逸漣 / 第1話

明日もあそぼうね

 ずっと雨音が聞こえる。耳の奥でザアザアと。  今朝はこんなに晴れているのに、一段と強く雨音が聞こえる。 「……よう、顔色…………」  お母さんがなんか言ってるけど、適当な返事をして、ベーコンエッグとトーストを食べる。雨音がうるさいとあまり味を感じないみたい。冷たいカフェオレで流し込むが、これも味がしない。今日はおかしいな。  学校へ行こうと坂道を登り終えるとスカッとした青空が広がり……目の前が青色になったなあと、思った途端に道がわからなくなった。  立ち尽くしている今も雨音が強くなっていく。あれ、私どうしたのかな…… 「……はよう!ど……たの?」  助かった、友達だ。体調が悪いみたいと伝えて、学校まで連れて行ってもらった。  ランドセルがやけに重い。汗が滝のように流れる。   授業中もザアザアとうるさくて、ほとんど授業の内容はわからなかった。黒板を書き写すのが精一杯。  ……あれ、私……左利き……?  驚いて鉛筆を落としてしまった。  視界が……あれ?鉛筆が歪んで見える……。  前の席の友達が振り返り、私に話しかけてきた。 「…………いじょうぶ?」  雨音が強くて、語尾しか聞こえない。 「うん、耳鳴りが……最近ひどくて……」 「……病院……方がいい……ない?」  途切れ途切れになる声。友達の口の動きを見て、なんとなく意味を理解する事が出来た。  唇ばかり見ていて、今、誰と話しているのかわからなくなる。  どんどんと雨音が強くなっていき、頭が割れそうに痛い。限界…… 「先生…………が、…………倒れ……!」  私は自分の席で突っ伏していたら、先生が駆け寄り、床に寝かせてくれてた。  少しは楽になったが、雨音は強まるばかりで気が遠くなっていく。  お母さんが迎えに来てくれて、学校を早退する事になった。   お母さんの運転する車でそのまま耳鼻科へ連れて行ってもらった。  意識が朦朧とする中、いろんな検査をして貰う。異変は見つからず、レントゲンにも何も写らない。 「…………脳かも……知れませ……」  白衣のお爺さん先生は、神妙な顔をして大きな病院への紹介状を書いてくれている。その表情が私を恐れさせた。 「怖い病気なの……?」 「この…………院には脳外科の……先生がい……ら、心配しなさ……」  お爺さん先生は微笑むが、私もお母さんも顔が引き攣っている。   先生が言うには、物忘れも激しくて、迷子になるのも……下垂体っていうのが関係してるみたい。  病院から帰る道すがら、車の中で 「最近……変わった……はない……?」 と、お母さんに聞かれる。  今日ほど耳鳴りの強い日は初めてだけれど、いつから耳鳴りが始まったのか……私は一生懸命に思い出す。 ――そうだ、夏休みにお母さんの実家に帰ってから――  その頃から、雨音がシトシトと聞こえるようになったことに気づく。  お母さんの実家は山奥で、大人達は昼から酒を飲むのが恒例行事。子供同士で遊べるから、ここに来るのは好きなんだけど、今年は遊んでくれる従姉妹のお姉ちゃん達は受験らしくて帰ってこなかった。  だから仕方なく、私は一人で川へ遊びに行った。  そこに地元の女の子がいた。名前はサヨちゃん。私の一つ上の十一歳。  私とサヨちゃんは、毎日一緒に遊んだ。 綺麗な形の石を川に投げたり、服のまま泳いだり、葉っぱを流して走って追いかけたりした。 「……サヨ…ちゃ……」 「サヨ………ん……?サヨ…………知って……?」  日曜日に帰る事になって、サヨちゃんにバイバイって手を振ったら、泣き出してちょっと困ったよ。 『毎日………土曜日は……台風が来……ない?』  お母さんの表情が曇る。  でも、確かサヨちゃんが「明日も待ってるね」って……  あれ?そうか、サヨちゃんと約束したから、私はお母さんの目を盗んで川に行ったんだった。  そうだ!嵐の中、私は走ってサヨちゃんに会いに行ったんだ――  思い出したその時、雨音が止んだ。  クリアになったのは耳だけじゃない、視界も、頭の痛みも消えていた。    そう、私はいつもの川まで走って、サヨちゃんを探したの。水かさの増した川は水が暴れてるように激しく流れ、その真ん中の大きな岩にサヨちゃんが心細そうに震えて座っていた。 「サヨちゃん!」 「ユミちゃん……..!」  私は、サヨちゃんを助けに川に入る。しかし五歩も歩くともう深さは急に深くなり腰の高さまできた。もう一歩も動けない。  岩からサヨちゃんは飛び降り、私を助けに来てくれた。 「サヨちゃん!」  私はサヨちゃんに抱きつき、助かった……と一瞬微笑むと、サヨちゃんの目が微かに光った様に見えた。 「約束を守ってくれてありがとう。ずっと待ってたよ……」  サヨちゃんの目の光は、ズルリと私の目から身体に入り込み、サヨちゃんの身体は流されて行った。  私の身体は岸へどうにか戻れた………… ……あれ?記憶が……    日曜日、家族と一緒に家へと帰った。  初めはまだユミの意識が強く、この身体に馴染むまで時間がかかった。目から脳へ行くのに半月くらいかかってしまった。でもその間にユミの記憶を知る事ができた。 ……あれ、もしかして……サヨちゃん、この体にいるんじゃない? 「やめて、ユミ!」  お母さんが急ブレーキを踏み、身体が前へ弾かれる。  頭をフロントボードに頭をぶつけて痛がる私の顔を、お母さんは怖い顔で凝視する。私の頬を両手で支えて見つめる。 「ユミ……大丈夫?ユミ……」   しかし、お母さんはとても怯えていて……私がお母さんの手を握ると振り払おうとした。 「もしかして、お母さんも……サヨちゃんと明日も遊ぼうと約束してたんじゃない?」  お母さんはごめんなさい、ごめんなさいと泣き叫び、車のドアに張り付くほど身体が飛び退いた。 「あの日も嵐で、家に居なきゃダメって家に戻されて、まさかサヨちゃんは……約束通り、川へ行くとは思わなかったのよ!」  私の口が勝手に動く。やめて、怖い……! 「だから、ヨリコちゃんの約束を……ユミちゃんに果たして貰ったの」 お母さんは顔を手で覆い、激しく泣き叫んだ。 「ごめんなさい!ごめんなさい!サヨちゃん、ユミを返してぇ!」  私の口は勝手に大笑いをしている。手も大きく動かして喜んでいる。  シートベルトを外して、私はお母さんを抱きしめようと這っていく。 「キャハ!明日もあそぼうね、ヨリコちゃん」  サヨちゃんに奪われた私の身体。私の記憶。私の意識はいつまであるのだろうか。 お母さん、助けて。お母さん!  口は動かず、声も全く出ない。一筋の涙をこぼしたのが、最後に私ができる事だった。  私の身体はお母さんの胸に沈み込む。お母さんは両手を上げて、私に抱きしめられるのを拒む事も、受け入れる事も出来ず、涙を流しながら、喉の奥からヒューヒューと枯れた音を絞り出すのみだった。  私の身体はうっとりとした目で、お母さんを見上げた。 「ありがとう、約束を守ってくれて」  それが私が聞いた最後の音だった。

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