ジ・エモン / 第21話

21 記録(4)

「ウゥア……」  ゲンコはうめいた。頭のなかにアコーディオンの音色がわんわんひびいている。  めざめが悪かった。真っ黒な有名サッカーチームのロゴ入りキャップの下、ゲンコは額をおさえていた。 (はあ)  適当に手のひらでこすって、腕をおろす。  腕に巻いた時計は、午前十時○四分を指している。パーカーのポケットに手をおさめる。このポーズは、あざとさを感じてしまってゲンコはあまり好きではなかった。  ついでにいえば、今日の待ち合わせも好きでも嫌いでもない。午前十時二十分。  ややはんぱな時間に尚吉との約束をとっている。だが、夢見のわるさのあまり、早くに起きてやってきてしまった。 (それどころじゃないとは思うんだけどな)  思う。  あれからゲルトヒーデルのようすは変わらない。もう三日前になる。  報告としては、あったままを報告した。  オート・モーフィスとゲルトヒーデルが主張する個体の出現。  現場でいざこざになったこと。ノーフェイス・エージェントの出現。ヨハネという人物の来訪。当日の怪物の処理がとどこおったこと。責任としてゲルトヒーデルらと限定的な連携状態にあるゲンコにも、その一端が求められること。 「私のごく周囲にヤオヨルズがあらわれることと、包囲班の配置が敷かれていることに関して説明をいただきたいのですが」  ウェルフには直接聞いた。しかし、かえってきた答えはそっけない。 「調査中でくわしくは答えられない」 「私は自室待機を厳にする必要があるのではないですか」 「必要はない。なにかあれば包囲班の対応がある。ひきつづき、現状維持だ」 「了解しました」  にべもない。  今日にしたって、不要な外出をしぶるゲンコに外出を指示してきた。  いままでも、尚吉に言って出かけるよう指示されることはあった。必要はともかく、わからなくても詮索することではない。  そう思って出てきたが、わからないことはすっきりはしない。する必要もないのだが……ふと、声をかけられゲンコは顔をあげた。 「よっ。モリイさん」  典昌である。私服で、よそいきであるのがうかがえる。清潔感のあるたたずまい。 (美形ってやつだな) 「こんにちは」 「こんにちは。外だといつもまじめっぽいな」 「くせなんだよ」  ゲンコは帽子のつばをさわった。この男子も、妙に外で会う。 「デート?」 「そんなとこ」 「じゃあ私に話しかけてちゃダメでしょ」 「まちあわせ、ちょっとヒマだと思ったらモリイさん見つけてさ」 「そっか」  典昌はあいかわらず屈託ない。 「最近どう? よく眠れてる?」 「まあね。なんか医者っぽいな」 「そう? まあ、ついでにいや、モリイさん、そのわりには寝不足っぽいね。我慢してる?」 「ガマンはしてないけど。やっぱわかるかなあ」  ゲンコは嫌ついたように、ほほをさすった。季節の変わり目で、肌の状態がよくないのはたしかだ。  そもそも尚吉にも言ったように、もともと虚弱である。本来は病気にもかかりやすい。  二年ていど前からは、そんなこともなくなったが。 「そういうのはちゃんと言ったほうがいいな。叔父さん、そういうのはちゃんとやるからさ」 「そんなこと言ってたな。まえ、なんかあったの?」 「うちの母さんが病弱でさ。自宅帰宅してたときに慣れてて」  ん? と、典昌はあごをさすった。 「今日、叔父さんとまちあわせ?」 「うん」 「いいな、それ。じゃ、そろそろ行くよ。またね、モリイちゃん」  典昌はほぼひとりでしゃべって、手をふった。最後に軽薄な調子がもれた。  ゲンコは腕時計を確認した。 (なにを考えているんだか)  典昌のことではなく、そのまえのぼやきのつづきを思いうかべる。  昨日、ゲルトヒーデルとはやや話しこむことがあった。まあ話しこむといっても、字面ほどなごやかでも愉快でもない。 「じゃあ、ヨハネって人とは知っている仲だったんですね」  その日、怪物との接触前に、また雑談する機会があった。  そこであのヨハネという人物、おそらくはゲンコの知識でいえば義指のヨハネ、または欠地王とあだ名される人物だが、諒子が知りあいであったという。 