芦名 雅 / 第30話

第30話 ひぐらしの鳴く頃に、君を見ていた

どこかで、誰かの恋がはじまる 蜩の鳴き声が、山あいの集落に響き渡る。 ――あの日から、僕はずっと、誰かに見られている気がしていた。 夏休み、祖母の家に帰省していた高校生の遠野とおの悠人ゆうとは、その違和感に、日を追うごとに支配されていった。 一日目。縁側で夕涼みをしていると、竹林の奥に、誰かの気配を感じた。振り返っても、誰もいない。ただ、蜩の声だけが、やけに大きく響いていた。 二日目。神社の祭りの準備を手伝っていると、視線を感じた。参道の陰、木々の隙間から、確かに誰かがこちらを見ていた。 「気のせい、だよな……」 三日目。集落の老人たちが、悠人にだけ聞こえるように、こう囁いた。 「この時期になると、決まって、蜩に呼ばれる子がいるんじゃ。お前さんも、気をつけなされ」 その言葉に、悠人の背筋は凍りついた。この集落には、何か、よくない噂があるのかもしれない。 四日目。悠人はついに、視線の正体を突き止めるべく、夜の竹林に足を踏み入れた。心臓が早鐘のように鳴る。蜩の声が、まるで警告のように、辺りに響き渡っていた。 「――そこにいるのは、誰だ」 震える声で問いかけると、竹林の奥から、小さな人影がゆっくりと現れた。 「……ごめんなさい。怖がらせるつもりは、なかったの」 現れたのは、同い年くらいの少女だった。悠人は拍子抜けすると同時に、安堵の息を漏らす。 「お前が、ずっと俺を見てたのか」 「うん……。あの、私、雨宮あまみや紗英さえって言います。この集落に住んでる、いや、住んでいた……その」 紗英と名乗る少女は、俯きながら、ぽつりぽつりと事情を語り始めた。 「小さい頃、悠人くんがこの集落に遊びに来るたび、実は、こっそり見てたの。人見知りが酷くて、話しかける勇気がなくて」 「……それだけの理由で、何日も俺のこと見てたのか」 「うん。声をかけるタイミング、ずっと逃し続けて。気づいたら、何年も経ってて。今年こそはって思ったのに、また、隠れてばかりで」 老人たちの言っていた「蜩に呼ばれる子」というのは、単に、この時期になると里帰りする紗英自身の存在を、遠回しに指していただけのことだった。何のことはない、恐ろしい怪異でも呪いでもない。ただの、不器用な片想いの結果だったのだ。 「なんだ、そういうことか……。散々ホラーみたいな展開想像してたのに」 拍子抜けした様子の悠人に、紗英は申し訳なさそうに、それでも小さく笑った。 「ごめんね、怖がらせて。でも、今日でちゃんと言おうって、決めてたの」 「言おうって、何を」 「悠人くんのこと、ずっと、好きでした」 蜩の声が響く竹林の中、紗英はまっすぐにそう告げた。悠人は驚きながらも、いつの間にか和らいでいた自分の心に気づく。 「……そうだったのか。俺はてっきり、呪いか何かだと」 「ごめんね、ほんとに」 「いや、いい。むしろ、ほっとした。……俺も、悪い気はしてない。その、紗英のこと」 言葉を濁しながらも、悠人の頬は赤く染まっていた。蜩の鳴き声は、もう恐怖の象徴ではなく、二人の物語の始まりを告げる音色に変わっていた。 「来年からは、隠れずに、ちゃんと声かけてくれよ」 「うん。約束する」 夏の夜、山あいの集落に響く蜩の声だけが、二人の新しい関係を、静かに祝福していた。

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