アカトキ / 第8話

捌話目:枇杷(びわ)

渡会…うっかりしがち。 和尚…山寺の主。 タマ…山寺に居着く猫。 薬売り…偉丈夫。とても大きい。 江ノ本…渡会の亡友。最近不在気味。 枇杷(びわ)…バラ科の常緑高木。及びその果実。語源は実の形が楽器の琵琶に似ている為。初夏の頃に実が熟し、その味は甘く少し酸味があります。葉は枇杷葉と呼ばれる生薬の一つであり、様々な効能があるとされております。
 《《水無月| みなづき》》初週。此処最近雨が降り続いており、空気も《《相俟| あいま》》ってじめりとした気分になる。梅雨入りしたのやもしれぬ。  気分が落ち込んでいる理由は、まだジローが帰って来ないのもあった。《《彼是| かれこれ》》もう十日以上経っている。  定期的におかみさんがやって来ては、彼の不在に落ち込んで帰って行くので私も釣られて沈むのである。  …此れがまぁ。百歩譲って私に愛想を尽かし、河童の許に残る心積もりであるのなら良い。いや寂しいので良くは無いのだが。良いとする。  しかし、道中で怪我でもして動けなくなっているのならいけない。  せめて便りでも来れば諦めがつくのだが、郷里に文の一枚も寄越していない私が言える立場では無い。河童や犬に文字が書けるかはさて置いて。 「うーん…」  こんな《《益体| やくたい》》も無い事を考えている辺り、私も限界が近いのやもしれぬ。  宜しくない事を考えている上にずっとじめついているので、此れはもう誰かに不安を吐き出すべきなのだろう。座敷に移動して掛け軸をちらりと見る。絵の中の景色は常と変わらぬ儘である。  江ノ本も此処最近来ていない。予想だにしない時に来る割に、こっちが居て欲しい時には来ない。猫の如き男だ。  悩みに悩んだ末、雨が止んだ隙を見計らって和尚に相談に行った。何だかんだ彼は坊主なので、悩みやらの相談に乗る事は多いらしい。  愚痴の一つだけでも零させて呉れるだろうか。  雨上がりの《《泥濘| ぬかる》》んだ道を進む。空気はひやりとしていて、《《小袖| こそで》》と《《袴| はかま》》だけでは肌寒い。一枚羽織っておくべきだったか。  山寺の石段を登りきると、丁度外に出ていた和尚と遭遇した。  何故か寺に棲み付いている三毛猫のタマが、肩の上に不服そうに乗っている。爪を立てていない辺り、嫌がってはいないらしい。 「オウ、渡会さんじゃないか」 「和尚殿、《《今日| こんにち》》は」  タマが此方を見て一言にゃあと鳴いた。挨拶なのだろうか。 「今日は独りなのか」  そう訊かれ、私は頷く。寂しさが顔に出ていたのか、和尚の表情が心配そうになる。 「何だ。もしやジローは、あれから帰って来ていないのか?」 「実はそうなんです…」  つい、溜息が出る。同情の視線を送られ、何だか安心してしまった。同情されても良いのか、此の状況は。 「まァ、河童も義理堅い奴だからなぁ。盛大な《《饗応| きょうおう》》に預かっておるのかもしれん」 「そうであるなら良いのですが、宜しくない方向に考えてしまいまして…」  心配性が過ぎるのかもしれないと肩を落としていると、タマが和尚の肩から飛び乗って来た。 「わ」  存外に其の身は軽く、猫は器用に私の肩の上で収まりやすい位置を見つけると顔を擦り付ける。にぃ、と鳴かれてふわふわとした感触を側頭部に感じ、慰められている事に気付いた。普段は人間なんて何処吹く風と言う体なのだが…もしや、此間のお礼なのだろうか。  ごろごろと喉の鳴る音が聞こえ、何とはなしに心が落ち着く。雷の鳴る音と似ているのに、妙に癒される。  暫くそうして貰っていたが、やがてタマは和尚の肩へと再び戻って行った。危なげなく着地した猫を気にする事も無く、和尚は此方を見て首を傾げる。 「フム、此れから散歩の予定だったが…如何だ、気晴らしについて来るか?」 「散歩ですか」 「此奴が外に出たいとごねていてな。しかし、下は泥濘んでいるだろう。