むかいぬこ(@mukainuko) / 第103話

第18話 羊(オオカミ)

『そう。オオカミ』 「早川君、人間だけど」 『そういう意味じゃない!』 怒られた。 電話の向こうで、千佳が大きく息を吸う。 どうやら、ここからが本題らしい。 『いい? オトコっていうのはね、羊みたいな顔をしていても、心の中ではオオカミが牙をむいてるの』 「早川君は羊より優しいよ」 『だ・か・ら! それが罠なの!』 「罠?」 『女の子を安心させるためのフェイクよ。「この人だけは大丈夫」って信用させてから、ガブッといくの』 「なんでそんな回りくどいことするの?」 『警戒されたら逃げられるでしょ』 「でも、オオカミって『三匹の子豚』では正面から襲ってなかった?」 電話の向こうが静かになった。 勝った。 『……カノン』 「なに?」 チッチッチっと微かに聞こえる。 『子豚は食べられた?』 「え?」 『三匹の子豚。オオカミは子豚を食べることに成功しましたか?』 「……してない」 『でしょ?』 なんだか雲行きが怪しくなってきた。 『じゃあ「オオカミと七匹の子ヤギ」は?』 「あれは……お母さんのふりをして家に入って、子ヤギを食べた」 『そうなのよ!』 「わっ」 声が大きい。 思わずスマートフォンを耳から離した。 『真正面から襲ったオオカミは失敗した。でも、相手を安心させて騙したオオカミは成功したの!』 「でも最後はお腹を切られて――」 『そこは今どうでもいい!』 どうでもいいらしい。 『つまりオオカミは、獲物を安心させることが大事なの。カノンなんて、もう完全に「早川君だけは大丈夫」って思ってるでしょ?』 「うん」 答えてから考える。 確かにそうだ。 男の人の部屋へ一人で行くなんて、少し前の私なら考えもしなかった。 でも早川君なら大丈夫だと思っている。 二日続けて部屋へ行ったし、二人きりになっても怖いと思ったことは一度もない。 むしろ――。 そこから先を考えそうになって、やめた。 「でも、それって早川君が本当に優しいからじゃない?」 『甘い!』 また怒られた。 『いい? 二日間も女の子と二人きりだったのよ。しかも、その女の子は手作りクッキーを持ってきて、翌日はお弁当まで作ってきた』 「それはお礼だって」 『暗い公園では袖までつかんでる』 「暗かったから」 『身体もくっついた』 「事故!」 『それで何もしてこなかったんでしょ?』 「……うん」 『そこがおかしい』 「え?」 私はベッドの上で座り直した。 「何もしなかったなら、むしろ普通じゃない?」 『普通じゃない』 千佳は断言した。 恋愛経験のない女が、恋愛経験のない女に「普通じゃない」と言っている。 大丈夫だろうか、この相談。 『もちろん、無理やり何かするって意味じゃないよ。でもカノンの話を聞く限り、早川君だってカノンを嫌ってはいないでしょ?』 「それは……たぶん」 嫌われてはいないと思う。 そうでなければ、二日も一緒にいてくれないだろう。 『だったら、もう少し何かあってもいいと思わない?』 「何かって?」 『何かよ』 「だから何?」 『……何か!』 分からないんだ。 この人も。 『とにかく! 何もなかったことには理由があるはずなの』 「早川君が紳士だからじゃない?」 『それもある』 急に認めた。 「あるんだ」 『でも、それだけじゃない。私が考えた可能性は四つ』 嫌な予感がする。 『一。カノンのことが気になっているから、慎重になっている』 「え?」 思わず聞き返した。 胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。 『二。カノンがまったく恋愛対象じゃない』 今度は別の意味で胸が動いた。 「……急にひどくない?」 『可能性を公平に検討しています』 「一と二の落差が激しすぎるんだけど」 『三。そもそも女の子が恋愛対象じゃない』 「それは……分からない」 『そして四』 千佳が少し間を置いた。 『他に好きな人がいて、その人以外は考えられない』 「あ……」 それなら知っている。 早川君には、好きな人がいる。 本人から聞いた。 『私は四だと思う』 「どうして?」 『だって、本人が好きな人がいるって言ったんでしょ?』 「うん」 『しかも、かなり好きなんじゃないかな』 その言葉に、胸の奥が少し重くなった。 さっきの「恋愛対象じゃない」と言われたときとは、また違う。 どうしてだろう。 『カノン?』 「うん。聞いてる」 『でね、ここからが重要』 まだあるらしい。 私は麦茶に手を伸ばした。 『その好きな人、カノンも知ってるんじゃない?』 危うく麦茶をこぼしかけた。 「え? なんで?」 『考えてみなさい』 千佳の声が、急に探偵みたいになる。 『早川君は好きな人がいる。それなのにカノンを自分の部屋へ呼んで、二日間も一緒に過ごしてる』 「小説を書くためだよ」 『理由はどうでもいいの。もしそこでカノンと何かあったら?』 「何かって……」 『何かは何か!』 