曇りの夜空 / 第1話

吾輩は犯人である

 吾輩は犯人である。名前はまだない。  最初にそう断言しておく。懺悔でも告白でもない。ただ君に、正しい地図を渡しておきたいだけだ。地図のない迷路を歩かせるのは、吾輩の趣味ではない。いや、吾輩の趣味というよりそういうシステムというか……まぁそれはいい。  被害者の名前は桐嶋透という。32歳、独身で吾輩の元同僚である。  彼は2年間、横領を行った吾輩から金を取り続けた。その額はなんと月3万。払えないと懇願した月はあら不思議、5万を払う羽目になったりもしたものだ。  人間の弱みに値段をつけ、生かさず殺さず搾り取る才能というのは、本当に稀有なものだと思う。無論、褒められたものではないし、それが良い方向に向かう才能だとは思えない。  事実彼は一つ、根本的な計算を誤っていたと言わざるを得ないだろう。追い詰められた人間がどう豹変するかを最後まで見誤っていたのだ。  人は幾千もの経験や時を経ずとも、瞬く間に進化することが出来る。特に、世間が悪と断じる進化ならば。それを知らない人間は悪事に手を出す才能はない。  10月13日の夜、桐嶋透は自室の窓から落ちた。死亡推定時刻は午後9時から10時の間。なかなかに凄惨な死体だったらしいが、落下前に頸部を圧迫された痕があったことを警察は突き止めた。絞められてから落とされたと考えるのが通常の思考だし、実際そうであった。  さて、吾輩はやけになっているわけではない。美しい才能と論理をもって警察という巨大な探偵の目をかいくぐった先人たちと同じ道を歩もうとしているのだ。  吾輩のアリバイはこうだ。午後7時から11時まで、同僚4人と居酒屋にいた。レシートがあるし、居酒屋に仕掛けられた防犯カメラがある。そして何より、仲良くも仲悪くもない平々凡々な4人の記憶がある。  桐嶋のマンションまで電車と徒歩で36分。往復72分。タクシーを使っても合計時間はあまり変わらず。もちろん交通情報によって多少の差は出るが、それでも微々たる差に過ぎない。つまり、どう計算しても吾輩の犯行は不可能だ。 ________________________________________  探偵と名乗る男に初めて会った時、吾輩はこの人物を3秒で値踏みした。吾輩の元に来る直前まで不倫の尾行でもしていたのか、酷く眠そうな目をしていた。  ただその目は部屋に入った瞬間に窓の位置、吾輩の右手、テーブルの上の郵便物の宛名、この順番で確認していたのだ。吾輩はそれをしかと観察していた。しかし、この探偵は吾輩がそれを見ていることに気づいていたのである。あの口角はそういう反応をしていた。 「桐嶋さんの携帯の通話履歴を確認しました」  探偵はソファに座りながら言った。 「10月13日の午後6時17分。あなたへの発信が4分32秒ほど」 「知っています。吾輩が受けましたから。もっともそこまで正確には覚えてませんでしたけれど」  実際よくもまぁそんな細かいところまで覚えているものだと感心する。 「内容は」 「脅しです」 「ほう、随分簡単になかなかショッキングなことを言うんですね」  とてもショッキングと言った反応には見えないのは吾輩の目がおかしいのだろうか。 「調べれば吾輩が彼から脅しを受けていたことはすぐ分かるので」  探偵は手帳に何かを書く。吾輩は書かれた内容を一瞬思考するが、問題のある内容ではないと判断した。仮に吾輩の不幸をもたらすものだとしても、今の吾輩に出来ることは無い。 「桐嶋さんが死んだと知った時、何を感じましたか」  頬を綻ばせた。 「凪を感じました」 「凪」 「嵐の後は静かでしょう。とても心地の良い凪でしたよ」  探偵は繰り返すのをやめた。二の句が考えつかないほど語彙力が焼失したわけではない。この人間は吾輩と楽しい談笑をするより優先することを考えているのだろう。  2度目に探偵が来た夜、開口一番にこう言った。 「最初にお会いした時のことを、少し確認させてください」  吾輩はソファを勧めた。探偵は座った。 「桐嶋さんが亡くなったのは10月13日です。警察がご自宅に伺ったのは翌14日の朝。その時あなたは、聞かれる前に『7時から11時まで居酒屋にいた』と仰った」 「ええ」 「店名も、同僚の名前も、レシートの保管場所も立て板に水といった様子でスラスラと出てきたようですね」 「記憶力は良い方なので」 「なるほど、それは素晴らしい。ところで桐嶋さんの死亡推定時刻をその時点でご存知でしたか」  吾輩は少し考えるふりをした。考えるふりをする必要はなかったが、した。そうしたほうが良いのではと犯罪者の勘が働いたのだ。 「ニュースで見ました。夜に死亡とだけ言ってましたっけかね」 「なるほど、素晴らしい記憶力だ。  しかしそれだけの情報で、7時から11時というアリバイが有効だと、どうして分かったのですか」  静かな部屋だった。外で車が一台通り過ぎた。 「桐嶋さんと最後に連絡を取ったのが6時17分です。それ以降のアリバイを示せばいいと思いましたし、そもそも漠然とアリバイを聞かれたので確かにアリバイがある時間を答えただけの話です」 「ほう」  探偵は夏休み最終日の子供のような手つきで手帳に何かを書いた。 「では、電車で36分という数字は。