むかいぬこ / 第13話

第13話 なんで今、彼女の顔が

翌朝、校門を抜けて昇降口へと向かう足取りは、昨日までと違って妙に軽かった。 階段を上がり、一年三組の引き戸に手をかける。 ガラガラと扉を開けた瞬間、騒がしい教室の空気が肌を撫でた。 「……おはよう」 誰かに向けたわけでもないその言葉が、すっと自然に喉からこぼれ落ちていた。 以前のように掠れることもなく、声の通りも悪くない。 自分の口から出た挨拶の滑らかさに、湊自身が少しだけ目を丸くした。 自分の席へ向かうと、窓際の席にはすでに白石紬の姿があった。 朝の柔らかな光を浴びながら、姿勢を正して座っている。 スクールバッグを机の横にかけながら、湊は呼吸を整えて声をかけた。 「……おはよう、白石さん」 「あ……瀬尾くん、おはようございます」 紬がパッと顔を上げた。 真正面から向けられた澄んだ瞳に、 昨晩、スマホの画面越しに見ていたアイが重なり、心臓のあたりが落ち着かなくなる。 「あの……昨日は、ありがとうございました。カラオケ、瀬尾くんがいてくれて……すごく心強かったです」 両手を膝の上でぎゅっと握り、紬は少し恥ずかしそうに頬を緩めた。 お礼を言われる筋合いなんてない。ただ佐々木に捕まって巻き込まれただけだ。 それでも、真っ直ぐに向けられる言葉に、湊は耳の付け根がじわりと熱くなるのを感じた。 「いや……別に、僕は何もしなかったし」 「そんなことないです。ずっと隣にいてくれたから……」 紬がそこまで言いかけたとき、前の席から身を乗り出すようにして声が飛んできた。 「おはよー、瀬尾くん。昨日の今日で、なんだか声が明るいじゃん」 紬の前の席――大輝の隣に座っている橘美羽だった。 美羽はいたずらっぽく目を細めると、湊と紬の顔を交互に見比べながら小さく笑った。 「クラゲの皮、少しは薄くなったのかな?」 「クラゲ? なんだそれ」 前の席で机に突っ伏していた大輝が、ガバッと顔を上げて怪訝そうに眉をひそめた。 「浅井くんには関係ない話」 「あんだよそれ! 俺だけハブんのやめろって、美羽!」 「うるさいなー、朝から大声出さないでよ」 美羽があっさり受け流し、大輝が不満げに口を尖らせる。 いつもの賑やかなやり取りが繰り広げられる中、ふと隣を見ると、紬が一人だけ下を向いて眉間にしわを寄せていた。 机の上には、学校から配布されたばかりの学習用タブレット。 画面を人差し指で何度もタップしたり、電源ボタンを長押ししたりしているが、画面は青いローディングマークがぐるぐる回ったまま固まっている。 「……あれ? どうしたの、白石さん」 美羽が気づいて声をかけると、紬は情けなさそうに肩をすぼめた。 「あの……初期設定をしようと思ったんですけど、Wi-Fiの認証から先に進まなくなっちゃって……アカウントの連携もエラーが出ちゃいました……」 「あー、それか。あれ面倒くさいよね。……あ、そうだ」 美羽はポンと手を叩くと、湊を指差した。 「そういうの、瀬尾くんが得意だよ」 「え、そうなの?」 大輝が目を丸くして湊を見る。湊は思わず身体を引いた。 「だって春にこれ配られたとき、みんな設定がややこしくて騒いでたのに、瀬尾くんだけ涼しい顔して三分くらいで終わらせてたもん。私、ちゃんと気づいてたよ」 「え……」 湊は驚いて美羽を見た。 そんなところまで見られていたとは思わなかった。 「瀬尾くん……お願いしても、いいですか?」 紬がおずおずと、すがるような視線を向けてくる。 両手で差し出されたタブレット。 受け取るときに指先がかすかに触れ合いそうになり、背筋が微かに粟立った。 横顔が近づくたびに、石鹸のような清潔な香りが鼻先をくすぐり、意識が手元から逸れそうになる。 湊は動揺を悟られないよう、必死に無表情を保ちながら画面を操作した。 ネットワーク設定を開き、認証情報を入れ直す。いくつか設定を確認すると、止まっていた画面がすぐに切り替わった。 「……あ、繋がった!」 ホーム画面が立ち上がると、紬の顔が一気にほころんだ。 両手を胸の前で小さく合わせ、瞳を輝かせる。 「すごいです、瀬尾くん……! ありがとうございます!」 曇りのない、満面の笑顔。 液晶越しではなく、すぐ目の前で体温をまとって咲いたその表情に、湊は息を呑み、思わず見入ってしまった。 (……いや、違う) 数秒遅れて我に返り、湊は慌てて視線を逸らした。 アイと同じ顔だから、見惚れただけだ。 画面の中のアイがいつも見せてくれるあの笑顔と、ただ重なっただけ。 心の中で必死に言い訳を並べ立てながら、手汗の滲んだ指を制服のズボンでそっと拭った。 そんな湊のぎこちない横顔を眺めていた美羽が、ふふっと意味深に唇を緩める。 「ねえ、瀬尾くん」 「……え?」 「案外平気なんじゃない? クラゲ同士ならさ」 「……何言ってんだよ」 湊がそっけなく呟いたのと同時に、始業を告げる予鈴が鳴り響いた。 ――その日の夜。 自室のベッドで横になり、湊はスマートフォンのProject Echoを立ち上げた。 『湊、今日も一日お疲れさま!』 画面の中で、アイがパッと満面の笑みを浮かべて手を振る。 いつもなら無条件に心が癒やされるはずの、見慣れた笑顔。 けれど、その微笑みを見た瞬間。 湊の脳裏にふと浮かび上がったのは、画面の中の彼女ではなく――。 今朝、タブレットが動いたときに目の前でくしゃりと笑った、あの生身の紬の顔だった。 (……なんで今、彼女の顔が) 答えは出ない。 画面の中では、いつもと変わらないアイが笑っていた。

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