やっぱり具体的には分からないらしい。 『もし二人のことが好きな人に知られたら、早川君は困るでしょ?』 「それは、まあ……」 『なのにカノンと二人でいられるってことは、逆に考えれば、絶対に間違いを起こさないって決めてるわけ』 「なるほど……」 『しかも、その相手がカノンの知り合いだったら、なおさら慎重になる』 私は黙った。 言われてみれば、筋が通っている気がする。 いや、本当に通っているのか? さっきまで三匹の子豚の話をしていた人だ。 でも――。 早川君には好きな人がいる。 それは事実だ。 私と二人で過ごしても、早川君は距離を越えようとはしなかった。 それも事実。 ノートを取り合ったときだって、身体が触れた途端、すぐに離れた。 公園でも、私が袖をつまんでも何も言わなかったけれど、それ以上近づいてくることはなかった。 そこまで考えると、千佳の話が急にもっともらしく思えてきた。 『つまり』 千佳が言う。 『早川君は、その子のことをものすごく大事にしてるんじゃない?』 胸の奥に、また小さな引っかかりを感じた。 「……そんなに好きなんだ」 自分でも思っていたより、小さな声になった。 『カノン?』 「なに?」 『なんかテンション下がってない?』 「別に」 『もしかして早川君のこと――』 「違うよ」 少し早く答えすぎた。 電話の向こうが静かになる。 「だって、わたしは早川君の恋を応援するって決めてるし」 『それとこれとは別じゃない?』 「別じゃないよ」 自分に言い聞かせるように答えた。 早川君には、本当に好きな人と付き合ってほしい。 私はずっと小説を手伝ってもらっている。 だから、コンテストが終わったら今度は私が手伝う。 それでいい。 ……胸が少し重い理由まで、今考える必要はない。 『まあ、カノンがそう言うならいいけど』 千佳にしては、あっさり引き下がった。 『でも気をつけなよ』 「何を?」 『もしその好きな人がカノンの友達だったら、変なことになったとき困るでしょ』 「変なことにはならないよ」 『そう言ってる子が一番危ないの!』 またオオカミ理論に戻った。 『カノンは無防備すぎるんだから。絶対に間違いを起こしちゃダメ』 「分かった」 『二人きりの部屋で雰囲気に流されるのもダメ』 「流されないよ」 『暗いところで服をつかむのも禁止』 「それはもういいでしょ」 『手作り弁当も――』 「それは関係ない!」 いったい何を相談していたのか分からなくなってきた。 でも。 早川君の好きな人。 私の知っている人。 そう考えると、候補はそれほど多くない。 同じ大学。 同じサークル。 早川君と普段から話すことがあって、私とも親しい女の子。 頭の中に、一人の顔が浮かんだ。 「……あ」 『なに?』 「いるかも」 『何が?』 「早川君の好きな人」 『えっ! 誰?』 千佳の声が一気に大きくなる。 「大学で一番仲のいい子」 『ちょっと待って。それ、かなり重要じゃない?』 「うん……」 美鈴。 明るくて、話し上手で、友達も多い。 私と違って、男の人と話すときだって自然だ。 早川君とも普通に話している。 そういえば――。 早川君が好きな人の話をしたとき、相手が誰なのか私は聞かなかった。 聞く必要がないと思っていた。 でも、もし美鈴なら。 いろいろなことが、急につながった気がした。 「たぶん……美鈴だ」 口にすると、それが正解のように思えてくるから不思議だ。 『美鈴ちゃんね。よし、覚えた』 「何をする気?」 『何もしないよ。鹿児島にいるんだから』 「だったら覚えなくていいでしょ」 『親友の一大事なんだから覚えるわよ』 「一大事じゃないって」 『一大事です』 どうやら千佳の中では、すでに大事件らしい。 「でも、千佳に相談してよかった」 『でしょ?』 得意げな声が返ってくる。 『恋愛のことなら千佳様に任せなさい』 私は思わず笑った。 「彼氏いたことないのに?」 『それは言わない約束よ、おとっつあん』 「はいはい」 電話を切ったあと、私はそのままベッドに倒れ込んだ。 天井を見る。 早川君の好きな人は、美鈴。 そう考えればいい。 相手が分かったのなら、むしろ都合がいい。 美鈴は私とも仲がいい。 コンテストが終わったら、二人がうまくいくように手伝うことだってできる。 最初から、そのつもりだった。 私は早川君に小説を手伝ってもらう。 終わったら、今度は私が早川君の恋を手伝う。 互助関係。 何も変わっていない。 それなのに。 私は机の上に置いたネックレスへ目を向けた。 白い貝殻が、部屋の明かりを受けて小さく光っている。 しばらく眺めてから、枕に顔を埋めた。 「……美鈴かあ」 別に、嫌なわけじゃない。 美鈴はいい子だ。 早川君とも、きっとお似合いだと思う。 だからこれは、たぶん――。 応援する方法を考えなきゃいけないから、少し気が重いだけだ。 そういうことにしておこう。

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