泥に塗れた足で庫裏を歩き回られても困るから、仕方が無しに肩に乗せてやっている」  成程、肩に乗っていたのは其の為か。少々不満気なのは自分で歩きたいからなのだろう。  折角なので共に歩きたくはあったが、其れは和尚とタマの二人きりの時間を、邪魔して仕舞う事になりそうでもある。  魅力的な申し出だったが断った。すると和尚はちと待っておれ、と庫裏へと戻って行く。  戻って来た彼は、掌に収まる程の大きさの実を三つ持って来た。黄橙色の果実に覚えがある。 「其れは、《《枇杷| びわ》》ですか?」 「そうだ。うちで採れたものだ、折角だし持って行け」  枇杷は此の時期に食べ頃になる果実である。可食部は少ないものの、甘い芳香と果肉は私の好ましい味であった。  受け取って懐に入れる。実は割かし固いので簡単に潰れはすまい。 「有難うございます、お陰で少しばかり気が晴れました」 「はは。其れなら重畳よ。またおいで」  礼を述べて山寺を後にする。仲が良さそうで安心した。  雨は止んでいるが、晴れる事も無く少しばかり霧が出ている。風が吹いて、冷やかさに肌が粟立った。矢張り上着が欲しい。  扨、如何しようか。此の儘一人でぶらぶらするのも悪くはない。どうせ家に戻っても寂しさを感じるだけなのだ。  偶には行った事の無い方向へ足を伸ばすかと考えていたら、覚えのない《《小径| こみち》》が視界に入った。 「…おや?」  はて、と思う。馴染みの道の筈なのだが、此処にこんな小径など在っただろうか。  しかし、神社にでも続いていそうな雰囲気がある。私の中の好奇心が、むくりと顔を上げた。  水滴の残る葉を避け《《乍| なが》》ら、小径へと歩を進める。袖が少し濡れたが、気にしない。何れは乾くだろう。  茂みを避けつつ進んでいると、霧が深くなった。先が視えなくなり、思わず立ち止まる。  俄かに不安に襲われたが――…霧は直ぐに元の濃さに戻った。  ほっと息を吐く。何とも言えない焦燥が一瞬湧いたが、進んでしまった以上引き返すのも気が引ける。  やがて、小さな社に行き着いた。誰かが世話はしているのだろうが、何とも古めかしい。所々傷んでいる。  祠を覗くと、《《蜷局| とぐろ》》を巻いた白い像が鎮座していた。恐らくは、蛇だろう。《《御神酒| おみき》》らしきものも供えてある。  此の辺りを守る土地神なのだろうか。神仏関連の書は幾つか読みはしたが、誰に当て嵌まるかはさっぱりだった。  辿り着いたのも何かの縁なので、参拝しておく。何処かの神かは不明だが、祀っている以上此の御方の住まいである。勝手に踏み入った以上礼節を欠きたくはない。 ―パン、パン    柏手の音が辺りに《《谺| こだま》》する。  何か供えれないかとも思ったが、《《生憎| あいにく》》花も銭も持ち合わせていない。懐に枇杷は在ったので、一つだけ供えた。此れで良いだろうか。  邪魔をして仕舞ったなぁと戻ろうとしたら、不意に何処かの茂みががさがさと鳴った。思わず飛び上がる。  小鳥でも無い限り、如何足掻いても私に勝ち目はない。自慢では無いが貧弱なのだ。例え小鹿だったとしても、突進されたら負けるだろう。  天敵に遭遇した《《狸| たぬき》》の様に固まっていると、其処から出て来たのは巌の如き偉丈夫だった。  鬼か何かかと錯覚してしまったが、よくよく見ればちゃんとした人間である。しかも、顔に覚えが有った。  其の人も私の顔を見て《《怪訝| けげん》》な顔をした後、拍子抜けした様な表情になる。 「おやァ。もしや…此間の、独り暮らしの若旦那さんで?」 「き、君は…薬売りか。嗚呼、脅かさないでくれ」  知り合いだったので、ほっと胸を撫で下ろした。薬売りは困惑した儘近付いて来て、目の前で立ち止まる。  そして《《繁々| しげしげ》》と《《猜疑| さいぎ》》の視線を向けられ、思わず狼狽えた。 「イヤイヤ、本当に? 