貴方からハッキリと警察に伝えたようですが」 「以前、桐嶋のマンションに呼ばれたことがあります。だから覚えていたんですよ」 「何度ですか」 「2、3度でしょうか」 「ほほう、そんな僅かな頻度で36分と、即座に出てきたんですか」 「よく覚えているものだと、自分でも思います。でも、脅されている身からすれば色んな事に過敏になり、時間も覚えてしまうものなんですよ。マップアプリで出た数字を覚えていてそれを言っただけかもしれませんがね」  探偵は手帳から目を上げた。 「普通の人間は自分のアリバイをこれほど即座に提示できません。あの日どこにいたか、と聞かれると、記憶を辿るものです。あら、確か……といった風にね。あなたは辿らなかった。7時から11時、電車で36分、往復72分——数字が噴火した火山のように出てきた」  吾輩は何も言わなかった。前傾姿勢となりながらゆっくりと次の言葉を待つ。 「準備していた人間の答え方です」 「その間違った意味で、穿った推論は証拠になりますか」 「なりません」 「ですよね」 「しかし、私が知りたいのは証拠ではありません。あなたが準備をしていたかどうかです。その答えは、もう出てきましたがね」 「答えとは?」 「もうお分かりになっているでしょう。  ああ、そうそう。先ほどチラリと見たのですが良い車をお持ちのようですね、高級感のある黒がたまりませんよ」 「……お褒めいただきありがとうございます」  吾輩はコーヒーを飲んだ。冷めていたようだ。いつ冷めたか、気づかなかった。あまり美味しくはない。  3度目は吾輩から呼んだ。  喫茶店で向かいに座り、探偵が口を開く前に吾輩は言った。 「答えを教えましょうか」  探偵は何も言わなかった。促しも、制しもしない。ただただ吾輩のことを疑念に満ちた目で見ている。何を言っても信じてやるものかと訴えているかのようだ。 「吾輩が準備をしていたのは事実です。ただし準備とは、アリバイのことではない。警察に伝えた会話のことです」 「会話ですか」 「彼の死を知った時、遅かれ早かれ警察が事情を聴きに来るのは分かっていました。今時子供でも警察が被疑者に何を聞くかなんて分かりますよ。  だから吾輩は即座に答えられた。数字が水のように出てきたのは、何度も反芻していたから。ただそれだけのことなんです」  探偵はしばらく吾輩を見ていた。 「それは犯人としての準備ですか。それとも、疑われることを恐れた無実の人間の準備ですか」  吾輩は少し笑った。この探偵が、この問いを取っておいていたことは分かっていた。 「証明できますか、どちらだと」 「できませんね」 「それでは、何故以前私が貴方に尋ねた時に今の答えを言わなかったのですか?」 「単に貴方にあまりにも疑われていたので却って言い出せなかっただけですよ。ただ、先日キチンと言わない方がやはり疑いが濃くなるのではと思い直したのです」 「なるほどなるほど」  静かな膠着が小さなテーブル越しに交差する。 「一つだけ聞いていいですか」 「どうぞ」 「後悔していますか」  窓の外を見ると、雨が来ていた。ゲリラ豪雨だろうか、かなりの勢いの雨がしとどに降り注ぐ。通りの人間たちが一斉に傘を開く。持っていないものは鞄を傘代わりにしたりして、そそくさと屋根のある方へと向かって行った。  濡れたくないから傘を開く、屋根の下へ向かう。当然のことだ。ただ吾輩にはいつもその当然が少し遠く見える。なぜ濡れてはいけないのか。風邪を引くからか? 服が濡れるのが嫌だからか? 雨を楽しむ余裕もないのだろうか。 「後悔があるといったらそれは証拠になるんじゃないですか」  探偵は何も言わず、コーヒーを喉に通す。そうしていると、雨が止んでいた。 「なりませんよ。今のところは……ね」  この探偵は、そのうち気づくだろう。否、もう気づいているのかもしれない。居酒屋の近くで殺した桐嶋を冷やした車の中に保管していたことを。奴のマンションに入って、その物体を叩き落としたことを。 「そいつは怖いですね」  聡い男だ、しかしそれ以上に愚かな男である。  人間を殺した男が追い詰められた時、次に何をするのか想像もつかないとは。とっくの昔に豹変は終わっている。あとは被っていたものをいつ取り去り爪を露わにするか、それだけの話なのだ。  雨に濡れた猫が吾輩たちをつまらなそうに見つめていた。 「ニャー」  彼は既に見抜いているようだ、吾輩が何者なのかを。間違っても自分たちの同類などではないということを。  さて。  ここまで読んでくれた君に、一つだけ聞かなければならないことがある。  吾輩はずっと「吾輩」と名乗り続けた。探偵も最後まで名前を呼ばなかった。証明できないものに名前を与えない——誠実で几帳面な人物だと思う。  そうそう、忘れていた。  このゲームの主人公の名前――吾輩の名を、君はまだ教えてくれていなかった。  教えてくれないか。これからもう1人、この世界から人を消し去る者の名を。  吾輩はずっと、ここで待っている。    吾輩は犯人である。名前はもうすぐ分かる。  否、君はもう知っているのだった。すまない。

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