「私は昔から体が頑丈だったんですけれど、そのせいで危険てものを知らなくて……それを心配したお祖母ちゃんとヨハネさんが、体の動かしかたを教えてくれまして」  諒子の祖母とヨハネは、昔からの友人であるという。  ゲンコは納得した。そのうえで、ゲルトヒーデルにちいさい疑問を聞いた。 「あなたは知らなかったんですか?」 「はい。知りません。リョウコ自身がヨハネが何者であるかというのを知らなかったので」 「そりゃそうか」  その後、現場作業を終えた。  ふたりきりになったのはその後だ。  その日、常なら洗浄処理の段になると、どこかへ姿を消すゲルトヒーデルは、なぜかゲンコについてきた。ついてきた、わけではなく、行き先がいっしょだった。  わき道だが、洗浄処理は組織がやっていることで必須である。ゲルトヒーデルも当然、徹底している。怪物の体組織は、人体に予想できない不具合をもたらす。  前例から組みこまれた行程であり、限定的(マニアック)なノウハウは流用もされていない。逆算してゲルトヒーデルの洗浄処理はいずれかの組織が支援している証左である。  洗浄処理とはいうが、シャワーのようなやわらかいものではない。実際、メインの行程をうけたあとにシャワーはすぐに浴びるようにされている。  衣服ごと着たままの状態で念入りな除去がおこなわれ、皮膚は表層から浸透が想定されるところまで一気に処理される。  ゲルトヒーデルがグリニザ本部側でおこなったのは、どうも、なにか裏での合意があったらしい。効率を考えても、エイブリーをたずさえた有効な作業員であるゲルトヒーデルをというのは当然の話ではある。 (仕返しのなんのと……とにかく、目的があんな調子なら利用できるものはすればいいんだ)  ゲルトヒーデルがそんな無茶でないことは、うっすらとも感じている。  あくまでも人間的なあわなさから、ゲンコは愚痴をこぼした。  終わったのが洗浄処理のあとであるため、ゲンコはいつもたいがいであるように、人がいないシャワー室にいた。  となりにゲルトヒーデルがいる。もっとも、そのときもたいした話はしない。  シャワーはあくまで行程のひとつなので、手早くおわらせる。手早く、といっても日常的なレベルにくらべればだが。  急に工程が移ったせいか、ゲルトヒーデルはシャンプーを切らしていた。  ゲンコは彼女の諒解をとって、自分のシャンプーと、ついでに、ボディーソープを貸した。  シャワーを終えると、脱衣所を終えてロッカールームで身じたくをする。そこで話がふいにはじまった。 「まだあやまっていませんでした」 「え?」   ゲンコが切りだすと、ゲルトヒーデルはむしろ顔をしかめるようにした。  なにかわだかまりがあるようには感じたが、ゲンコはそのまま言った。 「一昨日はすみませんでした」 「なにが」  ゲルトヒーデルは言いかけて、髪を梳く手を再開した。なにか言うと思えば、そのまま身じたくをつづける。  ひととおり終わって、手を動かす必要が消えてから言う。 「あなたが言ったんでしょう」 「うん?」 「話す気になればそうできるというだけの、いまいち誠意のないものですよと」 「あなたが謝罪を気を悪くして聞くだろうとはなんとなく思っていましたよ」 「敬語でなく話してください」 「ケイゴってほどのことは言ってないわよ」  ゲンコはボリュームをおさえて言った。ゲルトヒーデルも同じようにしている。 「じゃあなにをあやまっているのか、一応言ってみなさいよ」  ゲルトヒーデルは言った。 「私は約束もなにもしていないことで気に病んだりしませんよ。病んだからあやまっていたわけでもないし。あなたが立ち回っていたのを目の前で棒立ちで、わけのわからないことで邪魔までしたから」 「それ以外にはないんですか」 「ない」  ゲンコはきっぱり言った。 「いまさらあなたのことに干渉するとか思うわけないでしょ……最初から思ってもいないし」 「あなたのそういう言いかたは、私以外にも問題をひきおこしかねないと思う」 「そうですか。私もあなたを問題に思いました。いくら相手が怪異だからって、人間の姿をした相手にまっすぐ斬りかかるなんて」 「ああ、私を狂犬だと思ったわけですか」 「そんなことはありませんよ。あなたこそが、私に失望していると思っていました」  ゲンコは言った。ブレザーの襟をととのえる。  