一体全体、こんな《《僻地| へきち》》で何をしておいでで」 「僻地…? いや、ただ近所を散歩していただけだが」  そう返すとぎょっとした顔になった。此処で私も奇怪しな事に気付く。見慣れた道を歩いていた時よりも、気温が低い気がする。何より、こんな草深い土地だったろうか。みるみる血の気が引いてくる。気絶しそうになったが持ち堪えた。 「ま、待ってくれ。此処は、私の家の近所じゃない…の、か?」  真っ青になった私を落ち着かせる為か、そっと両肩に手を乗せられる。 「其の…此処は《《加賀| かが》》に程近い、山中ですわ。旦那ァ、引っ越しとかはしてません、よね?」 「か…加賀?! し、してないぞ。引っ越しはしていない!」  加賀なんて近所どころなものか。遥か遠方である。とてもじゃないが、徒歩でちょいと歩いて行ける距離すら無い。 「嗚呼、ウーン、困りましたね。旦那、旦那気をしっかり」 「う、うう、うん。だ、大丈夫だ、大丈夫、大丈夫…」  実際は大丈夫ですら無かったが、心を落ち着かせる為にそう唱える。此れが一人だったら、駄目だったかもしれない。《《蹲| うずくま》》って、動けなくなっていただろう。  何でこうなったかを考えたかったが、如何にも思考が纏まらない。視線が当て所なく泳ぎ続ける。  そんな私を見てか、薬売りは近くの切り株に私を座らせた。  しゃがんで目線を合わせ、両手を握られる。固くてごつごつとした、温かな生者の感触。其れで漸く、気持ちが一旦落ち着いた。 「す、済まない。嗚呼、如何してこうなったんだ…」 「取り敢えず、此の御社に来るまでの事を訊かせて下せェ」  そッから原因を探りましょう、と言われ私は記憶を辿りながら経緯をぽつぽつと話す。 「あー…」  最後まで話を聞いていた薬売りは、何かに思い立ったのか片手を離して顔を覆った。続けて、深い溜息を吐く。 「な、何だ溜息なんか吐いて」 「イヤァ、ちょいと原因に思い至りましてね…」  何と、それは本当か。 「あっしの、同業の所為かもしれません…」 「同業…別の薬売りの所為、と言うことか?」  まァそうなんで、と困った様な顔をした。ぽりぽりと頬を掻いている。 「チョイと此の近辺で、集まりがありましてね。あっしだけ残って薬草を採集してたんで」 「そうなのか」  薬売り同士で、情報の交換でもしているのだろうか。 「そンでですね、あっしらは方々に散っているでしょう。なのでこう言った集まりの際に、特殊な抜け道を使う事があるんです。其処は普段開いていませんが、開くと誰でも通れるようになります」 「ほう。…む、つまり私は――偶然其の抜け道を見つけて入り込んで仕舞った、のか…?」 「そうみたいですねェ…。や、申し訳ねェ旦那」  そう言うと、手を付いて丁寧に土下座をされ私は慌てた。 「や、か、顔を上げてくれ薬売り。何故お前さんが謝るのだ」 「こりゃ身内の不始末みてェなものですわ。指導しているあっし等にも責が有りますんで…」  使った道は一旦閉じておけ、と口を酸っぱくして言ってたんですがねェ、と申し訳なさそうな顔をする。 「そりゃまぁ驚きはしたが…別にお前さんは悪くないだろうに。其れにその、なんだ。旅行に来たと思えば儲けものじゃないか」  実際は旅行どころではない状態だが、大きな背中を丸めている薬売りに思わず同情して仕舞う。 「旦那は人が善過ぎますねェ…。兎も角、其の《《恰好| かっこう》》じゃ寒いでしょうし、早い処元の場所まで帰りましょうか」 「た、助かる。加賀から徒歩で戻るのは厳しすぎるからなぁ…」  そりゃァそうですねぇ、と苦笑する薬売りと連れ立って歩き出した。元来た道を下る。しかし、足許が宜しくない。雨上がりの上に、山中である為か草や木の根に《《躓| つまづ》》きやすい。何なら此方は下駄である。山歩きに向いた履物ですらない。転ばぬ様に気を付けつつ、ゆっくり進む薬売りの大きな背中を追う。 「シキミ?」 