごめん。暗いから」 「うん」 それだけだった。 何も言わず、また前を向く。 私も手を離さなかった。 袖の布一枚をつまんでいるだけなのに、不思議とさっきより歩きやすい。 早川君は、私に合わせて少しゆっくり歩いてくれた。 公園を抜けて明るい通りへ出ると、私は袖から手を離した。 もう必要ない。 それなのに、離した指先が少しだけ物足りなかった。 駅までの道は、そこからすぐだった。 改札の前で立ち止まる。 「じゃあ、また大学で」 「うん。原稿、読んでおくね」 「お願いします」 手を振って、改札を抜ける。 昨日は、明日も会えると思って帰った。 でも今日は違う。 次にこうして二人で過ごすのは、また週末だ。 もちろん大学へ行けば会える。 同じサークルなのだから、顔を合わせることだってある。 でも、それとは少し違う気がした。 何が違うのかは、まだよく分からない。 電車を待ちながら、私は胸元のネックレスに触れた。 今日一日だけでも、知らなかった気持ちがいくつもあった。 嬉しい。 楽しい。 少し寂しい。 それから、理由の分からない胸の痛み。 これも全部、小説を書くための材料になる。 そう考えれば、悪くない。 私は作家志望なのだから。 ……たぶん。

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