ゲルトヒーデルは、急にまっすぐにゲンコを見た。目が合ったのに、ゲンコが内心たじろいだほどだ。  その目の色は、こころなしか人を向いて話す諒子の気配を感じさせる。 「そんなことはありません。手を貸さないだの、急に倒れて動かない、だのそんなことで失望を感じたり……私は会ったときから、あなたには尊敬を感じているもの」 「……それはうれしいです」  ゲンコは言いつつ、納得もした。諒子とゲルトヒーデルは、こういうところで通じたところがあるらしい。  話もつづかなかったため、着替えまでぜんぶ終えて外に出る。ゲルトヒーデルは、今度はひとりごとめいて言った。 「私は失望なんかしません。ただ、あなたのあんな姿は見たくなかったと感じました」  ゲンコはなんのことを言っているのかはわかった。同時に、まぜっかえすような面倒も感じなくはない。  あるいは、ゲルトヒーデルにしてみれば話は終わっていない。まぜっかえすもなにもない、ということか。 「ふらふらになり、へんなうわごとを口走っていた姿?」  ゲンコは言った。ゲルトヒーデルは、ちいさく息をぬくようにして答えた。 「あれがオート・モーフィスの不可思議な力かと思ったのよ」  ゲルトヒーデルは、闇からちらりと見てきた。横顔が、近くの外灯の明かりを返している。 「あれはなに?」 「答えられません」 「私があれを見て思ったことはひとつだけです。思っていることも」  ゲルトヒーデルは言った。  夜気が、胸に息苦しい。なにか焼けるような不穏な気配を感じた。 「それは、あなたが騎士(サー)トリストラムなのかということです」 「その名前で呼ばないで。私はその名前が好きではありません」 「では、失礼します。お大事にしてください。また会いましょう」  ゲルトヒーデルはちいさく頭をさげた。去りぎわに、「ごめんなさい」とつぶやく。  そのまま敷地の外へ出ていった。 (くそ)  ゲンコは、思いだして歯がみした。  不機嫌さが微妙に伝わったのか、尚吉がようすを尋ねてくる。なんでもない、と返してゲンコはもの思いした。 (あの不機嫌な女のことは、いまは目下じゃないもの)  今は尚吉と合流して、喫茶店に入っていた。尚吉はついぞかわらぬ雰囲気で、コーヒーを飲んでいる。 (ヨハンナめ)  組織と個人両方をぐちる。  だまって尚吉のまわりに、人員を配置していたくらいはなんとも思わない。  それが上位存在と接触していて、ひともんちゃくあって保護したことも彼らの仕事であるからいい。ゲンコにかくれてなにも知らせもせず、結局、今日になって本人に確認したことで知らせた。  それもやはりどうこう言うことではない。  尚吉の周辺にこだわっているのは、ゲンコの私的な都合であるからだ。  ここに来たのも、その予定はなかったのを希望して来たものだ。  いまでは、現場と仕事の内容とたまたま合致している。合致したのも、偶然なのかは知らない。 (そんな偶然はない)  ひとつ気に病む点があるとしたら、尚吉の周辺にこだわっておきながら、彼の身に起きたことを知らなかった。その自分のお祭りさだ。   気をとりなおして、ゲンコは言った。 「そういえば、典昌さんから聞いたんですが。尚吉さんの妹さんが」 「うん?」  尚吉は、ちょっと眉を上げた。ゲンコは聞いた。 「典昌さんの母親が、昔病弱だったって」 「ああ」  尚吉はなんとはなしに答えた。うなるように言う。 「そうそう……生まれつき体が弱い体質で。八歳くらいまでだな、ずっと病院でね。家に帰れるようになっても通院する生活だったよ」 「そうだったんですか」  ふむ、とゲンコはうなった。  人の体調に気がいくというのは、そういう事情であったらしい。 「ともかく、わかりませんね」  話をもどして、言う。内心腹立たしい思いはあるが、極力ださない。 「特定個人のところに上位存在……尚吉さんが見た人物が接触してくる例は、確認されていないものの、ないことはない話です。彼らの行動は計測できていないことが多いですから」 「その彼らというのは?」  尚吉はぴんとこない顔で聞いてきた。ヨハンナが情報開示をもったいぶるとは思えないが、なにも聞かなかったのだろうか。  気になったものの、ゲンコは言った。 「上位存在とか、実在するUMA。本物の怪奇現象……また謎多き侵略者。