「ヘイ、あっしはそう呼ばれております。旦那は渡会さんと言うのですか」 「あぁ、そうだ。下の名は啓次だ」  薬売りはシキミと名乗った。恐らく植物の《《樒| しきみ》》からだろう。  男性の名前としては不適当な気もするので、本名ではなく愛称なのやもしれぬ。 「もしや、《《紀伊| きい》》の方の生まれですかい?」 「紀伊か? …いや、生まれは磐城だ」  何故そんな事を訊かれたのかと思ったら、渡会と言う苗字は紀伊の方に多いらしい。嗚呼、と途中で思い至る。 「私は里子でね。渡会は、世話になった先の苗字だよ」  磐城から出た際に、恩師の《《伝手| つて》》で暫くの間、彼の親戚に預けられた。其の儘、渡会の姓を貰い此方で暮らしているのである。  恐らく、世話になった先の人々が紀伊に《《所縁| ゆかり》》のある家だったのだろう。 「嗚呼、そうなんで。…済いやせん、変な事聞きましたかね」 「いや、気にしないでくれ。今では気儘な一人暮らしだ、特に不便も無かったよ」  矢張り、彼は存外に繊細な人物かもしれない。外見の割に細かい事に気を配っている。 「って嗚呼、そうだそうだ。お前さん、此間直ぐに帰って仕舞ったろう」 「あ、あぁ…そ、そうでしたねェ。イヤ、その、家系の都合で犬が苦手でして」  目が泳いでいる。あの時の怯え様からして、本当に犬が苦手なのだろう。 「そうなのか…いや、其処では無いのだ。おきぐすりをだな」  置かせてほしいと言おうとしたら、言い切る前につんのめった。右足が木の根に引っ掛かったのだ。  鈍い痛みが足首に奔るのと同時に、《《泥濘| ぬかるみ》》に足を取られて盛大に滑る。片方の下駄は何処かにすっ飛んでしまった。 「うっ」 「旦那!」  地面に転がるのは回避したものの、嫌な足の捻り方をしてしまった。泥と草の汁で汚れたが其れどころではない。熱を伴った痛みを感じる。立てない。  驚いた表情の薬売りが目の前でしゃがんだ。私が抑えている足首を診る。 「大丈夫ですか?! …足を痛めちまいましたか」 「やってしまった…いたた」 「参ったな、今は傷薬の持ち合わせが無ェや…」  こんな怪我久々である。負ぶりましょう、と言う薬売りの申し出に迷いつつ一旦地力で立ち上がろうとした。その時だった。 ―おぅい。  そんな呼び掛けが聞こえた。低くくぐもった男性の声である。下方から聞こえてくる。  其の声を聞いた薬売りは、顔を強張らせた。ジローに遭遇した際の比ではないぐらい、緊張している。  脚を引き《《摺| ず》》る私を近くの茂みまで何とか誘導し、共に身を潜める。 ―おぅい、おぅい。  同じ調子で谺する其の声に、明らかに怯えていた。  怪訝に思って問い掛けようとした私の口を、咄嗟に塞ぐ。喋ってはならないらしい。彼の掌からは《《生薬| しょうやく》》の香りがした。  如何にも、気付かれてはならない相手の様だ。 ―おぅい、おぅい、おぅい。  徐々に謎の声は近付いて来ていた。もしや、相手は此方に気付いているのか?  其れに気付いた薬売りの顔が、《《益々| ますます》》《《蒼| あお》》くなる。  …いや、此れは拙い状況かもしれない。 「ええい、仕方ねェちょいと失礼!」  と、唐突に薬売りが叫んだ。すると呼び掛けの声も黙る。 「お、わ」  何だと思っていたら薬売りが私を抱え上げた。驚いて固まる私を余所に、元来た道を全速力で引き返し始める。  痩せているとは雖も私も成人男性である。相応の重さは有る筈だが、中々の足の速さだった。  抱えられた私は身体ががくがくと揺れるやら足はずっと痛いやら、更には濡れた草木が頭を掠めてしとどに濡れるやらで散々である。  だが、後ろから迫る声は遠ざかる様子も無い。抑揚の無い声は、唯只管に誰でもない誰かへと呼び掛けている。 ―おぅい、おぅい。  同じ速さで追って来ている。其の事実に気付いてぞっとした。  やがて、先程の蛇の像が祀られていた社へと戻って来た。