アウタースペースゴッズってよぶんですけど」 「外宇宙の神々?」  尚吉は言った。ゲンコはあまり気がすすまない目で答えた。 「はやく言えば怪物と同じところからきたものです。あきらかな異常のかたちをした怪物とちがって、人間の姿をしています。不定形な肉のある姿ではない、名前と定まった姿のあるものたち。基本的に怪物よりも上位の存在であり、怪物以上の怪物、とか」  ゲンコはほおづえをつき、考えこむようすをした。ややうわの空に言う。 「彼ら自体は、人間と敵対している、ということはありません。ですが、個体差がつよくてひとくくりにできず、基本的に非常に自分勝手。行動理由も人間にはわからないことが多いと厄介なヒトたちです」 「怪物って……」  尚吉が言うと、ゲンコはわからなげな目をした。 「要するに、人間や物理法則には理解できない現象をおこします。超能力や魔術、魔法と言われるような代物ですね」 「……」 「じかに目にしないとぴんとこないものです。うちのところでも、彼らの実在すら信じていない人間が多いくらいです。ただ、過去にはそんな力をもちいて大規模な破壊や殺戮行為におよんだものも数体いるんだとか」 (まあ、それが本当なら私は目撃したことになるんだろうな)  それも、ゲルトヒーデルやヨハネといった人間の認識が本当であればということになる。ゲンコは思った。  そう思うこと自体を妄想と判断するのもできなくはなかった。自分の疑念に都合のいい目をいれるのは、おしなべ、妄想である。 (あれを見て信じられないと思うのはいい。怪物を見たって超常現象をうけいれられないって目で生きるのが、しっかりした人間でしょ?)  コーヒーの真っ黒に感じる水面をみる。ついで横目で、店の外をみやる。  ゲンコは無言でコーヒーのカップをおいた。 (世界の真実とか私たちは、というか私たちだって本当はみじんも信じていないわけだし) 「ほかにも長寿で、見た目がかわらないとか。数十年とか百年前におなじ姿で確認されてるとか……そのあたりは真偽不明な話になるわけですが、重要なのは危険かどうかで。そこでいえば、危険です。ですが今回にかぎってはどうかと思います。私の考えでなく、もっと経験や知識のある信頼性のたかい人たちの意見です」 「君の考えだと?」 「まあ、尚吉さんに接触した時点で目的があるならその場で果たしているでしょうから。彼らにはそんな力があるわけですから」 「それもそう……なのか」  尚吉はそこそこ納得したようだった。話をひととおり終えてから、外に出る。  店のそばに先日通りかかった橋がちかい。  川があり、歩道がありごみごみとした印象の橋だった。車が通り、排気ガスの匂いまで感じられそうである。  ゲンコはひょいと水面をみおろした。おもむきはうすく、魚よりカエルや川の虫がいそうである。 (日本てのはもうちょっと景色が美しいって)  川といえば、ゲンコには思いだすこともある。いろいろだが。  たとえば長い入院生活を送った病院に、すぐ近くに川があった。これは地方都市めいた場所でせま苦しい用水路だった。  最後にうつされた病院は田舎で景色のうつくしいところである。ただ、そのころは窓の外もろくに見ていない。身体によくない、とされていたし窓のないところにいるのも多かった。   カーディフに住んでいたころ、よく見晴らしのいいところに連れていかれた。  それなりに鮮烈におぼえていることもあるが、どちらかといえばいまは、住んでいたアパートを思いだしていた。  ちょうどすぐちかくにちいさい橋がかかっていたのだ。 (それと似てるな)  母と自分は、それなり良好であったはずである。ただし自分の歳がよくなかったのかもしれない。  ホームシックじみた感想がうかぶ。まあ、家とはいっても一番長くいたのは二番目くらいに入院(はい)っていた病院であろう。  母と暮らしていたあのカーディフの部屋は借り物である。してみると、自分にとっての家というのはいま現在暮らしている、ロンドンの部屋であろう。 (グレイス、食べてるかな?)  ルームシェアしている女子の顔を頭にえがきつつ、ゲンコは口をひらいた。 「まあ、接触してきた男については、目的や理由を考えるだけ徒労ですから。