漸く薬売りは私を降ろす。流石に息が上がっていた。 「ッイヤァ、しつけェ、な…」 ―おぅい、おぅい、おぅい。  此方が立ち止まったので、段々また近付いて来る。私はもう怯える事しか出来ない。 「く、薬売り。あれは、あれは人を害する者なのか」  震える声でそう訊くと、彼はそうだと答えた。 「ハァ…ッ此処いらが、縄張りじゃねェんですがね。…害する、どころか喰うんです、ハー、呼びかけで…騙して」  人喰いの《《化生| けしょう》》なのか。最悪である。 「あっし等にゃァ、普段は近付いてすら来ないんですがねェ…」  そう言って困った様に私を見る。少し考えて、視線の意味に気付いた。 「ま、まさか私を喰いに来ているのか? 自慢じゃないが、ほ、骨と皮しか無いぞ」  絶対に喰い出はない、肉付きなんて僅かである。何故でしょうねェと薬売りも困惑している。  正直痛いのも苦しいのも好きではない。喰い殺されるなんて堪ったものでは無い、無いが。  …此れ以上、薬売りを巻き込むのも気が引ける。私一人差し出して彼が無事で済むなら、結末としては多少ましやもしれぬ。 「…い、いざとなったら置いて行け、薬売り。お、囮ぐらいには」 「イヤイヤイヤ、冗談じゃありませんて。旦那を見殺しにしたら、夢見が悪すぎますわ」 ―おぅい、おぅい。  そんな問答をしている間にも声は近付いて来ている。もう暫くしたら、其の姿すらも捉えられそうな距離だった。  焦った顔で考えていた彼は、其処で何か思い出したのかアッと声を上げる。 「…旦那、其の。つかぬ事をお聞きしますけど…」 「な、何だ。私にで、出来る事か」 「…お《《小水| しょうすい》》とか出ませんか? 奴等は、不浄を嫌うんです」 「しょっ…。いや、出るならとっくに漏らしているな…」  其れを聞くと薬売りは苦笑した。  もう奴の足音すら聞こえて来ている。顔上げちゃァいけませんよ、と言われて私は大人しく頭を抱えた。素人が下手な動きをする訳にもいかない。  私を庇う様に立つ、彼の《《草鞋| わらじ》》だけが視界に映る。  と、其の時だった。 ―ゴォオオン…  山中に不釣り合いな、《《釣鐘| つりがね》》に似た音が唐突に響いた。身体の芯を揺らす様な低音が、辺りに反響する。薬売りが拙いと呟いて私を抱きかかえる。  続け様に、急な突風が轟音を伴って木々の間を通り抜けた。葉も枝も土くれも全てを撒き散らしながら、此方へ呼び掛けていた声へと向かって往く。  バキバキと枝が折れる其の音の向こうで、断末魔の如き悲鳴が上がった。 ―ギィイイィイッ!!  《《悍| おぞ》》ましい声に、思わず身が竦む。耳を《《劈| つんざ》》く様な何かが砕かれる音が響いていたものの、やがて静かになった。  薬売りの腕の力が緩んだので、恐る恐る顔を上げる。鳥打帽子を被った彼の頭の向こうの空に、見慣れぬ赤が映った。 「あ…?」  始めは、太陽かと錯覚した。しかし陽にしては赤すぎる。やがて其れに、縦長の瞳孔がある事に気付いた。  目だった。人の頭よりも大きな瞳が、此方を視ている。  半透明な鱗を纏った《《輪郭| りんかく》》も僅かに視認出来て、漸く蛇の横顔であるのを理解した。  人一人すら楽に呑みこめそうな其の大蛇は、此方をゆたりと再度一瞥しチロリと舌を出して消える。  …後には突風で荒れた社に、私と薬売りだけが残された。 「ヌシ、かい?」 「ヘイ、此の山の主です。あの社は、ヌシを祀るものですよ」  酷くなる前に治療をさせて欲しいと言う彼の申し出に従って、薬売り達が会合をしていた山中の建物へと移動した。元は荒れ寺だったのだろう、傷みは見られるが人が出入りしている痕跡がある。  緊急の備えも有るらしく、薬売りは枇杷の葉で出来た薬液を染み込ませた湿布を貼ってくれた。有難い。  布を巻いて固定して貰う間に、先程の出来事について話して貰う。 