すでに述べたとおりに、危害をくわえるつもりならくわえていますので」 (問題はだれにもそれを止める手段がないってだけで)  ゲンコはちらりと意地のわるいことを思った。  それと関連があるだろうことは思う。つまり、はじめて会ったときに怪物が出現したことと、ゲンコの周辺にねらって怪物があらわれるようになっていることと。 (だからってとれる対策がかぎられている以上、言えることってないじゃん) 「騒動が起こっているのは、私の周辺なのか」  尚吉は言った。ゲンコは即座に否定した。 「違います」 「本当に?」 「私も組織も、尚吉さんに都合の悪いことは告げないことはありますが嘘は言いません。私も言いませんので」  ゲンコは、真剣な様子もなく、否定したさいにちらりと尚吉を見ただけだった。 「ウゥン」  尚吉はへんなうなり声をもらした。  とはいえ、声に反して顔はそれほどまいっていないようにも見える。 (そういうタイプ。でも、これだけわけのわからないことがつづいたら頭もおかしくなるよな)  逆に冷静になるということもある。  そもそも、人はそういううさんくさいことには目をむけるべきではない。  本当に得体のしれない怪物や、理解不能な現象にたちあったとき、人は恐怖をおぼえる。または狂気におかされる。などとはいうが、実際は意外となにもせず静かに隣に留め置くという反応におちつくものだ。  それが受け入れる度量なのか怠惰な行いなのかは知らないが。または静かに離れる。  とまれ、害ある対象は怖いものだ。それに、実のとこ、害しかねないおそろしい力のあるものを前にあきらめるだけかもしれない。  その複合だよ。わかるだろ。 (昔、だれだかがおんなじこと言ってたな)  ゲンコはぼやいた。  その日はそれだけで、あとは尚吉とは離れた。駅にむかって歩き、バスに乗る、ようにみせて街中でタクシーを拾う。  外出や学校に通うのは制限されなかったが、移動は人の多い交通手段はさけるように通達されている。  ひろったタクシーというのも、グリニザの人間が運転している。最初、尚吉と行った喫茶のようにこの街での活動に際するもののひとつである。 (だからさ。準備されてたっていうんならさ……)  ふと思う。尚吉にかかわることで、浮かんでくる妄想。  妄想、とは、つまるところ、自分をふくむだれにとってもよくない考え。  毒物にしかならない考えているふり。  正論を阻害する感情の話。 (ここで設定されていたことにも意味はあるんじゃないかってね。たとえば、あの学校とか。尚吉さんてひととかかわりのある……彼の祖母の……)  タクシーのなかでうつらうつらしたようだった。  その日の夜になった。  日課のようになった怪物の処理を終えて、尚吉の実家のそばにしずかに戻ってくる。  そこに来客がいた。 (……)  ゲンコは確認すると、胸のうちで沈黙した。  べつに意外な人物であるわけもない。  背がたかく髪の長い女である。ゲンコよりは年上で、青みがかった黒髪に茶色の眼。  ヨハンナ・ナタリア。あるいはサリア・ブレード。本名はゲンコには知らせていない。 「こんにちは」 「……」  ヨハンナ、ナタリア、なんでもいいが、女はだまったままつったっている。ゲンコがあいさつすると、不機嫌そうな気配をだした。 「……」 (挨拶は大事でしょ)  ゲンコは無言で、女がさしだしている紙をうけとった。メッセージと番号が書いてある。  女はそれで去ろうとしたが、ゲンコは身ぶりでひきとめた。暗闇で、ろくに手もとも見えないが、察して立ちどまっている。  ゲンコは玄関をカギで開けた。目で女に合図して、どうぞ、と手でしめす。  女は、だまって中に入った。ゲンコは、無言で引き戸を閉めた。  部屋に入れて、ゲンコはブレザーの上を脱いだ。くつ下もぬぎたいが、さすがに来客中である。  女は言った。 「なにか用?」 「そんなには」 「帰るわ。オジャマサマ」 「へんな日本語おぼえてるな」  ゲンコは立って、部屋のドアを開けた。言う。 「飲み物もってくるから、ゆっくりしててくださいよ」 「はあ」  女はこれみよがしに言った。いやな感じだ。しかし、おたがいさまではあるので、ゲンコは気にせず冷蔵庫のほうへ行った。  本当に飲み物を用意する。 「本当にもってきたのか」  女は言った。ゲンコは頓着しないで、淡白に言った。 「ひさしぶりなんですから、それくらいやりそうだけど。言っていいのかわかりませんが、あなたと私の仲じゃないですか」  女はだまって、だされたグラスを飲んでいる。この家の来歴らしく、やや年季のいったようなデザインだった。  ゲンコも飲んだ。中身はただのグレープジュースだ。のどはかわいていたため、水分補給する。 「あなたがなにかとここで協力するというのも、まだ理由とか聞いてなかったし」 「……」  言う気はないらしい。さっさとジュースを飲みほして、適当なところをみている。 (あいかわらずだんまりか)  ゲンコは思った。  この名前もさだまらない女はゲンコをうとんでいるか、かかわりあいになりたくないと思っているように感じられる。  とはいえ、もろなお町に強引に来たかたちのゲンコに便宜や情報をわたしてきたのは、彼女である。  もちろん、自分の仕事にはいっさい抵触しない範囲でのことだ。それでもほしい話があれば探ってまとめる手間まで割いてくる。 「聞いてどうするって?」  女は不機嫌そうに聞く。  ゲンコは答えた。 「気になるってのが理由ですが、そもそも言わない理由が見当つかないから気持ちわるいとこあって」 「あなたの考えが足りないんでしょう」 「よく言われます」  酒でももってくるべきか、とゲンコは思った。飲んだことはないが。 「私が思っていることを言えば、タエコ・イソーテにかかわることなのかと想像しています。でも、ちがうのですか? ヨハンナ」 「だから、わからないなら勝手に想像していればいいでしょう。知らない。聞かないで?」 「手のつけようがない義従姉(いとこ)よね」  ふん、と女は鼻で息をした。笑ったというほどではない。虫の音が回遊するのが聞こえる。夜は静まりかえっている。 「勝手にそれもよべばいいけどね。義理のとはいえ、あなたは肉親ではあるもの。少なくとも私はそう思っているし、考えも変わらない」 (血のつながりがないなら肉親ではないけど) 「それはとてもうれしいですよ。私はあなたの名前も知りませんが」 「そうだったわね」  言うが、心底どうでもいいというようすでいる。ゲンコはため息を内心でこぼした。 (まあいいか) 「私はあなたに感謝しているのだけれど」 「私はあなたと仲良くする気はないしね……困るわ。それじゃ、ごちそうさま。こういうことはしないでね」  ゲンコは女が帰るのに、ともあれ立ちあがって見送りに出た。  女はとくに何もいわず、靴をはいた。  それを見やって、ゲンコは立ちあがる女に言った。 「それじゃ。話せてよかったです。上がってくれてありがとう」 「あなたはいつまでこんなことを?」  女は言う。  引き戸をあけて、夜気に半分体をさらしている。夜に照らされると、彼女の容姿は神秘的な色をおびるようである。  ゲンコは答えようとして、べつなことを言った。 「あの奥面という人にひっついているのは、あなたたちの仕事なんですか?」  聞く。  ヒナダ。雛田荘子(ヒナダ・そうこ)、というらしいが、奥面という不良男のそばにいる女生徒の名前である。  当然偽名で、ヨハンナ・ナタリアという女のいわば変装みたいなものだった。性格も内気でおとなしいのが過ぎたかんじにはなっている。  ゲンコは最初みたときから気づいている。  ヨハンナの活動を指摘するのも、接触するのもやる話ではなかったというだけだ。  そして、ヨハンナという連中はそんなこと折り込みずみで事を配置している。 (んなこと聞くなってかんじよね) 「なんでもかんでも、教えろ教えろってあなたはそればっかりね。それだけのお人好しってね」 「私たちはお人好しですよ。あるかどうかもわからないものを信じてそれを防ぐことをみんなやっている」 「そのくらいだれでもやる」 「あなたはお人好しになれませんか、ヨハンナ。ナタリアとよべば? それともほかの名前が?」  ナタリアは聞かないふうで、闇にとけるようにどこかへ行く。  言いすぎたようだ。 (親愛なるナニガシどの、か)  ゲンコは音もなく引き戸を閉めた。義理のいとこのことを考える。

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