「普段は、山中の些事なんて《《無頓着| むとんちゃく》》な御方なんですがねェ。…旦那、何かしら功徳でも積みました?」  追い掛けて来る声の主を何とかしてくれたのは、あの古ぼけた社に祀られている山のヌシだったらしい。  特別な事はした記憶は無い。強いて言えば…。 「御社が在ったから、参拝して…。嗚呼、枇杷を一つ供えた」  そうだ。懐を探る。幸いにも、枇杷は落とす事も潰れる事も無く残っていた。黄橙色の二つの果実を見て、薬売りははァんと得心する。 「枇杷ですか。山中にも生えはしやすが…果実は市販の物ほど甘くは実らねェんでさ。ひょっとしたら、美味い枇杷を貰った礼だったのかなァ」  成程そうなのか。《《定命| じょうみょう》》の生命ではない者でも、美味い物は好きなのだろう。無意識の行動だったが、自分の命を結果として救ったらしい。善行はすべきと言う事か。  其れから結局、薬売りに負ぶって貰い山中を下る形になってしまった。余りにも情けない。情けないが、足を痛めている上に下駄は片方行方不明である。意地を張れる状況ですらない。  重くは無いかと尋ねたが、薬売りはイエ全くと平然と返して来た。思えば最初に遭遇した頃に背負っていた《《行李| こうり》》も、かなり重そうだった。流石にあれよりは私の方が重いだろうが、大して変わらないのかもしれない。  人に負ぶって運ばれるなんて経験は何時ぶりだろう。覚えている限りでは、磐城に居た時分が最後だった様な。小さな子どもの頃の話である。誰の背中だったろうか。父だったか、母だったか。そんな事をつらつらと思い出していると、ふと薬売りが思い出したように訊いてきた。 「旦那…違っていたらあれなんですが。直近で真冬の川で溺れた事、あります?」 「川でか。あぁ…情けない話だが、去年の《《師走| しわす》》に橋から落っこちて、溺れた事があるよ」  師走の頃だった。月の初め辺りに町中の橋を通りかかった時に、川に落ちた。真冬の冷たい水はあっと言う間に身体の自由を奪い、うっかり溺れ死にかけた。  誰かに助けられたらしいのだが、沈む途中で意識を失ったので命の恩人は判らず仕舞いだったのである。 「…や、もしやあの場に居たのか、お前さん」 「居たと言いますか、何と言いますか…嗚呼、此処だ」  恩人が判明するかもしれないと思っていたが、其れを聞く前に目的地に着いてしまった。  薬売りが示す方を見ると、何て事の無い木の幹に三本の線が刻んである。刃で彫り込んでいるらしい。 「此奴が道の印です。普段は着いたら一旦消しているんですがねェ…雨で急いてでもいたかね」  片手で其れに触れ、再び歩き出す。すると、一瞬で周囲の霧が深くなった。  何かが引っ掛かる様な感覚がして――其れから、何事も無く霧は晴れる。途端に少し気温も暖かくなった。  不思議な気分である。《《異邦| いほう》》から馴染みのある風景に戻って、妙に安心する。日はすっかり暮れてしまっていた。 「此処で宜しいんで? 座敷まで運びますよ」 「いや、大丈夫だ、《《忝| かたじけな》》い。…其れとも、お前さんも休んでいくかい?」  そう訊くと、イヤァ後が怖いんでと返された。何が怖いのだろうか。食い物は大して無いが、茶の一杯ぐらいなら出せなくもない。  私を担いで全力で走ったりしていたのだ。負ぶって此処まで送り届けもして呉れた。疲れているだろうし、多少休んでいっても良いのではと考えたのだが…。  ひょっとすると、家にジローが居ると思っているのかもしれない。入れ違いに帰っていればと思ったが、庭に彼の気配は無かった。 「ジローなら、今は不在だよ。皿に戻った河童を、《《諏訪| すわ》》まで送り届けに往ってしまった」 「え、諏訪にですか。通りで気配が無いとは思っていましたが…徳の高い御犬様だなァ」  如何やらジローの所為で遠慮した訳では無いらしい。しかし、此れ以上無理に引き留めるのもあれなので止めた。  替わりに、言い掛けていた事を思い出す。立ち上がろうとした彼の袖を慌てて掴んだ。 「嗚呼そうだ。薬売り、おきぐすりだ。私も薬を置かせて呉れないか」 「お、契約して頂けるんで。そいつァ願っても無い相談ですが」  途端にニコニコと商売人の顔をする。揉み手まで始めている様を見て、今度は私が苦笑した。現金な男だ。 「あぁ、薬の備蓄があると助かるのだ。態々買いに行くにはちと遠くてな」 「此の辺から《《薬問屋| くすりどんや》》はちょいと掛かりますねェ。じゃあ、また後日伺わせて貰いましょう」  もう一度しゃがんだ彼は、神妙な表情になる。 「…其れと、あの道を開けっぱなしにした奴に心当たりがあるんで、一緒に連れて来ましょう。謝罪させねェとあっし等の面子が立ちません」 「そ、そうか? 散々だったが、貴重な体験ではあったぞ」  何しろ山のヌシのご《《尊顔| そんがん》》なんて、普通に暮らしていたら拝めるものでは無い。ある意味有難いものではないだろうか。 「まァ、※※けじめ※※の話です。旦那は善い御人だから良いのですが、此れをいっぺん不問にしちまうと、まァたやらかすんでね」  成程そう言うものか。ならば仕方ない。そんじゃ失礼します、と今度こそ薬売りは帰って行った。  また独りに戻る。そうすると、一気に疲労が押し寄せて来た。ずっと気を張って、緊張していたのやも知れぬ。  手足は手当の際に洗いはしたので綺麗だったが、小袖も袴も泥と草の汁ですっかり汚れてしまっていた。乾いて来てはいるが生乾きだ。  脚を引き摺りながら私室へ向かう。先ずは着替えねば。腹も空いた。しかし、作り置きは無い。  「うーん…」  如何にも、何か簡単な物を作る気力も無い。座敷を通ると、ふと籐椅子に目が留まる。吸い寄せられ、ついつい其の儘座って仕舞った。  背を預けてしまうと猛烈な眠気に襲われる。心地良い。拙い。せめて一枚羽織るべきだがもう立ち上がりたくない。  だが腹が鳴っている。余りにも煩いので、懐に入っていた枇杷を思い出した。もう夕飯は此れで良いか。  臍の方から薄皮を剝くと、簡単にするりと剥ける。種は真ん中に入っているが、大きいので誤飲する事は無い。其の儘齧った。柿に似た食感だが、味は違う。優しい甘さの中に、僅かな酸味が残る。美味い。小さいので、あっと言う間に二つとも完食して仕舞った。  腹が満たされた訳では無かったが、胃に何かを入れる事が出来たので腹の虫は収まる。皮と種を処分せねばと思いながら夜の庭を眺めていたら、何時の間にか眠りに就いた。  夜中、隣に誰かが立つ気配があった。渡会、と戸惑う様に声が掛けられる。江ノ本の声だった。肩を揺すられる感覚。起きたいが、起きれない。如何にも眠い。  頬に誰かの冷たい指先が触れたのを感じながら、また深く寝入って仕舞った。  …起きると早朝だった。また雨が降っている。寝惚けながら身を起こすと、隣室に置いていた筈の羽織が身体に掛けてあった。枇杷の種も皮の残骸も、《《屑籠| くずかご》》に入れられている。  誰かが来ていたらしい。そう言えば江ノ本の声を聞いた気がする。寝入っていたから起こさなかったのだろうか。  右足の具合を確認する。多少は痛いが、歩けない程ではない。が、何だか身体が《《怠| だる》》い様な。風邪を引いたか。 「無理矢理起こしてくれても、良かったんだが」  ちょっとだけ、残念な気持ちになった。
薬売り再登場回。ちょっとだけ怖い話になります。 因みにヌシは功徳を積んだから出て来たと言うより、御饌(みけ)っぽい相手が何処の奴とも知れない何かに奪われそうだったので天罰を下しただけです。部外者を食べたら腹がくちたので帰っただけ。渡会君は人間なので、人外の理解は出来ません。これは一人称視点だからこそ可能な、勘違いで事が収まったお話ですね。知らぬが仏なりけり。

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